Myriel

 セックス/ジェンダー/欲望の主体(『ジェンダー・トラブル』第1章)


【 書  名 】『思想』、1994年12月号、1995年1月号に分載
【 著 者 】ジュディス・バトラー、荻野美穂訳
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1994年、1995年
【 価 格 】1400円(1994年12月号)
【  ISSN  】0386-2755 雑誌 04203-12(1994年12月号)
【KeyWords】ジェンダー、ポスト構造主義、主体

【 内 容 】
【コメント】
 ジュディス・バトラーの GENDER TROUBLE(Routledge、1990)の第1章を訳出
したものです。
 「フェミニズムは女のものか」(瀬地山角)についての紹介で言及しましたが、
フェミニズムの担い手としての女性の集合的アイデンティティというのは、実は
保証されたものではない。集合的アイデンティティを創出するためのある種のア
イデンティティ・ポリティクスが展開されてはじめて、担い手としての女性カテ
ゴリーが成立するわけですが、このことによって今度は女性内部のマイノリティ
が抑圧され、多様性・差異が意味を失うということが結果します。
 あるいは「セックス/ジェンダー」の区別は、通常、前者が生物学的な差異に
基づく性別であり、後者が文化的・社会的な意味での性差であるというのが通説
でした。しかし、バトラーが批判するのは、セックスを生物学的な意味での性別
であると想定することによって、実はセックスを科学的言説に委ねるとともに、
ある種の本質論の領域へとおしやってしまっているということです。
 フェミニズムのセックス/ジェンダーについてのロジックは、生物学的な意味
での性の区分があり、そしてその上に社会的、文化的なジェンダーがかぶさって
いるということになっているわけですが、本当にそうなっているだろうかという
ところからバトラーは出発します。
 彼女が依拠しているのは、フーコーのディスクールの理論です。実は、1994年
12月号はフーコーの没後10年の特集号だったりします。(亡くなったのは、1984
年6月)
 ジェンダーが文化的に生産されるもの、言説(ディスクール)によって構成さ
れるものであるということは、まず認められていると思います。「女はスカート
をはいている」というのはある「事実」であると考えられていますが、これは実
はディスクールであり、ジェンダーはこうしたさまざまなディスクールから構成
されているわけです。しかし、セックスと呼ばれるものはどうなのかというと、
実はこのセックスもさまざまな科学的言説によって構成されているわけで、それ
ならばセックスというものは、実は政治的に中立のものとして、「自然なるもの」
あるいは「言説以前のもの」という特権的な地位を与えられた存在として、まさ
に「作られたもの」に他ならないことになります。
 そうすると、先程のフェミニズムのロジックは、実はセックスという政治的に
ニュートラルな場を作り出すためのものでしかないということになります。セッ
クスとジェンダーというものがあるのではなく、セックスのディスクールとジェ
ンダーのディスクールがあることになる。そして、それぞれのディスクールの領
域でさまざまな衝突はあるわけだけれども、セックスとジェンダーの区別によっ
て、そしてフェミニズムの政治がジェンダーの領域を舞台としてしまうことによ
って(もちろん、フェミニズムは必ずしもこのように役割を限定しないこともあ
りますが)セックスのディスクールで働く(フーコーが言うような意味での)権
力関係や、セックスとジェンダーを区別する権力関係は隠蔽され、手の届かない
ところへ行ってしまうことになるでしょう。それは、まずい、ということですね。
 もしジェンダーが文化的なものであるなら、必ずしも「女/男」という二項対
立的な構造に囚われている必要はないのです。しかし実はそうなっている。それ
は、政治的にニュートラルであると見なされるセックスの領域で二項対立が前提
とされていることをジェンダーの領域が逆に反映しているということなのではな
いでしょうか。
 だから、セックスというものの産出は、ジェンダーと呼ばれるものに対してあ
る種の影響を有する、ジェンダーからの一つの作用であると理解されるべきであ
り、その意味ではセックスもまた文化的な領域であるということができます。ち
なみに歴史学の方では、女性の身体というものの認識がある形で「捏造」された
ものであるということが以前から指摘されていたりします。
 オルタナティブとしては、ジェンダーがディスクールによって構成されること
を前提とした上で、多様なディスクールによって多様なジェンダー、二項対立的
に「女/男」の枠に閉じこめられないジェンダーを創出していくことが考えられ
ます。必ずしも性は二つではないし、また、女という性は一つではない(リュス
・イリガライ)のです。この認識に至って、最初で触れたアイデンティティ・ポ
リティクスの危うさについて、わたしたちは十分に理解することができるように
なるでしょう。
 フェミニズム理論の最前線の一つです。

(1995/02/27)



This page written by TAKAHASHI, June (june.takahashi@nifty.ne.jp)