Myriel

 パブリック・セックス


【 書  名 】パブリック・セックス――挑発するラディカルな性
【 著 者 】パット・カリフィア  訳・東玲子
【出 版 社】青土社
【発 行 年】1998年8月7日
【 価 格 】2800円+税
【  ISBN  】4-7917-5650-9
【KeyWords】セクシュアリティ クィア S/M ポルノグラフィ セイファー・セックス

【 内 容 】
【コメント】
 「ついていけないヒト」として一部で有名(?)なパット・カリフィアのア
ンソロジー。彼女は自分自身を「サディスト」で「レズビアン」で「フェミニ
スト」であると認識している。次のような彼女の言葉がそれをよく表わしてい
るだろう。
 「もし船が難破したとして、まったく普通のレズビアンとどうしようもない
マゾヒストの男とのどちらかといっしょに孤島に取り残されねばならなくなっ
たら、わたしは男のほうを選ぶだろう。」(p.238、「レズビアン・セクシュア
リティの秘密の側面」)
 この本の表題になっている「パブリック・セックス」とは、直接は論考「公
共の場でのセックス」で述べられていることと関わっている。彼女はこの言葉
を、アメリカの同性愛行為取締り強化の文脈で、政治的な意味合いを込めて使
おうとしている。
 しかし、このアンソロジーの中でもっとも著名な章は、「フェミニズムとサ
ド/マゾヒズム」(初出1980年)だろう。これは「レズビアン・セクシュアリ
ティの秘密の側面」(初出1979年)に引き続いて、彼女のS/M愛好者として
のカミング・アウトの論考である。
 しばしばマゾヒズムは、「女性の本質」と結びつけられて論じられる。「マ
ゾヒスト=服従的・受動的」という図式が、この社会の中での女性のステレオ
タイプと結びつけられているのだろう。また、精神分析にはそれを裏打ちする
ような研究も存在する(もちろんそうした見解に批判的な研究もある。詳しく
は、たとえばジョン・ノイズ、『マゾヒズムの発明』、青土社、などを参照)。
 フェミニストはこういった結びつきを、女の子はピンクが好きで、男の子は
青が好き、というのと同様の刷り込まれたものとして批判する。しかし、とカ
リフィアはそういった見解もまた拒絶するのだ。それはほとんどの場合、この
社会の中の女性のステレオタイプ的見解とM的精神・身体のあり方が混同さ
れ、いっしょくたに否定されてしまうからだ。そしてそれは、彼女が自分のも
のと信じることのできた性的アイデンティティを否定するものでもある。だか
らこそ彼女はそうした言説に抵抗するのだ。(具体的には、本書ではキャサリ
ン・マッキノンなどの反ポルノ活動家の発言などが名指しで上げられてい
る。)
 それは、レズビアンだったらこういうセックスをするはず、こういうセック
スが正しいはず、という決めつけへの抵抗だ。ある面現存する反ポルノ運動の
論調は、同性愛を否定する言説のそれと似てきているのではないかと思わせる
ところもある。要するに、同性愛にしろS/Mにしろ、「ヘンタイ」として片
づけてしまうわけだ。そういった言説をカリフィアは、近年のある種のフェミ
ニズムに見られるようなプライベートな境域への退行を伴わずに批判しようと
試みる。
 もちろん、今日のS/Mのありようが、社会の中の男性/女性の支配的なあ
りようと重なったりすることはあるに違いない。わたしたちは自己のセクシュ
アリティの形成にあたって、社会の影響を排除することはできないのだから、
それは当たり前だ。特にヘテロセクシュアルなS/Mの関係でそれは発現しや
すいだろうし、流通している性表現(ポルノグラフィ)の中でもそうだろう。
ある面、女性のマゾヒズムのほうが男性のマゾヒズムより一般には受け入れら
れやすいのかも知れない。(マゾッホの小説の中では、何よりもまず男性のマ
ゾヒズムが描かれていたのに!)
 しかしそれだけではないのだ、ということだ、たぶん。そしてまた反対に、
サド/マゾヒズムへの非難を、ジェンダー関係に起因する言葉で行なっていく
ことにも慎重にならなければならない。マゾヒストには「性的主体性」が存在
しないとか、サディストの「支配」を一意的にジェンダー関係に結びつけると
か……。そういった固定的な観念にとらわれないセクシュアルな快楽追求のあ
りようを肯定する、「解放の探究」がカリフィアのこのアンソロジーには一貫
して存在している。彼女はまず、アクティビストなのだ。

(02/09/03)


This page written by TAKAHASHI, June (june.takahashi@nifty.ne.jp)