Myriel

 性現象論


【 書  名 】性現象論 ――差異とセクシュアリティの社会学
【 著 者 】加藤秀一
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】1998年9月10日
【 価 格 】3400円+税
【  ISBN  】4-326-65214-4
【KeyWords】解放、セクシュアリティ、境界性

【 内 容 】

 フェミニズム――未踏の理論/闘争のために

 【序】
  序章 性現象論に何ができるか

 【I】
  第1章 〈性的差異〉の現象学――差異・時間・倫理のプログラム
  第2章 〈解放〉への遡行――フランスMLFとセクシュアリティの問題
  第3章 ジェンダーとセクシュアリティ
  第4章 ジェンダーの困難――ポストモダニズムと〈ジェンダー〉の概念

 【II】
  第5章 女という迷路――性・身体・母性のスクランブル
  第6章 ジェンダーと摂食障害――探究のためのノート
  第7章 〈性の商品化〉をめぐるノート

 【III】
  第8章 フェミニズムをフェミニズムから〈解放〉するために
  終章  フェミニズムを半分だけ離れて――名づけ・応答・享受

【コメント】

 加藤秀一の文章を読むとき、わたしは常にある種の既視感にとらわれる。そし
てしばしば、文章を読みながら――また、加藤秀一の文章独特のリズムそして/
あるいはスタイルに酔いながら――、しかし文章を読んでいないかのように、言
い換えれば、織りなされる「ことば」の中にとらえられ、浮遊しているかのよう
な感覚に包まれる。
 加藤秀一の文のスタイルやリズムには独特の「香り」がある。それは、多分に
彼が慣れ親しんでいるさまざまな書き手の文体(および彼が親しんでいる音楽)
に由来するものだろう。
 今述べたようなわたしの感覚、既視感と浮遊感は、わたしが加藤秀一と共通の
基盤を――たとえばイリガライを、クリステヴァを、フーコーを、ジュディス・
バトラーを読んでいるという――持っているからだろうか。それもあるだろう。
しかし、それだけではない。
 あるいは、生育歴や学歴に近しいものがあるからだろうか。それもあるだろう。
しかし、それだけではない。
 あるいは、基盤とするディシプリン(社会学)が、取り組むべき課題として
持っているテーマ(ジェンダー/セクシュアリティ)が共通しているからだろう
か。それもあるだろう。しかし、それだけではない。
 ‥‥このぐらいにしよう。いくら言葉を重ねてもつきない共通性と、しかしそ
れだけではおさまらないというもどかしさがつきまとう。いずれにせよ、ほとん
ど常に、特に彼が、「ぼく」「僕」という一人称で語り出すとき(もっとも、そ
うした一人称をわたしは文章を書くときには用いることはないが)、そこにあた
かも自分がいて語っているような錯覚にとらわれてしまうことがあるということ
だけわかってもらえればよい。
 もちろん、共通点だけでなく相違点もたくさんある。音楽の趣味は大きく違う
し、わたしには彼のような行動力も、文才も、切れ味の良さも、スマートさもな
い。(ここでいうスマートさとはもちろん体型のことではない。)
 しかしなお、それでいながら彼の語りを自己の語りであるかのように錯覚して
しまうという既視感と浮遊感は、ひとことで言ってしまうならば、おそらくは二
人の「立場」がきわめて近似しているということに由来するのではないかと直感
する。つまりは彼が「男は自分がフェミニズムにとっての(文字通り)マージナ
ル・マンであることを、むしろ積極的に選びとるべきである」(本書184頁)と
いうときの、その〈境界性〉を認識しているということ、これである。(ただし
加藤秀一にとっての〈境界性〉は、瀬地山角が「フェミニズムの内側」にいなが
ら「マージナルな立場」にいると自己を定義するときに意味しているものとは異
なっている。)

 だが同時に、まさにこの最大の共通点が、加藤秀一とわたしとを隔てるもので
もある。〈境界性〉は共有していても、それは同じ〈境界〉に立っていることを
意味するものではない。「かわいい女の子」に惹かれつつ性差別の不当さを微塵
も疑わないと自己の内面が切り裂かれていることを書きつづる加藤秀一(本書
339頁)の文に既視感は覚えつつ――つまり〈境界性〉を持つということは共有
しつつ――、しかし、二人は同じ〈境界〉には身を置いてはいないのだ。したが
って、わたしが覚える浮遊感と既視感は、常に違和感と共にある。もちろんその
違和感は決して不快なものではないのだが。

(1998/09/12)


This page written by TAKAHASHI, June (june.takahashi@nifty.ne.jp)