Myriel

 短大はどこへ行く


【 書  名 】短大はどこへ行く――ジェンダーと教育
【 著 者 】松井真知子
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】1997年12月20日
【 価 格 】3300円+税
【  ISBN  】4-326-29860-x
【KeyWords】高等教育

【 内 容 】(目次)

 はじめに

 第一章 変わりゆく短期大学
  1 ジェンダー化された高等教育
  2 高度経済成長と短大恒久化
  3 短大「冬の時代」を迎えて――低成長時代のサバイバル作戦――
  4 本書の問題設定

 第二章 白藤女学院短期大学
  1 白藤女学院の位置と歴史
  2 教育理念、スペース、ジェンダー構造
  3 寮――規制のなかの「自由」という幻想――

 第三章 白藤女学院のジェンダー文化
  1 女らしさの文化
  2 教職員――会議と校務――
  3 ジェンダー・ギャップ
  4 ジェンダーの政治

 第四章 学生たち
  1 やりたいことのなかに結婚は入ってない
  2 専業主婦なんてつまらない
  3 恋愛幻想・恋愛体験
  4 とりあえずOL

 第五章 クラスルーム 1
  1 捨てられる教科書、捨てられる二年間
  2 理想のクラスとは
  3 「ものいえぬ人」をつくる教育
  4 変化ははじまっているが

 第六章 クラスルーム 2
  1 教養教育か職業教育か
  2 すなおでは生き残れない
  3 実習――ボランティア精神の養成――
  4 学校と企業のくされ縁

 第七章 国際化とはどうすることか
  1 「国際化」という名の欧米志向
  2 エスニック趣味としてのアジア
  3 ふたつの文化の狭間で――「在日」学生の眼で見る――
  4 「内なる国際化」に向けて

 第八章 女性学は学生を変えるか
  1 女性学の位置づけ
  2 女性学はおもしろい
  3 女性学は疲れる――深く考えたらプチンと切れそうで――
  4 いろんなことを考えながら、生きていけそうな気がする

 第九章 短大はどこへ行く
  1 隠れたカリキュラム――ジェンダー構造とその文化――
  2 多様化する短大生
  3 性差別の解消を求めて――アメリカの大学改革(1)――
  4 多様化する学生と多文化主義――アメリカの大学改革(2)――
  5 短大は生きのびるか

 付論 研究方法をめぐって
  1 フィールドさがし
  2 研究する者・される者
  3 フィールドで
  4 分析のプロセス

 おわりに

【コメント】

 学校システムは、「国家のイデオロギー装置」として国民統合という機能を遂
行するものであり、内包する言語システムやカリキュラムを通じて文化的なフィ
ルターとして機能し、文化的階級の再生産に寄与するものでもある。ジェンダー
に関していえば、用いられるテクスト(教科書)、学校や教員によるインフォー
マルな文化の伝達などを通じて、「男らしさ」「女らしさ」が再生産される場で
ある。(特に日本では、「男は外で働き、女は内で家事・育児をする」という伝
統的性別役割分業規範にもっとも肯定的なのは、高校3年生だという調査結果も
ある。)
 しかし同時に、学校とは、構成員による「生きられた文化」が生成する場所で
もある。既存の価値規範やイデオロギーに対する同調だけでなく、さまざまな
「抵抗」も行なわれる場である。生徒・学生たちは、厳しい校則=拘束に対し、
同調もし、管理もされるが、同時に、それに対して「うまくやる」ことを通じ、
ささやかな「抵抗」も行なうし、笑い飛ばすことによってユーモアにも変えてし
まう。
 日本独自の「ジェンダー化された高等教育システム」そのものである女子短期
大学は、構造的には労働市場におけるジェンダー化を支えるシステムでもある、
同時にそれは、生身の若い女性が、学習し、生活する場でもある。すなわち、
「生きられた文化」の場であるのだ。
 本書は、エスノグラフィという手法を用いて、合州国の大学に勤務する著者が
白藤女学院(仮名)という日本の短大をフィールドに行なった調査を元に書かれ
た、女子短大の「生きられた文化」の記録と分析である。しばしば、扇情的なマ
ス・メディアの流す「短大生」についてのステレオタイプが社会に流通すること
があるが、それがいかに偏りのあるものであり、一般化することによって生身の
女子短大生への視線をゆがめ、理解を妨げてしまうか、そして、彼女たちの生
(なま)の語りはどんなものであるのか、真の問題点はどこにあるのか、などに
ついて、具体例に則して著者は述べようとしている。
 大学に勤務するものにとって一番耳がいたいのは、彼女たち短大生がどのよう
な授業を期待しているのか、実際に短大はそれを提供できているのか、というこ
とについての部分だろう(第五章)。学生は実によく、「いい講義」と「悪い講
義」を見分けることができる(もちろん、講義に出ていれば、の話)。その判断
能力を過小評価した現在の日本の大学の自己評価システムや「大学改革」は、十
分批判に値するだろう。
 短大の女性学教育についても、「やりました。学生もよかったと言ってくれま
した。」ではなく、学生たちの「本音」――「カッコいいし、できることならそ
うしたい。でもできそうもない。」「自分はふつうに生きるしかない。」――と
いったところにまで踏み込んでいる点が評価できる。また、短大生についてのス
テレオタイプを自ら実践してしまっているような「ケバい」学生でも、その陰に
は「シャープな批判精神」を表現できるような、別な側面をも併せ持っていると
いう発見もあった。ラウンジや寮生の自室で、ざっくばらんな雰囲気ができあが
るまでの人間関係を作り上げ、彼女たちの建前がはがれ落ちるまで話し込むとい
う努力の成果であると言えるだろう。

(1998/01/16)


This page written by TAKAHASHI, June (june.takahashi@nifty.ne.jp)