Myriel

 フェミニズムは女性のものか


【 書 名 】庄司興吉・矢澤修次郎編、『知とモダニティの社会学』、に所収
【 著 者 】瀬地山角
【出 版 社】東京大学出版会
【発 行 年】1994年
【 価 格 】4944円
【KeyWords】フェミニズム、男性

【内 容】
【コメント】

 非常に大雑把に言ってしまえば、ここでの瀬地山さんの議論のポイントは次の
二つです。
 つまり、「フェミニズムは女性のものか」というのは、(1) 女性の中の利害対
立を看過している、つまり、「女性」というカテゴリーにのっとって、「フェミ
ニズムは女性のものである」と言えるのか、という問題提起、(2) 男性の〈フェ
ミニズム〉の可能性の問題、という二つの焦点を持っているわけです。

 第一に彼は、「女性学」(women's studies)というカテゴリーに対する問題
提起をしています。既存の女性学と呼ばれる種類の「研究」が研究の名に値する
ものがどのくらいあるのか、という疑問です。
 確かに、これまでの「女性学」は「女性の視点から」という問題意識先行型の
ものであったことは間違いないでしょう。彼はそこのところをついて、「問題意
識のはっきりしていない論文は、ほとんど評価できないが、問題意識だけが先立
つ論文というのも同罪である。」[p.188]と断じます。
 言い方は違いますが、ある英文学の研究者は、「フェミニスト批評は女性に任
せておけない」という旨の発言をしています。これも同じ主旨でしょう。やるな
ら、学問としてきちんしたことをやれ、ということ。(もちろん、アカデミズム
の内的メカニズムが女性研究者にとって不利なものであることは、両者の視野に
入っていることと思います。‥‥たぶん(^^;)。)
 そして、彼としてはむしろフェミニズムか「ジェンダー論」あるいは「ジェン
ダーの社会学」という言葉を使いたい、と述べています。

 第二に、フェミニズムの様々な流れとその特徴を簡潔にまとめています。そし
て、フェミニズムの目的とは、第一に性(gender)に関する問題を扱うことであ
って、それ以外の変数(階級、民族、など)は、論じるにしても副次的なものに
ならざるを得ない。フェミニズムに他の変数を扱うことを要求するのは、「八百
屋で肉を買おうとするようなもの」だということになります。スーパーマーケッ
トであれば話は別だけど、フェミニズムがそうなるべきか、あるいはなれるのか、
ここには瀬地山さんはあまり触れていません。
 そして、フェミニズムのやってきたこととは、「性という二つしかないカテゴ
リーの中に個人が押し込められてしまうことに対する反発であった」[p.193]
とし、ある個人としての女性が「社会の作り上げた女性という枠にはまりきらな
いことに対して、これは個人が悪いのではなくて、社会に問題がある、と考える
ところにフェミニズムは出発する」[ibid.]のである、と、まとめています。

 この反発、不快感は、女性に多く共有されてきており、それがゆえに、フェミ
ニズムは「女性」を「解放」するものであったわけです。
 ところが、ここで「女性」というカテゴリーが実は統一された実体を持った集
団ではなかった、というところから、問題が生じてきます。フェミニズムがスタ
ートした段階ではある程度統一の取れた集団を基盤としてきたということはあっ
ただろうし、また「統一の取れた集団」としての「女性=階級」を(仮に)置い
てしまうことで、ある面ではさまざまなマイノリティを抑圧しつつ、運動が進ん
できたということもあったかもしれません。
 でも、そうではなかったし、またフェミニズムがメジャーになって行くにした
がって、その基盤はどんどん広がって、多様な対象に対して語りかけることを余
儀なくされてきました。ここで、第一のポイントが問題になるわけです。つまり、
「フェミニズムは女性のものである」というその「女性」とは何なのか、という
問題ですね。すべての女性が同一の利害を共有している、という幻想は捨てなけ
ればならない。
 「女性が主婦へとつくられていく規範を批判することは正しいが、女性が主婦
になる自由は保証されるべきである。」[p.198] つまり、加藤秀一氏の言葉を
借りて言うなら、「規範を否定することと個々の女性が行為を行なうことを肯定
することの区別が曖昧であった」ということでしょうか[加藤、「フェミニズム
をフェミニズムから〈解放〉するために」、季刊『窓』1991年秋号]。(このあ
たり、瀬地山さんはより「個人としての女性」を重視するような形での立論を行
なっているようです。)
 そうした場合に、フェミニズムが持つ視点というものは、もはや「すべての女
性」という想像上のものには立脚できないということになるでしょう。「女性の
視点」は有効だけど、それは「女性」という性とイコールではない。だから、
「すべての女性のものでもなければ、女性だけのものでもないのだ。」[p.199]
性という二つしかないカテゴリーに個人が押し込まれることの不自由に対する不
快感の表明は、「女性」というカテゴリーに依拠しなくてもできるし、それだけ
の「普遍的価値」がフェミニズムにはある、と彼は主張します。ここから、「フ
ェミニズムは女性のものではない」ことの第二の主張点、「男性の〈フェミニズ
ム〉の可能性」の主張が展開されます。
 もちろん、男性がフェミニズムに関わる際の障碍というものはあるわけで、そ
のあたりは瀬地山さんもしっかりと認識しています。「どの女性にも女性全体を
語る資格など本当はない。でもそれ以上に男性にはないのかもしれない。」[p.
203]このあたりの、男性は「二重に他者」であるという点です。

 最後に、フェミニズムはすべての女性のものでもなければ、女性だけのもので
もない、それだけの「普遍的価値」を持ったものであるから、それはむしろ歓迎
すべきことだ、「女性」というアイデンティティに固執するよりはむしろ「ジェ
ンダーの正義」(個人が二つしかない性カテゴリーに閉じこめられていることに
対する不満)を掲げた方が発展の可能性があるのではないか、と締めくくられま
す。

(1994/06/25、コメントのみ1994/08/04)


This page written by TAKAHASHI, June (june.takahashi@nifty.ne.jp)