2005年02月02日

いのちの女たちへ[増補新装版](田中美津)

【 書 名 】いのちの女たちへ――とり乱しウーマン・リブ論[増補新装版]
【 著 者 】田中美津
【出 版 社】パンドラ
【発 行 年】2004年11月
【 価 格 】3000円+税
【 ISBN 】4768478239
【KeyWords】ウーマンリブ

【 内 容 】
【コメント】

 リブ運動の担い手自身によって書かれた、リブの“スタイルブック”の新装版。この本が理解できれば、日本のウーマンリブの発想の、まあだいたい半分ぐらいは理解できると言ってよい。ただし、「わかってもらおうと思うは乞食の心」だと田中美津が本書で言い放つとおり、相手にすり寄って理解を求めようという態度はこの本にはカケラも存在しないので、受けとめ損ねるともうどうしようもないかもしれない危険な本でもある。
 原著は1972年。河出書房から文庫になって出たが、すぐ絶版。ところが2001年にパンドラから新装版が出ることになった(販売は現代書館)。さらに今回は新しく著者のコメントをつけた増補版。美津さん人気いまだ強し? 
 ちなみに田中美津は現在鍼灸師をしている。『何処にいようと、りぶりあん』(社会評論社)という著書もあるが(この本ではメキシコでの生活記録などが一つの核)、何をしていても彼女の生き方の中心にはリブの精神があるように思う。

投稿者 june : 01:31

2005年02月01日

フェミニズム理論辞典(マギー・ハム)

【 書 名 】フェミニズム理論辞典
【 著 者 】マギー・ハム著、木本喜美子・高橋準監訳
【出 版 社】明石書店
【発 行 年】1999年7月30日
【 価 格 】6000円+税
【 ISBN 】4-7503-1172-3
【KeyWords】フェミニズム理論

【 内 容 】
【コメント】

 Maggie Humm, The Dictionary of Feminist Theory (2nd edition), Harvest Wheatsheaf, 1995. の翻訳。
 フェミニズム・女性学・ジェンダー研究の分野の辞典/事典では、以前から明石書店からリサ・タトルの『フェミニズム事典』の翻訳があるし、岩波の女性学事典も出た。キーワード集も各社(ドメス出版、新曜社など)からいくつか出版されている。日本でもそれだけ、フェミニズムやジェンダー研究が蓄積され、受け入れられたということだろう。以下、本書を翻訳・監訳した立場からひとこと述べさせていただきたい。

 本書は、人名、書名、概念、キーワードなど、全部で600余の項目を含んでいる。配列は原語のアルファベット順だが、見出し語についての五十音順の目次が巻頭にあるほか、末尾には索引も完備されている。本文中に出てくる見出し語はゴシック表記もするようにしている。このあたりは、編集者と監訳者とで、できるだけ使いやすいものをと考え、配慮したつもり。(編集者の労力はたいへんなものであった。特記しておきたい。)
 見出し語には、日本ではなじみがない言葉も、かなり多く収録されている。英語圏・フランス語圏のフェミニズム理論を学ぼうとする学生・院生には便利な本だろう。ただ、あまり初心者向きではない。「わかりやすく書いた」と著者は述べているのだが、訳していてもかなり難解な文章に出くわした。できるだけ努力はしたつもりだが、それでもまだ平易でない記述はたくさんあると思う。(なお、原著にある誤りもいくつか引き継いでしまった。機会があれば訂正したい。)
 岩波の女性学事典が出て、本書も使命を終えたのではないかと思うことがある。それでもなお売れてくれるのなら、長い時間翻訳・編集作業に取り組んだ価値があったというものだが。

投稿者 june : 16:30

2005年01月08日

家父長制と資本制(上野千鶴子)

【 書 名 】家父長制と資本制
【 著 者 】上野千鶴子
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1990年
【 価 格 】2500円
【KeyWords】マルクス主義フェミニズム、労働、家族

【 内 容 】(目次)

 PART I : 理論篇

 第1章 マルクス主義フェミニズムの問題構制
 第2章 フェミニストのマルクス主義批判
 第3章 家事労働論争
 第4章 家父長制の物質的基礎
 第5章 再生産様式の理論
 第6章 再生産の政治
 第7章 家父長制と資本制の二元論

 PART II : 分析篇

 第8章 家父長制と資本制 第一期
 第9章 家父長制と資本制 第二期
 第10章 家父長制と資本制 第三期
 第11章 家族の再編 I
 第12章 家族の再編 II
 第13章 結び フェミニスト・オルターナティヴを求めて

 付論 脱工業化とジェンダーの再編成

【コメント】
 日本におけるマルクス主義フェミニズムの受容の基盤を築いた本。ほとんど日本で欧米の理論状況が紹介されていない時点で『思想の科学』に分載された上野のサーベイは貴重だっただろう。しかし、二元論(dual-systems theory)までしか紹介されていないなど、欠陥もある。さらにその後、上野の紹介した議論に基づいて、新しい理論展開や実証研究が日本独自で進むというような結果をもたらしたかというと、それほど大きい影響力があったということもない。(これは上野の責任ではない。)1990年代後半以降、労働社会学の領域での実証が徐々に蓄積されるようになって、ようやくマルクス主義フェミニズムも「生きた」ものになってきたといえるかもしれない。

投稿者 june : 16:04

2003年06月14日

フェミニズムはみんなのもの(ベル・フックス)

【 書 名 】フェミニズムはみんなのもの Feminism is for EVERYBODY
【 著 者 】ベル・フックス (bell hooks)
【 訳 者 】堀田碧
【出 版 社】新水社
【発 行 年】2003年5月15日
【 価 格 】本体1600円
【 ISBN 】4-88385-050-1
【 内 容 】(目次)

 はじめに フェミニズムを知ってほしい

 1 フェミニズム わたしたちはどこにいるのか
 2 コンシャスネス・レイジング たえまない意識の変革を
 3 女の絆は今でも強い
 4 批判的な意識のためのフェミニズム教育
 5 私たちのからだ、私たち自身 リプロダクティブ・ライツ
 6 内面の美、外見の美
 7 フェミニズムの階級闘争
 8 グルーバル・フェミニズム
 9 働く女性たち
 10 人種とジェンダー
 11 暴力をなくす
 12 フェミニズムの考える男らしさ
 13 フェミニズムの育児
 14 結婚とパートナー関係の解放
 15 フェミニズムの性の政治学 互いの自由を尊重する
 16 完全なる至福 レズビアンとフェミニズム
 17 愛ふたたび フェミニズムの心
 18 フェミニズムとスピリチュアリティ
 19 未来を開くフェミニズム

 訳者あとがき
 
【コメント】

 …でも、フェミニズム理論となると──だれも話を聞きたいと言わなくなるのだ。(…中略…)そういうことを言う人たちに、「じゃあどんなフェミニズムの本や雑誌を読みましたか?」「どんなフェミニストの話を聞きましたか?」とか「フェミニズムの活動をしている人を知っていますか?」とたずねると、皆の答えから浮かびあがってくるのは、フェミニズムが生活に入ってきたのはすべて間接的にであって、フェミニズムとは本当はどんなもので、何をしているのかについて、間近に聞いたりする機会はなかったということなのだ。 (p.6 「はじめに フェミニズムを知ってほしい」より)

 ベル・フックスである。フェミニズムというのが、これまで何を課題として取り組んできたのかを書いているコンパクトな本。同時にフェミニズム運動で、何がおかしくなっているかについても積極的に批判している。
 一時期、フェミニズムに接近したが、「何か変だな?」と感じて距離をおくようになった人の中には、この本で書かれていることを「ああそういうことだったのか!」と納得する人もいるのではないだろうか。

 この本のフェミニズムはオープンであることを志向している。北米の状況について書かれたものだが、日本でもあてはまるところがあるように思えた。
 リプロダクションについての記述は、熱が入っていていいです。「パワー・フェミニズム」への批判も著者の立場は明確。久々に気持ちの良いフェミニズムの本を読んだ気がする。

(written by yeswhome)

投稿者 june : 16:46

2002年09月08日

フェミニズム・スポーツ・身体(アン・ホール)

【 書 名 】フェミニズム・スポーツ・身体
【 著 者 】アン・ホール  監訳:飯田貴子・吉川康夫
【出 版 社】世界思想社
【発 行 年】2001年8月30日
【 価 格 】2600円+税
【 ISBN 】4-7907-0889-6
【KeyWords】スポーツ 身体性 カルチュラル・スタディーズ

【 内 容 】(目次)

 序文
 謝辞

 第1章 あるフェミニストの研究遍歴
 第2章 カテゴリー的研究から関係論的研究へ
 第3章 フェミニスト・カルチュラル・スタディーズ――その可能性
 第4章 身体の意味
 第5章 フェミニズム研究を「行う」ということ
 第6章 リベラルな行動主義からラディカルな文化闘争へ

 訳者あとがき
 参照文献

【コメント】
 スポーツのジェンダー(フェミニスト)研究は、女性に焦点を当てたもの、男性に焦点を当てたもの、両方を含めても、日本ではそうは多くない。「女性スポーツの研究」は実はかなりあるのだが、非常に古い枠組みのもので、たとえて言えば労働研究における「女子労働研究」と「労働のジェンダー分析」とぐらいの隔たりを感じる。(ちなみに「女性スポーツ」ということば自体が、男性が行うスポーツを主流のスポーツと考え、女性が行うスポーツを特殊化・周辺化するものである。)
 ということで、何かを学ぼうと思ったら、外国の文献に頼らざるを得ないのだが、翻訳でもなかなか手に入らない……と思っていたところに本書が訳出された。
 著者アン・ホールはカナダのアルバータ大学の、現在は名誉教授。1970年代半ばから女性運動にかかわり、スポーツと女性の研究を、フェミニズム理論を学びながら作り上げた人である。本書には彼女の初期の研究遍歴(どのようにしてスポーツのフェミニスト研究を構想するに至ったか)について語った章もおさめられており、それを読むと、欧米においてもスポーツのジェンダー研究がまだまだ周辺的であることをうかがえる。
 また本書は、具体的なスポーツ研究というよりは、立場表明や方法論・視角の検討などが中心である。その点からはもっとさまざまな研究が今後紹介されることが望ましいだろう。

投稿者 june : 21:10

2002年08月08日

近代フェミニズムの誕生(安達みち代)

【 書 名 】近代フェミニズムの誕生
【 著 者 】安達みち代
【出 版 社】世界思想社
【発 行 年】2002年8月20日
【 価 格 】2300円+税
【 ISBN 】4-7907-0948-5
【KeyWords】人権 女子教育 セクシュアリティ 思想

【 内 容 】(目次)

 第一部 生涯
  序章  ふたつの肖像画
  第一章 反逆者の生い立ち
  第二章 たった一人の革命
  第三章 愛、そして死

 第二部 作品
  第一章 合理的女子教育とコンダクトブック
       ――『女子教育考』『実生活からの物語集』『女性読本』
  第二章 人権思想と体制批判 ――『人間の権利の擁護』
  第三章 フェミニズム誕生の背景 ――『女性の権利の擁護』(1)
  第四章 フェミニズムの構図 ――『女性の権利の擁護』(2)
  第五章 文明、自然、エコロジー ――『スカンジナビアからの手紙』
  第六章 社会的自己、感性、セクシュアリティ、母性
       ――『女性の虐待、あるいはマライア』

【コメント】
 メアリ・ウルストンクラフトというと「リベラリズムに基づく近代フェミニズム理論の開祖」というのが一般的な理解だろう。『女性の権利の擁護』(A Vindication of the Rights of Woman)が主著だということを知っている人も多い。しかし、日本では彼女の生涯やその他の著作の内容などは意外に知られていない。本書はウルストンクラフトの生涯と主要著作に関する概観を行なったもので、ウルストンクラフトについて詳しく知りたいという人のためのかっこうの入門書となっている。
 メアリ・ウルストンクラフトは中産階級から没落しかかった家に生まれ、コンパニオン(裕福な老婦人の家に住み込んで話し相手になったり身の回りの世話をしたりする女性)、ガヴァネス(住み込みの家庭教師の女性)などを経験した後、文筆業で身を立てるようになる。イニシャルのみの匿名で書評を書いたり、翻訳や女性向け手引き書(コンダクトブック)を出版したりしたが、『女性の権利の擁護』(1792年)で一躍有名となった。
 彼女の思想は、明らかに当時のヨーロッパをゆるがしていた自由主義思想や啓蒙思想からの影響を受けているが、単純にロックやルソーの女性版焼き直しであるというものではなく、彼女の個人的な経験や主張に基づく再解釈をともなうものであることが述べられている。また、『女性の権利の擁護』ではあまり明確にはされていないが、彼女の生涯や小説『女性の虐待』(未完成原稿)の中には、セクシュアリティをめぐる彼女の強烈で個性的な考えが反映されていることがよくわかる。
 2002年初めには、死後200年を記念して編集された『フェミニズムの古典と現代―甦るウルストンクラフト』(アイリーン・ヨー編、現代思潮新社、原著は1998年)も日本で翻訳された。ウルストンクラフト・ルネサンス、とまではいかないが、近代フェミニズムの原点としての彼女の再評価の動きなのであろう。

投稿者 june : 21:20

2000年11月06日

女に向かって――中国女性学をひらく(李小江)

【 書 名 】女に向かって――中国女性学をひらく
【 著 者 】李小江  訳:秋山洋子
【出 版 社】インパクト出版会
【発 行 年】2000年5月30日
【 価 格 】2000円+税
【 ISBN 】4-7554-0099-6
【KeyWords】中国 女性学 リブ

【 内 容 】(目次)

 日本語版への序 ともに世界に向かうために

 序章   女に向かって
 第一章  根なしの耐え難さ
 第二章  心の故郷を求めて
 第三章  あなたはどこから来たの…
 第四章  マルクス主義の「帽子」
 第五章  「女と家政」の風波
 第六章  水火の苦難
 第七章  わたしも敏感だ
 第八章  性別と学問
 第九章  女性の衝撃波
 第一〇章 天は落ちてくるか
 第一一章 学者の度量
 第一二章 女権と人権
 第一三章 端材
 第一四章 女性界の大集合
 第一五章 「完璧」と「中庸」
 第一六章 女性と一体化する
 第一七章 なぜ嫉妬がないの? 中国女性学研究者の横顔
 第一八章 東と西のあいだ
 終章   終わりに ひとりの東方女性の自省

 付録一  中国における新時期の女性運動と女性研究
 付録二  日本の「中国女性史研究会」との交流会
 付録三  わたしはなぜ九五年世界女性会議NGOフォーラムへの参加を拒絶
      したか

 あとがきにかえて  李小江 中国女性学をひらく(秋山洋子)

【コメント】

 中国の女性学の流れには二つがあるという。ひとつは政府公認の婦女連、もう一つは「民間」のものである。「民間」といっても、「在野」ということではない。彼女ら/彼らはほとんどが大学などの研究機関に身を置いている。発言のありよう、活動の仕方、グループ形成のあり方などが、「公認」されたものでは必ずしもないということだ。
 本書は、その「民間」の女性学の流れに属する李小江の『走向女人――新時期婦女研究紀実』(河南人民出版社、1995年)の翻訳である。李小江は1951年生まれで河南省の鄭州大学で勤務していた時代に「女性学会」を設立し、女性学研究叢書である『婦女研究叢書』の出版を企画する等、大陸中国での女性学の基盤を築いた。
 本書は中国女性についての研究書ではない。何もないところから中国での女性学を手作りで作り上げてきた李小江の回想録・備忘録である。彼女の活動の記録であり、中国での女性学をどのように構想してきたかについての、短くはあるが主張に満ちた文章の集積である。
 彼女は常に「『西方』のフェミニズム」と言う。フェミニズムは普遍ではあり得ない、という問題意識がそこにある。「中国の女性解放は、ある特定の歴史の型、ある特定の意識形態の産物である。」[p.53]
 だから、まず彼女にとって女性問題とは、抽象的な概念上の産物ではなく、あくまで現実生活の中での彼女の体験と思いが出発点となっているものなのだ。幼い頃からの性別への挑戦と、結婚と、結婚生活の中で子どもを産みたいと願うようになったこと、そして母や妻であることと職業生活との「二重生活」「二重負担」、そうした二つの自己に切り裂かれていること。
 序章に述べられているこれらのことがらを読みながら、思い出したのは日本のリブ運動の中で語られた、また、その後繰り返し違ったかたちで違った語り手によって綴られたさまざまな自己をめぐる「ことば」だ。あえて本書のキーワードに「リブ」と記したのは、これが中国における「リブ」であると感じたからだ。
 その本書の訳者がリブ運動の担い手であった秋山洋子であるのは、決して「奇しくも」ではないだろう。
 李の個人的な体験とともに、もう一つ大陸中国全体の状況がある。大陸中国における「特定の歴史」とは何かというと、それはやはり社会主義であり、マルクス主義であり、しかもそれらは中国式に改変された社会主義であり、マルクス主義であるだろう。
 その中国におけるマルクス主義・社会主義がもたらした、中国女性・男性の生活における変化(それは社会主義の導入から「一人っ子政策」までの歴史と領域の幅を持つ)、特にジェンダー関係における変化の性格を彼女は次のようにまとめる。


  • 1 恩恵論。中国の女性解放は女性主導ではなく社会主義革命によって、いわば「天恵」として与えられた。

  • 2 先取り論。女性解放には「物質文明の高度な発展」(産業化の進展)という物質的条件、女性が意識して解放を求めるという主体的条件が整わなくてはならないが、中国の女性解放は社会的生産力が低く、女性の自我意識が欠落した状況の中で法的・制度的に先取りされた。

  • 3 昔帰り論。近年の経済改革の中で噴出・顕在化した女性問題の性格を言い表したもの。


 これらは決して「理論」ではなく「現実の正視」にすぎない、と彼女は言う。「わたしたちに欠けていたのは、現実を正視する勇気だった。」[p.101]
 さて、こう聞いて、彼女のこの言葉を「他人事」として聞き流してしまうことが、果たして何人にできるだろうか? 日本の、大都市部ではない地域のさまざまな「女性問題」についても同じことが言えるのではないか?(もっとも、現在の日本は「社会的生産力が低い」とはとうてい言えはしないが。)
 だから、この本は決して「ほかのくにのできごと」ではないのだ。そう思わせられた今日の一日であった。


 ――湖北省婦人友好交流代表団来訪を目前にした日に記す

投稿者 june : 15:15

1998年09月12日

性現象論(加藤秀一)

【 書 名 】性現象論 ――差異とセクシュアリティの社会学
【 著 者 】加藤秀一
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】1998年9月10日
【 価 格 】3400円+税
【 ISBN 】4-326-65214-4
【KeyWords】解放、セクシュアリティ、境界性

【 内 容 】

 フェミニズム――未踏の理論/闘争のために

 【序】
  序章 性現象論に何ができるか

 【I】
  第1章 〈性的差異〉の現象学――差異・時間・倫理のプログラム
  第2章 〈解放〉への遡行――フランスMLFとセクシュアリティの問題
  第3章 ジェンダーとセクシュアリティ
  第4章 ジェンダーの困難――ポストモダニズムと〈ジェンダー〉の概念

 【II】
  第5章 女という迷路――性・身体・母性のスクランブル
  第6章 ジェンダーと摂食障害――探究のためのノート
  第7章 〈性の商品化〉をめぐるノート

 【III】
  第8章 フェミニズムをフェミニズムから〈解放〉するために
  終章  フェミニズムを半分だけ離れて――名づけ・応答・享受

【コメント】

 加藤秀一の文章を読むとき、わたしは常にある種の既視感にとらわれる。そしてしばしば、文章を読みながら――また、加藤秀一の文章独特のリズムそして/あるいはスタイルに酔いながら――、しかし文章を読んでいないかのように、言い換えれば、織りなされる「ことば」の中にとらえられ、浮遊しているかのような感覚に包まれる。
 加藤秀一の文のスタイルやリズムには独特の「香り」がある。それは、多分に彼が慣れ親しんでいるさまざまな書き手の文体(および彼が親しんでいる音楽)に由来するものだろう。
 今述べたようなわたしの感覚、既視感と浮遊感は、わたしが加藤秀一と共通の基盤を――たとえばイリガライを、クリステヴァを、フーコーを、ジュディス・バトラーを読んでいるという――持っているからだろうか。それもあるだろう。しかし、それだけではない。
 あるいは、生育歴や学歴(学校歴?)に近しいものがあるからだろうか。それもあるだろう。しかし、それだけではない。
 あるいは、基盤とするディシプリン(社会学)が、取り組むべき課題として持っているテーマ(ジェンダー/セクシュアリティ)が共通しているからだろうか。それもあるだろう。しかし、それだけではない。
 ‥‥このぐらいにしよう。いくら言葉を重ねてもつきない共通性と、しかしそれだけではおさまらないというもどかしさがつきまとう。いずれにせよ、ほとんど常に、特に彼が、「ぼく」「僕」という一人称で語り出すとき(もっとも、そうした一人称をわたしは文章を書くときには用いることはないが)、そこにあたかも自分がいて語っているような錯覚にとらわれてしまうことがあるということだけわかってもらえればよい。
 もちろん、共通点だけでなく相違点もたくさんある。音楽の趣味は大きく違うし、わたしには彼のような行動力も、文才も、切れ味の良さも、スマートさもない。(ここでいうスマートさとはもちろん体型のことではない。)
 しかしなお、それでいながら彼の語りを自己の語りであるかのように錯覚してしまうという既視感と浮遊感は、ひとことで言ってしまうならば、おそらくは二人の「立場」がきわめて近似しているということに由来するのではないかと直感する。つまりは彼が「男は自分がフェミニズムにとっての(文字通り)マージナル・マンであることを、むしろ積極的に選びとるべきである」(本書184頁)というときの、その〈境界性〉を認識しているということ、これである。(ただし加藤秀一にとっての〈境界性〉は、瀬地山角が「フェミニズムの内側」にいながら「マージナルな立場」にいると自己を定義するときに意味しているものとは異なっている。)
 だが同時に、まさにこの最大の共通点が、加藤秀一とわたしとを隔てるものでもある。〈境界性〉は共有していても、それは同じ〈境界〉に立っていることを意味するものではない。「かわいい女の子」に惹かれつつ性差別の不当さを微塵も疑わないと自己の内面が切り裂かれていることを書きつづる加藤秀一(本書339頁)の文に既視感は覚えつつ――つまり〈境界性〉を持つということは共有しつつ――、しかし、二人は同じ〈境界〉には身を置いてはいないのだ。したがって、わたしが覚える浮遊感と既視感は、常に違和感と共にある。もちろんその違和感は決して不快なものではないのだが。

投稿者 june : 17:05

1997年10月08日

ワードマップ フェミニズム(江原由美子・金井淑子編)

【 書 名 】ワードマップ フェミニズム
【 編 者 】江原由美子・金井淑子
【出 版 社】新曜社
【発 行 年】1997年9月1日
【 価 格 】本体2600円+税
【 ISBN 】4-7885-0611-4
【KeyWords】フェミニズム 理論

【 内 容 】(目次)

 視座としてのフェミニズム      ‥‥‥‥‥‥ 江原由美子
 ラディカル・フェミニズム      ‥‥‥‥‥‥ 伊田久美子
 リベラル・フェミニズム       ‥‥‥‥‥‥ 細谷実
 レズビアン・フェミニズム      ‥‥‥‥‥‥ 富岡明美
 フェミニズムのなかのレイシズム   ‥‥‥‥‥‥ 鄭暎惠
 フェミニズム文学批評        ‥‥‥‥‥‥ 小林富久子
 精神分析とフェミニズム       ‥‥‥‥‥‥ 加野彩子
 ポストモダン・フェミニズム     ‥‥‥‥‥‥ 金井淑子
 日本フェミニズム論争史(1)母性とセクシュアリティ
                   ‥‥‥‥‥‥ 加野彩子
 日本フェミニズム論争史(2)フェミニズムと国家
                   ‥‥‥‥‥‥ 西川祐子
 宗教とフェミニズム         ‥‥‥‥‥‥ 掛川典子
 身体/生体とフェミニズム      ‥‥‥‥‥‥ 高橋さきの
 エコロジカル・フェミニズム     ‥‥‥‥‥‥ 萩原なつ子
 マルクス主義フェミニズム      ‥‥‥‥‥‥ 古田睦美
 ポスト・マルクス主義フェミニズム  ‥‥‥‥‥‥ 岩本美砂子

【コメント】

 「ワードマップ」シリーズとしては異色の「大項目」編成とも言える本書は、「フェミニズム」と名付けられている知のあり方についての見取り図を提供しようというものである。
 理論的には最先端の到達点を提供しつつ、しかも記述としては簡明で理解しやすいものに、という要請は、筆者たちにとって過重のものであったのではないかとも思われるが、それぞれの章はそれぞれの分担要求に十分に応えている。いや、ただ応えているだけではなく、フェミニズムそのものに内在する問題点・論争点のうちのいくつかも合わせて浮き彫りにしており、ここで提示された見取り図が不変のものではなく、変わりつつあるもののある一瞬をとらえたスナップショットでしかないことも示唆している。
 あえて言うならば、法学やグローバリズムなどにほとんど言及されていないことなどが難点ということになるだろうが、それはいたしかたないところであるかもしれない。

投稿者 june : 17:52

1996年05月04日

フェミニズム入門(大越愛子)

【 書 名 】フェミニズム入門
【 著 者 】大越愛子
【出 版 社】筑摩書房(ちくま新書)
【発 行 年】1996年3月20日
【 価 格 】680円
【 ISBN 】4-480-05662-9
【KeyWords】入門書、理論

【 内 容 】(目次)

 第一章 フェミニズムの快楽
  1 フェミニズムとは
  2 フェミニズムの快楽
  3 フェミニズムと男性

 第二章 フェミニズムの潮流
  1 リベラル・フェミニズム
  2 マルクス主義フェミニズム
  3 ラディカル・フェミニズム
  4 精神分析派フェミニズム
  5 ソーシャリスト(社会主義)・フェミニズム
  6 アナキスト・フェミニズム(アナーカ・フェミニズム)
  7 エコロジカル・フェミニズム
  8 現象学フェミニズム
  9 ポストモダン・フェミニズム
  10 階級、人種、民族、セクシュアリティなどと交差するフェミニズム思想

 第三章 日本のフェミニズムの展開
  1 啓蒙的婦人論
  2 社会主義婦人論
  3 『青鞜』フェミニズム
  4 アナキズム女性論
  5 母性主義フェミニズム
  6 戦後民主主義フェミニズム
  7 ウーマン・リブ
  8 エコ・フェミ論争
  9 八〇年代フェミニズム
  10 九〇年代フェミニズム

 第四章 フェミニズムの理論的挑戦
  1 フェミニズムの基本理念
   a.家父長制
   b.ジェンダー
   c.セクシュアリティ
   d.リプロダクション
   e.ファロセントリズム
  2 現代フェミニズムのキイワード
   a.性暴力の政治学
   b.ポルノ論争
   c.国家と性
   d.資本主義と女性搾取
   e.フェミニスト・エシックス
   f.フェミニズム批評

 むすびにかえて
 主な参考文献
 事項索引

【コメント】

 新書ではありますが、一点を除いてしっかりした造りの入門書です。
 本体の第二章から第四章では、フェミニズムの各ジャンル、日本のフェミニズムの流れを、要点をおさえつつ、単なる概観に留まらずに筆者独自の視点を全面に出して説明しています。特に、第三章は非常にしっかりした論旨で、分量はともかく、読みごたえがあります。諸概念の解説も、わかりやすく、つぼをおさえていると言えるでしょう。
 しかし、それだけに参考文献が弱いのが残念。入門書の一つの使命に、「次に読む本を示唆できること」ということがあると思いますが、この一点が欠けています。
 ところで、フェミニズムにやや抵抗があるという人は、第一章をとばして第二章から読んだ方がよいでしょう。第一章は、マニフェスト的なところもあって、やや刺激が強いようです。それだけに、抵抗力がない人は流されてしまうし、抗体反応を示しやすい人は気をつけて、ということ。

投稿者 june : 07:07

1995年11月21日

ジェンダーの社会学(岩波講座・現代社会学11)

【 書 名 】岩波講座・現代社会学11:ジェンダーの社会学
【 著 者 】上野千鶴子ほか
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1995年11月2日
【 価 格 】2100円
【 ISBN 】4-00-010701-1
【KeyWords】ジェンダー、社会学理論、労働、アイデンティティ

【 内 容 】(目次)

 差異の政治学                 上野千鶴子

〈ジェンダーと知の再生産〉
 ジェンダーと社会理論             江原由美子
 ジェンダーとテクスト生成            関  礼子
 労働のジェンダー化              大沢 真理
 「ジェンダーと政治」の未来図         天野 正子

〈ジェンダーとアイデンティティ・ポリティクス〉
 ジェンダー化された身体を超えて        蔦森 樹
 「きれいな体」の快楽             加藤まどか

〈ジェンダー研究の射程〉
 フェミニスト・エスノグラフの方法       春日キスヨ
 ジェンダーの困難               加藤 秀一
 ジェンダー・階級・民族の相互関係       伊藤 るり
 Overview:ジェンダー研究の現状と課題     瀬地山 角

【コメント】
 「講座」と名のつくシリーズは、その時点でのアカデミックな研究の到達点を示すという任務を常に背負っていますが、このシリーズもまたその責を逃れることができないものです。そして、その任務を十分に果たしているということが言えるでしょう。
 上野論文・江原論文は、「ジェンダー」という概念が社会学理論および社会科学理論に及ぼしたインパクトと、その後の概念の展開を、ジェンダー概念に対する批判をも交えながら概観するもので、たいへんわかりやすい論文であると共に、議論の最先端を紹介しているという点で、これから社会学(特にジェンダー論)を学ぼうとしている人にとっては、見逃すことのできない文章でしょう。
 関論文・大沢論文・天野論文は、それぞれ、文学テクスト・労働・政治の分野でのジェンダー化の過去と現状(そして未来?)を描き出すもので、関論文は、「さんせう太夫」のケーススタディに多くの紙面を割いているという制限はありますが、それぞれの分野に関心がある人にとっては面白く読めるものでしょう。
 第2部「ジェンダーとアイデンティティ・ポリティクス」におさめたれた2編は、共に「身体」をとりあつかったものです。「身体」が社会学の対象になるということは、少し前なら考えもつかなかった新しい分野なのですが、蔦森さんという、いわゆるアカデミズムの外にいる人と、加藤まどかさんという最若手(30歳)を起用することで応えています。なお、加藤まどか論文は95年の日本社会学会で報告されています。その時は、若干地味な報告だったので、ほかの報告におされていましたが、内容としては充実したものです。女性雑誌・男性雑誌の中でどのように女性の「きれいな身体」が描かれているかの分析です。
 春日論文・伊藤論文は、ジェンダーの記述の方法と他の分析視角(エスニシティ・階級)とのクロスをいかに考えるかというもので、実際のケーススタディや幅広い考察にはかかすことのできない問題を取り扱っています。その間に挟まれている加藤秀一論文は、ここに置かれているのが多少不自然ではありますが、一種「テクストによる運動」とも言うべき論調と、彼独特の語り口で、「読ませて」しまうのはさすがです。
 瀬地山論文は、ジェンダーをめぐる議論のサーベイで、彼が文章末尾で書いている結論めいたことよりも、日本でジェンダーをめぐる議論の状況がどのようなものだったのかということについて注意を払って読むべきでしょう。

投稿者 june : 00:09

1995年09月16日

女性・ネイティヴ・他者(トリン・T・ミンハ)

【 書 名 】女性・ネイティヴ・他者――ポストコロニアニズムとフェミニズム
【 著 者 】トリン・T・ミンハ (訳)竹村和子
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1995年8月25日
【 価 格 】3000円
【 ISBN 】4-00-002950-9
【KeyWords】ポストモダン・フェミニズム、第三世界、言語、ポスト植民地主義

【 内 容 】(目次)

 I 無限に映し合う「書きもの」の鏡の箱からの社会参与
 II ネイティヴィズムの言語
   ――男が男から聞き取る科学的会話としての人類学――
 III 差異――「特別な第三世界の女の問題」
 IV おばあちゃんの物語

【コメント】
 女にとって、特に第三世界出身の女にとっての、「語る」あるいは「書く」ということの意味とは何なのか?
 しばしば言われるのは、「語る」主体であるためには、自分が何であるか――つまりアイデンティティがはっきりとしていないと「語る」ことができないということだ。だから、彼女たちは自分が何者であるかを追い求めようとする。いわゆる「アイデンティティ・ポリティクス」である。「女の作家」「有色人の女」としての周辺性や少数性を強調して、それを自らの立場として積極的に用いるというやり方だ。
 しかし、それは、ある面では有効でも、逆にその周辺性や少数性の強調がステレオタイプの解釈を呼び込むことがある。つまり、周辺性の強調・少数性の強調は、中心/周辺、多数/少数のディコトノミー(二分法)を前提としたものであるからだ。
 確かに先に述べた通り、何らかの「アイデンティティ」がないと「語る」ことができない、あるいは語っても意味のない言葉の羅列にとどまってしまうということはある。だから、何らかのアイデンティティの強調は出発点ではある。しかし、最終目標ではない。
 分裂しつつ、(トリン・ミンハの言葉を借りれば)ハイブリッドの場所から「語る」こと――そこに彼女の戦略がある。これはおそらく、現代フランスのポスト構造主義の思想、特に、ジュリア・クリステヴァ、エレーヌ・シクスー、リュス・イリガライらの議論との深いかかわりの中で提起されてきた問題だろう。特に「ハイブリッドの場所」という発想には、クリステヴァの「ポリローグ」の概念が色濃く影を落としているようだ。
 トリン・T・ミンハは1952年ヴェトナム生まれ。1970年にアメリカに移住し、1980年以降、映画製作で著名となった。代表作は『ルアサンブラージュ』(1982年)、『姓はヴェト、名はナム』(1989年)。ポストコロニアニズム関連の論文も多数ある。

投稿者 june : 23:57

1995年03月02日

装置としての性支配(江原由美子)

【 書 名 】装置としての性支配
【 著 者 】江原由美子
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】1995年1月20日
【 価 格 】2987円
【 ISBN 】4-326-65164-4
【KeyWords】理論史、権力、ラディカル・フェミニズム、身体

【 内 容 】


 装置としての性支配
   ――90年代上の・江原論争への中間総括――

II
 上野千鶴子氏の「文化主義批判」を批判する
 フェミニズムとは何か
 「性支配」論への覚え書き
 「社会的権力」の理論化はいかにして可能なのか
   ――「文化主義批判」論争再考――

III
 労働中心主義とフェミニズム
 フェミニズムとジェンダー
 権力装置としての家族
 セクシャル・ハラスメントのエスノメソドロジー
   ――週刊誌にみる解釈の政治学――
 従軍慰安婦について
 女性問題と人口問題
   ――女性学的観点から――
 結婚しないかもしれない症候群
   ――現代日本における結婚のリアリティ――

IV (『時の法令』『MIND TODAY』誌での連載:タイトル省略)

【コメント】

 江原由美子さんの第四論集です。
 かなり寄せ集め的な印象が目次からはするのですが、論集の骨格をなしているのは、第二波フェミニズムの原点に一度立ち返るということと、今までを踏まえて新たな理論構築への作業をおこなうということだと思います。
 たとえば、「フェミニズムとは何か」論文では、第二の波のフェミニズムの主要著作(ケイト・ミレットの『性の政治学』、ベティ・フリーダンの『新しい女性の創造』、シュラミス・ファイアストーンの『性の弁証法』)を読み返すことを通じて、フェミニズムとは「認識主体としての女性」を確立することを通じて社会的権力の発見へと進んだのだ、という指摘がなされます。これは、江原さんが近年取り組んでいる「社会的権力の理論化としてのラディカル・フェミニズム」という方向につながっていきます。(「『社会的権力』の理論化はいかにして可能なのか」)

投稿者 june : 00:30

1995年02月27日

セックス/ジェンダー/欲望の主体(ジュディス・バトラー)

【 書 名 】『思想』、1994年12月号、1995年1月号に分載
【 著 者 】ジュディス・バトラー、荻野美穂訳
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1994年、1995年
【 価 格 】1400円(1994年12月号)
【 ISSN 】0386-2755 雑誌 04203-12(1994年12月号)
【KeyWords】ジェンダー、ポスト構造主義、主体

【 内 容 】
【コメント】
 ジュディス・バトラーの GENDER TROUBLE(Routledge、1990)の第1章を訳出したものです。
 「フェミニズムは女のものか」(瀬地山角)についての紹介で言及しましたが、フェミニズムの担い手としての女性の集合的アイデンティティというのは、実は保証されたものではない。集合的アイデンティティを創出するためのある種のアイデンティティ・ポリティクスが展開されてはじめて、担い手としての女性カテゴリーが成立するわけですが、このことによって今度は女性内部のマイノリティが抑圧され、多様性・差異が意味を失うということが結果します。
 あるいは「セックス/ジェンダー」の区別は、通常、前者が生物学的な差異に基づく性別であり、後者が文化的・社会的な意味での性差であるというのが通説でした。しかし、バトラーが批判するのは、セックスを生物学的な意味での性別であると想定することによって、実はセックスを科学的言説に委ねるとともに、ある種の本質論の領域へとおしやってしまっているということです。
 フェミニズムのセックス/ジェンダーについてのロジックは、生物学的な意味での性の区分があり、そしてその上に社会的、文化的なジェンダーがかぶさっているということになっているわけですが、本当にそうなっているだろうかというところからバトラーは出発します。
 彼女が依拠しているのは、フーコーのディスクールの理論です。実は、1994年12月号はフーコーの没後10年の特集号だったりします。(亡くなったのは、1984年6月)
 ジェンダーが文化的に生産されるもの、言説(ディスクール)によって構成されるものであるということは、まず認められていると思います。「女はスカートをはいている」というのはある「事実」であると考えられていますが、これは実はディスクールであり、ジェンダーはこうしたさまざまなディスクールから構成されているわけです。しかし、セックスと呼ばれるものはどうなのかというと、実はこのセックスもさまざまな科学的言説によって構成されているわけで、それならばセックスというものは、実は政治的に中立のものとして、「自然なるもの」あるいは「言説以前のもの」という特権的な地位を与えられた存在として、まさに「作られたもの」に他ならないことになります。
 そうすると、先程のフェミニズムのロジックは、実はセックスという政治的にニュートラルな場を作り出すためのものでしかないということになります。セックスとジェンダーというものがあるのではなく、セックスのディスクールとジェンダーのディスクールがあることになる。そして、それぞれのディスクールの領域でさまざまな衝突はあるわけだけれども、セックスとジェンダーの区別によって、そしてフェミニズムの政治がジェンダーの領域を舞台としてしまうことによって(もちろん、フェミニズムは必ずしもこのように役割を限定しないこともありますが)セックスのディスクールで働く(フーコーが言うような意味での)権力関係や、セックスとジェンダーを区別する権力関係は隠蔽され、手の届かないところへ行ってしまうことになるでしょう。それは、まずい、ということですね。
 もしジェンダーが文化的なものであるなら、必ずしも「女/男」という二項対立的な構造に囚われている必要はないのです。しかし実はそうなっている。それは、政治的にニュートラルであると見なされるセックスの領域で二項対立が前提とされていることをジェンダーの領域が逆に反映しているということなのではないでしょうか。
 だから、セックスというものの産出は、ジェンダーと呼ばれるものに対してある種の影響を有する、ジェンダーからの一つの作用であると理解されるべきであり、その意味ではセックスもまた文化的な領域であるということができます。ちなみに歴史学の方では、女性の身体というものの認識がある形で「捏造」されたものであるということが以前から指摘されていたりします。
 オルタナティブとしては、ジェンダーがディスクールによって構成されることを前提とした上で、多様なディスクールによって多様なジェンダー、二項対立的に「女/男」の枠に閉じこめられないジェンダーを創出していくことが考えられます。必ずしも性は二つではないし、また、女という性は一つではない(リュス・イリガライ)のです。この認識に至って、最初で触れたアイデンティティ・ポリティクスの危うさについて、わたしたちは十分に理解することができるようになるでしょう。
 フェミニズム理論の最前線の一つです。

投稿者 june : 00:26

1994年12月04日

フェミニズム理論(日本のフェミニズム(2))

【 書 名 】日本のフェミニズム (2) フェミニズム理論
【編  者】井上輝子・上野千鶴子・江原由美子 編集協力・天野正子
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1994年10月13日
【価  格】2000円
【 ISBN 】4-00-003902-4
【KeyWords】理論、知識批判、近代批判

【 内 容 】

 1 フェミニストによる知識批判

  女性学を作る/ジェンダー/「男性中心主義」/哲学とフェミニズム/
 女性と仏教

 2 労働と身体 〜フェミニストの視点から「近代」を問う

  女性史/マルクス主義フェミニズム/エコロジカル・フェミニズム/歴史社
 会学/身体史

 江原由美子による解説
 参考文献表・読書案内あり

【コメント】
 1巻「リブとフェミニズム」より、実はこちらの方が先に出版されています。(第1回の配本)
 残念ながら「よせあつめ」の感が強いのは、さまざまな広がりを持ち、さまざまな文脈で展開されている理論を1冊にまとめようというのが無理なのだ、ということなのではないかと思います。それにしても、「解説」の突っ込みが足りないのではないでしょうか? 悪いものであるというわけではないんですが、思い切りにも欠けるし、収録したものの要約をするよりも、もっと大胆に切りまくってよかったのでは。JICCの『フェミニズム・入門』に収録されているぐらいの「勝手に総括」は岩波ではできないということなんだろうか、うーむ‥‥。

投稿者 june : 22:39

1994年11月29日

リブとフェミニズム(日本のフェミニズム(1))

【書  名】日本のフェミニズム(1) リブとフェミニズム
【編  者】井上輝子・上野千鶴子・江原由美子 編集協力・天野正子
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1994年11月14日
【価  格】2000円
【ISBN】4-00-003901-6
【KeyWords】ウーマンリブ、思想、セクシャリティ、マイノリティ

【内  容】

 日本のウーマンリブ運動の中で、また、リブ運動について書かれた文章のアンソロジー。

 1 リブの声
  リブの産声/リブと新左翼/コレクティブの息吹/中絶と妊娠/リブの母性

 2 主婦リブ
  主婦とおんな/主婦からの出発/主婦フェミニズム

 3 リブの思想的鉱脈
  個を超える思想/個に還る思想

 4 マイノリティ・フェミニズム
  障害者フェミニズム/レズビアン・フェミニズム/在日外国人フェミニズム

 上野千鶴子による解説、読書案内つき

【コメント】
 ここに収録されたこれらの文章を読んでいると、つくづくと「いま」に通じる何かが感じられる。それは、「いま」を生きているわたしたちを取り囲む状況が当時と変わらないせいなのか、「いま」を生きているわたしたちが当時を生きた彼女たちにおよばないせいなのか。20年から25年前、わたしが生まれる前か生まれて間もない頃、これだけの問題が意識されていたのだということに驚きを感じる。その驚きはすぐに、驚かざるを得ない自分の不甲斐なさへのいらだちに変わってゆくのだけれど。
 リブの中で書かれた文章だけでなく、当時を振り返って書かれた文章も多くおさめられている。だが残念ながら、当時運動の中で書かれたもの(上野の解説の中でしばしば引用されている)の力強さにはそれらは及びもつかない。もちろん、力強さを持たない言葉も多く書かれ、それらは力強さを持たないがゆえに今日まで残っていないものであるのかもしれないのだが。
 ・・・「いま」を生きているわたしたちは、そうした言葉を持ち得るだろうか?

(written by Ayako TAKAHASHI)

投稿者 june : 18:33

1994年09月14日

女性と資本主義 (古田睦美)

【 書 名 】『女性学』(日本女性学会)、2号、に所収
【 著 者 】古田睦美
【出 版 社】新水社
【発 行 年】1994年
【 価 格 】2000円
【KeyWords】マルクス主義フェミニズム、論争史

【 内 容 】
【コメント】
 論文の正式タイトルは「女性と資本主義――『マルクス主義フェミニズム』の理論的枠組」。筆者の修士論文の発展したもので、5年を超す時間に渡ってねりあげられてきたものです。マルクス主義フェミニズムの成立、基本的問題構成、理論的枠組みと論争パラダイムの展開について簡潔にまとめられています。
 日本でマルクス主義フェミニズムというと上野千鶴子さんですが、彼女の立場というか、紹介の仕方に日本での受容がしばられているようなところがあるのは否めないところ。上野さん以外の紹介と整理の仕方をしているものとして、十分読みごたえがある論文だと思います。
 内容は専門的で、初学者にとってわかりよいものではないけれど、マルフェミの文献リストの海の中で溺れかけている者にとっては救いの手となるでしょう。
 特に、「マルクス・ルネッサンス」と関連づけてマルフェミの問題構成を説明したり、マルフェミの理論構成の発展を三段階に分類したり、論争のパラダイムを整理したりと、鋭い着眼とユニークなまとめが目につきます。論争のダイナミズムをわかりやすく提示してもくれるはず。

投稿者 june : 17:19

1994年08月04日

フェミニズムは女性のものか(瀬地山角)

【 書 名 】庄司興吉・矢澤修次郎編、『知とモダニティの社会学』、に所収
【 著 者 】瀬地山角
【出 版 社】東京大学出版会
【発 行 年】1994年
【 価 格 】4944円
【KeyWords】フェミニズム、男性

【内 容】
【コメント】

 非常に大雑把に言ってしまえば、ここでの瀬地山さんの議論のポイントは次の二つです。
 つまり、「フェミニズムは女性のものか」というのは、(1) 女性の中の利害対立を看過している、つまり、「女性」というカテゴリーにのっとって、「フェミニズムは女性のものである」と言えるのか、という問題提起、(2) 男性の〈フェミニズム〉の可能性の問題、という二つの焦点を持っているわけです。
 第一に彼は、「女性学」(women's studies)というカテゴリーに対する問題提起をしています。既存の女性学と呼ばれる種類の「研究」が研究の名に値するものがどのくらいあるのか、という疑問です。
 確かに、これまでの「女性学」は「女性の視点から」という問題意識先行型のものであったことは間違いないでしょう。彼はそこのところをついて、「問題意識のはっきりしていない論文は、ほとんど評価できないが、問題意識だけが先立つ論文というのも同罪である。」[p.188]と断じます。
 言い方は違いますが、ある英文学の研究者は、「フェミニスト批評は女性に任せておけない」という旨の発言をしています。これも同じ主旨でしょう。やるなら、学問としてきちんしたことをやれ、ということ。(もちろん、アカデミズムの内的メカニズムが女性研究者にとって不利なものであることは、両者の視野に入っていることと思います……たぶん。)
 そして、彼としてはむしろフェミニズムか「ジェンダー論」あるいは「ジェンダーの社会学」という言葉を使いたい、と述べています。
 第二に、フェミニズムの様々な流れとその特徴を簡潔にまとめています。そして、フェミニズムの目的とは、第一に性(gender)に関する問題を扱うことであって、それ以外の変数(階級、民族、など)は、論じるにしても副次的なものにならざるを得ない。フェミニズムに他の変数を扱うことを要求するのは、「八百屋で肉を買おうとするようなもの」だということになります。スーパーマーケットであれば話は別だけど、フェミニズムがそうなるべきか、あるいはなれるのか、ここには瀬地山さんはあまり触れていません。
 そして、フェミニズムのやってきたこととは、「性という二つしかないカテゴリーの中に個人が押し込められてしまうことに対する反発であった」[p.193]とし、ある個人としての女性が「社会の作り上げた女性という枠にはまりきらないことに対して、これは個人が悪いのではなくて、社会に問題がある、と考えるところにフェミニズムは出発する」[ibid.]のである、と、まとめています。
 この反発、不快感は、女性に多く共有されてきており、それがゆえに、フェミニズムは「女性」を「解放」するものであったわけです。
 ところが、ここで「女性」というカテゴリーが実は統一された実体を持った集団ではなかった、というところから、問題が生じてきます。フェミニズムがスタートした段階ではある程度統一の取れた集団を基盤としてきたということはあっただろうし、また「統一の取れた集団」としての「女性=階級」を(仮に)置いてしまうことで、ある面ではさまざまなマイノリティを抑圧しつつ、運動が進んできたということもあったかもしれません。
 でも、フェミニズムがメジャーになって行くにしたがって、その基盤はどんどん広がって、多様な対象に対して語りかけることを余儀なくされてきました。ここで、第一の点が問題になるわけです。つまり、「フェミニズムは女性のものである」というその「女性」とは何なのか、という問題です。すべての女性が同一の利害を共有している、という幻想は捨てなければならない。
 「女性が主婦へとつくられていく規範を批判することは正しいが、女性が主婦になる自由は保証されるべきである。」[p.198] つまり、加藤秀一氏の言葉を借りて言うなら、「規範を否定することと個々の女性が行為を行なうことを肯定することの区別が曖昧であった」ということでしょうか[加藤、「フェミニズムをフェミニズムから〈解放〉するために」、季刊『窓』1991年秋号]。(このあたり、瀬地山さんはより「個人としての女性」を重視するような形での立論を行なっているようです。)
 そうした場合に、フェミニズムが持つ視点というものは、もはや「すべての女性」という想像上のものには立脚できないということになるでしょう。「女性の視点」は有効だけど、それは「女性」という性とイコールではない。だから、「すべての女性のものでもなければ、女性だけのものでもないのだ。」[p.199]性という二つしかないカテゴリーに個人が押し込まれることの不自由に対する不快感の表明は、「女性」というカテゴリーに依拠しなくてもできるし、それだけの「普遍的価値」がフェミニズムにはある、と彼は主張します。ここから、「フェミニズムは女性のものではない」ことの第二の主張点、「男性の〈フェミニズム〉の可能性」の主張が展開されます。
 もちろん、男性がフェミニズムに関わる際の障害というものはあるわけで、そのあたりは瀬地山さんもしっかりと認識しています。「どの女性にも女性全体を語る資格など本当はない。でもそれ以上に男性にはないのかもしれない。」[p.203]このあたりの、男性は「二重に他者」であるという点です。
 最後に、フェミニズムはすべての女性のものでもなければ、女性だけのものでもない、それだけの「普遍的価値」を持ったものであるから、それはむしろ歓迎すべきことだ、「女性」というアイデンティティに固執するよりはむしろ「ジェンダーの正義」(個人が二つしかない性カテゴリーに閉じこめられていることに対する不満)を掲げた方が発展の可能性があるのではないか、と締めくくられます。

投稿者 june : 17:13

1994年06月25日

ポリローグ(ジュリア・クリステヴァ)

【 書 名 】ポリローグ
【 著 者 】ジュリア・クリステヴァ  足立・沢崎・西川ほか訳
【出 版 社】白水社
【発 行 年】1986年
【 価 格 】3800円
【KeyWords】フランス思想、文芸批評、ポスト構造主義、精神分析

【 内 容 】(目次)

 ニヒリズムの彼方へ 〜日本語版への序文
 緒言

 1 文学の政治性
 2 過程にある主体
 3 ひとつの自己同一性から別の自己同一性
 4 ポリローグ
 5 物質、意味、弁証法
 6 述語機能と語る主体
 7 言語学の倫理
 8 リズム的制約と詩的言語
 9 場所の名
(Julia Kristeva, Polylogue, Paris, Editions du Seuil, 1977. の抄訳)


【コメント】

 本書の表題にもなっている「ポリローグ」という語(これは例によってクリステヴァの造語であって、もちろん辞書を引いてもでていない)の概念の簡単なまとめをしてみたい。

 日本語に「二重人格」という言葉がある。この言葉には、なんとはなしに何やら悪い意味がこめられているような気がする。しかし、実際わたしたちの人格は二重どころか、四重・五重にもなっているのではないだろうか。クリステヴァをフランス語で読んでいる時の〈わたし〉と『めぞん一刻』をめくっている時の〈わたし〉、デートしている時の〈わたし〉と下宿で寝っころがって一人でテレビをみている時の〈わたし〉、月曜2限の「ミクロ経済学」の講義を聴いている時の〈わたし〉と3限に「社会思想史総論」に出ている時の〈わたし〉‥‥これらの〈わたし〉はあきらかに異なる、複数の〈わたし〉である。
 クリステヴァが本書でおこなっていることは、この主体の多ロゴス(ポリ‐ローグ)性を見つめること、主体を単一なロゴスとしてではなく、もろもろの論理・ことば・存在のモザイクである存在としてとらえること、である。「語る主体」は単一の象徴秩序ではない。主体を単一なるものへ解消することは抑圧であり、他者を排除するパラノイア的な固定なのである。
 ポリローグはどこで産み落とされるのか? クリステヴァによれば、それは「ル・セミオティック(原記号態:ことばのリズム、イントネーション)とル・サンボリック(記号象徴態:言語において記号・意味のレベルにあるもの)の衝突するところ」でである。たとえばそれはフィリップ・ソレルスの、句読点のまったくない『H(アッシュ)』という小説の中で、あるいは詩的言語の中で。詩的言語こそは、近代的主体、単一の象徴秩序を、破砕し、粉々にし、爆発させ、ポリローグへと再構成するものなのである。
 クリステヴァにとってこのポリローグはまた、ひとつの賭でもある。
 「『ポリローグ』はひとつの賭である。(‥‥)特異な言行為のただ中に、そこにみずからを措定する、肯定的な、単一の主体、すべての人がもつ模倣し得ないもの、取り込まれ得ないものに呼びかける単一の主体が目覚めることは可能なのだ、という賭である。
 『一なる復活』に賭けるのではない。諸々の言語活動(‥‥)における死(‥‥)の、その度ごとに特有なさまざまな止揚に賭けるのである。」(本書、pp.12-13)
 これは危険な賭ではある。特に、彼女が、セミオティック/サンボリックの理論装置を、無限定に社会へ適用するときに、その危険性は最大化する。
 しかし、わたしはあえてこの賭にのろう。抑圧する〈一なるもの〉から自らを解放するために。閉ざされている自己を「開く」ために。そしてなによりも、西洋的な「一者」の論理と日本的な「甘え」の論理のいまだ交錯している現代日本社会の中で、両者の崩壊を乗り越えていくために。

(コメントは1987/12/17当時のもの)

投稿者 june : 17:06