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2010年07月14日
第12回
第12回の講義の概要です。7/14はフランスの革命記念日、つまりオスカルさまの亡くなった日でした。
○前回の続き:FFXから
・ユウナとティーダの父は、ともに戦った仲間
ブラスカ(男性、召喚士、ユウナの父)
ジェクト(男性、ティーダの父)
アーロン(男性、P C )
……親世代のホモ・ソーシャルな関係性
⇔子世代ではヘテロセクシュアルな関係(ユウナとティーダ)
・FFX は「父と子」の物語
ティーダ:父への相反する感情
高名なスポーツプレイヤーであるジェクトへの反感と、ペアになった愛情。
父の側からも。愛情はあるが、表現できない。
FFXはティーダが父を乗り越え(倒し)、父と和解する物語。
=典型的なエディプスの構造
・敵対するグアド族のシーモアの場合
母に執着し、のちに父を殺す。
=和解することのないエディプス
それゆえに失敗する。(ユウナたちに負ける。)
○物語の基本構造としてのエディプス
・エディプス神話が物語の基本構造として組み込まれていることが多い。
ティーダは母親の関心をめぐる父との葛藤が作中でも表現されている。
そのほか、DQ3など。
・父は常に子(ただし男の子)に乗り越えられる存在として設定されている。
○ハリー・ポッターにおける「父と子」
・ハリーには父親役が何人もいる。
ジェームズ・ポッター(経済面)
ダンブルドア(賢き父)
ハグリッド(優しき父)
シリウス・ブラック(頼もしき父)
スネイプ(ネガティブな父親像)
※母親役はモリー・ウィーズリー(ひとりだけ)
・「おとうさんがいっぱい」
=男の子の成長を描くための「物語のしくみ」(小谷真理)
わたしたちが慣れ親しんだ家族とは別種の関係だが、家族が担っている機能を代行している。実際に父親でなくても、エディプス関係における父の役割を担うキャラクターは存在しうるということ。
・ハリーの周辺の「父と子」関係は、単純な「乗り越え」ではない。
「父のようになりたい」とハリーが考えていることは、しばしばほのめかされている。
敵を倒すことは一種の「乗り越え」になる。
○シリーズにおけるその後
・「父」が消えていく
ジェームズの幻想への打撃
作中で死ぬキャラクターも何人か。(※あえて名前は伏せます。)
それと共に、「敵」の存在が大きくなる。
・最終的には、「ネガティブな父」との和解が、物語上大きな意味を持つ。
○考察1 エディプスは普遍的か?
・さまざまな物語にエディプス構造が組み込まれている。
普遍というより、むしろ繰り返し語られることで社会の中に遍在するようになる、「欲望のかたち」。
「オイディプスが普遍的なのは、それが、あらゆる社会につきまとう極限の置き換えであり、つまり置き換えられた表象内容であるからだ。この表象内容とは、すべての社会が自分の最も深みにある否定的なものとして絶対的におそれているもの、つまり欲望の脱コード化したもろもろの流れを歪曲するのである。」
(ドゥルーズ=ガタリ、『アンチ・オイディプス』上、河出文庫、p.334)
・エディプスの帰結
エディプスは男性のホモ・ソーシャルな空間へと子どもたち(男の子)をいざなう装置でもある。
1)FFXエンディング:父に迎え入れられる。
2)ハリー・ポッター:「名前を呼んではいけないあの人」との対決関係が強まる。
○考察2 オルタナティブ・ストーリー
・ユウナにおける「父と娘」
父ブラスカへの尊敬と愛情。
「父の娘」と見られがちだが、彼女自身は「父とは関係ありません」。
「父さんが好きだから、父さんを越えたい。」
→「偉大な父」を尊敬する娘から、対等に接することができる立場へ。
・女性には男性と同種のものを提示し得ないからこそ、こうした「別の物語」が紡がれるということか。
「戦闘美少女」たちは、限界と共に可能性を持っているかも知れない。(常に、ではない。)
投稿者 june : 2010年07月14日 11:44