2010年11月26日

ことばとセクシュアリティ(カメロン&クーリック)

【 書 名 】ことばとセクシュアリティ
【 著 者 】D. カメロン、D. クーリック
【 訳 者 】中村桃子、熊谷滋子、佐藤響子、クレア・マリィ
【出 版 社】三元社
【発 行 年】2009年
【 価 格 】2730円(税込み)
【 ISBN 】4883032523
【KeyWords】言語、セクシュアリティ、メディア

【内容】(目次)

 第1章 つながりを作る
 第2章 セックスを語る、セックスを考える――セクシュアリティの言語的、ディスコース的構築
 第3章 ジェンダーはセックスとどう関係しているのか?言語、異性愛そして異性愛規範
 第4章 アイデンティティとしてのセクシュアリティ――ゲイとレズビアンのことば
 第5章 アイデンティティを超えて――ことばと欲望の関係
 第6章 言語とセクシュアリティ――理論、研究および政治

 解説(中村桃子)

【コメント】

クィア言語研究への道案内

 本書は、Cameron, D and Kulick, D, Language and Sexuality, Cambridge University Press, 2003、の邦訳である。巻末には、訳者の一人である中村桃子によって、本書の内容と本書に対する批判等がまとめられていて、たいへん便利である。手っ取り早く中身について知りたい読者は、こちらを参照していただくのがもっともよい。以下では、巻末のまとめとは少し違った角度から、本書のテーマと視角について紹介してみることにしたい。
 その中村自身にも『ことばとフェミニズム』(勁草書房、一九九五年)、『ことばとジェンダー』(勁草書房、二〇〇一年)といった著作があるが、本書で取り扱われる題材は“セクシュアリティ”である。これは何も違った対象を取り扱っているということではない。セクシュアリティとジェンダーは、日本語で「性」という言葉で示されることがらの、それぞれ別の相といえるからだ。両者は区別しなければならないが、切り離せるものではない。
 本書でも、いくつかの事例を通して、このことが説明されている。たとえば、アメリカのとある大学の学生寮で、その場にいない「すごくゲイのやつ」についてうわさ話をしている男子学生たちは、うわさ話の対象である学生の性的なふるまいについて話をしているのではない(第3章の例(3))。会話の中で取り上げられているのは、むしろ「男性性の欠如」(「足が細くて白い」「女のバレーボール選手のようなショートパンツをはいている」等)なのである。ここでは、「男らしさ」に欠けるというジェンダーへの言及によって、「すごくゲイのやつ」というセクシュアリティについての語りが行われている。そして同時に、うわさ話をしている学生たちは、自分たちがそういった存在とは別ものであること、「男らしさ」を備えた「異性愛」の男性であることをも、お互いに確認している。つまり、わたしたちの社会の異性愛規範は、ジェンダー規範とセットになっているのだ。
 フェミニストの研究、特にラディカル・フェミニズムの視点に立った研究も、ジェンダーとセクシュアリティの結びつきについて強調してきたことは確かである。しかし、本書の著者たちによると、ラディカル・フェミニズムは性的抑圧をジェンダー抑圧の反映であると見なしがちだという(本書一三六頁)。セクシュアリティをジェンダーの問題系に還元せず、その独自性を強調するために、カメロンとクーリックが依拠するのはクィア理論である。
 クィア理論が何であるかを簡単に説明するのは、いささか困難である。というか、そもそも指し示すべき単一の「理論」が存在しない。クィア理論とは、必ずしも求心性があるとはいえない諸理論の複合体なのである。だがあえていうならば、「異性愛規範の批判的検討」(本書二七九頁)という点では一致していると思われる。
 したがってクィア理論は、必ずしも「クィアな存在」、つまり同性愛者や両性愛者、トランスセクシュアルなどだけを対象とするわけではない。ゲイ男性やレズビアンの経験も、異性愛の文化や制度と無関係には理解することができないからだ。本書でもカメロンとクーリックは、セクシュアル・マイノリティの言語表現について取り上げるだけではなく、異性愛者たちの語りやアイデンティティ形成にも関心をよせる。先ほどの男子学生たちの会話分析もそうだ。彼らは「すごくゲイのやつ」について語ることによって、自らが異性愛者であることを確認している。異性愛であることとは、「同性に関心がないこと」によって定義されるものなのだ。
 こうした「異性愛であるか否か」という性的アイデンティティに関する確認は、常に行われる必要があり、現に行われている。異性への性的な関心の表明や異性の関心の獲得は、特に思春期には、個人の「社会的価値」と結びつけて評価されもする(本書第3章の例(4))。それゆえ時に過剰なものともなりがちである。すでに非異性愛者であるかもしれないとうすうす自覚している者にとっては、繰り返される確認の「儀礼」は、限りなく苦痛なものともなる。
 個人の性的アイデンティティとは、常に「問いに付されている」――プロセスとして存在するものだということだ。ジュディス・バトラーは「ジェンダーはパフォーマンスである」と述べたが、セクシュアリティも、さまざまな実践――本書で描かれているように、特に言語実践――を通してパフォーマティブに構成されているものといえる。これまでの研究では、ともすると「ゲイである」という性的アイデンティティが先にあって、「ゲイ・アイデンティティ」を持つものの語りとして「ゲイことば」があると考えられてきたが、むしろ逆に、具体的な言語実践を通して、特定の性的アイデンティティが文脈に応じて構成される、と考えなければならないだろう。
 このように、既存の「言語とセクシュアリティ研究」への批判と、それにかわる視角を提示している本書は、言語のクィア研究への道しるべとして重要な位置を占めているといえる。日本でも二〇〇七年一〇月にクィア学会が設立されたばかりである(訳者の一人であるクレア・マリィは設立大会での基調講演者であった)。研究の本格化が予感される時期の、タイムリーな出版であったといえよう。広く関心を集めてほしい一冊である。

投稿者 june : 19:25

2008年02月14日

少女マンガジェンダー表象論(押山美知子)

【 書 名 】少女マンガジェンダー表象論
       ――“男装の少女”の造形とアイデンティティ
【 著 者 】押山美知子
【出 版 社】彩流社
【発 行 年】2007年
【 価 格 】2310円(税込み)
【 ISBN 】4779112443
【KeyWords】メディア、少女、アイデンティティ

【 内 容 】(目次)

第1章 “男装の少女”キャラクターの出発点
第2章 「傍流」としての“男装の少女”
第3章 “男装の少女”の成長
第4章 “男装の少女”の反復と再構築

【コメント】

■ジェンダーに敏感でありたいと願う読み手と、そして描き手/書き手のために

 戦後日本の少女向けコミックでは、『リボンの騎士』のサファイヤを出発点として、さまざまな〈男装の少女〉が描かれてきた。確かに彼女たちは、既存のジェンダー規範を服装と行動の面で越境しようというキャラクターとして設定されているが、実は限界もある。多くの場合少女たちの〈男装〉は、第二次性徴前や、結婚前つまり異性愛関係に入る以前の一時的なものとされている。また、単独でしか登場しないこともしばしばである(物語中や、作品の集団内に一人しかいない存在として描かれていることが多い)。場合によっては、むしろジェンダー規範を強化するような、戯画的な存在=道化としてしか描かれていないこともある。
 こうした長い歴史を持つ〈男装の少女〉という表象の影響力と意味を、顔の造作や眼の描き方、服の色やデザインといった視覚的な表現の分析を取り入れて再評価していることが、本書の大きな特徴である。第一章では『リボンの騎士』、第二章では一九六〇年代に描かれた〈男装の少女〉たち、第三章では『ベルサイユのばら』のオスカル、第四章では『ベルばら』以降の諸作品が取り上げられるが、これまで多かったストーリー中心の解釈だけでは得られない評価が、それぞれの作品について与えられている。キャラクターの空間配置とジェンダー表象の関係についての指摘(右から左へ時間が流れる日本のマンガに独特の「画面右側=能動的/左側=受動的」という図式が、「男性的/女性的」という関係に重ねられていること)などは、近年のマンガ研究の成果を十分に取り入れたものだといえる。雑誌掲載版の参照、単行本化されたものとの異同の確認、インタビューなどのさまざまな資料の活用といった地道な作業の上に、こうした分析が立脚していることも忘れられてはならない。
 特に第四章での『ベルサイユのばら』の分析は、ジェンダーに敏感にありたいと望む表現者にとってもきわめて示唆的である。作者の池田理代子は、オスカルに単に軍服を着せるだけのものとして〈男装〉をさせたのではない。『リボンの騎士』では微妙に隠蔽されていた身体性の問題を回避することなく表現するといった、テーマ上の試みもある。さらにそれに加え、男性キャラクターともその他の女性キャラクターとも異なる表現でオスカルを描くという、視覚表現上のさまざまな挑戦があって初めて、〈男装〉という性別越境が既存のジェンダー秩序を相対化する力を持つことができるのだということが、説得的に示されている。男性キャラクターと対するときと他の女性キャラクターと対するときでのオスカルの顔の描き分けや、年齢の経過による顔の造作の変化への着目がそれである。第四章後半で議論されているように、掲載誌『週刊マーガレット』の〈男装の少女〉が登場する同時期の作品と対比すれば、『ベルばら』における〈男装の少女〉の表現技法と、この作品の中で〈男装〉という性別越境に与えられている意味の独自性が、よりはっきりと理解できるだろう。
 つまり〈男装の少女〉とは、描きにくいキャラクターなのである。マンガという、ある意味表現上の「お約束」を守ることでなりたっている世界では、特にそうなのだ。既存の表現上のジェンダー・コードにおさまりきらない彼女たちは、描き手にまずそのことで困難をつきつける。安易に描けば惰性化する。性別ごとの服装コードがゆらいでしまった現代社会を舞台とすることがむずかしいという制約の厳しさもある。八〇年代以降の「戦闘美少女」の台頭の中で、服装上は女性的でありつつ、主体的・活動的でもあろうという設定もとみに一般化した。少女マンガではないが北条司の『キャッツ・アイ』の来生三姉妹はレオタードを身にまとうし、武内直子の『美少女戦士セーラームーン』でもミニスカートのセーラー服が戦闘コスチュームだ。そして彼女たちはチームを組んで戦いに出る。
 しかしこうした服装コードの変化や表現上の多様化が、決してジェンダー・カテゴリーの消滅やその抑圧性の除去を意味するものではないことも確かである。著者が本書の結論部分で指摘するのは、〈男装の少女〉という表現形態とは、自律的主体としての少女を描くための一つの方法論であったということである。形は変わるかもしれないが、同じ目的での方法論は、新たな環境の中でジェンダーやセクシュアリティにかかわる表現を切り拓こうとする際に、今後も必要になるものであるだろう。読み手が作品を十分理解するためだけでなく、描き手/書き手の新しい方法論探究のための素材としても、あるいは媒介者たる編集者の思考の材料としても、本書の分析は導きの糸となるに違いない。
(初出:『図書新聞』、2822号、2007.5.26)

投稿者 june : 16:21

「少女」の社会史(今田絵里香)

【 書 名 】「少女」の社会史
【 著 者 】今田絵里香
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】2007年
【 価 格 】3465円(税込み)
【 ISBN 】4326648783
【KeyWords】子ども、社会史、家族、教育、メディア

【 内 容 】(目次)

序章 「少女」と都市新中間層
1 少女研究の課題
2 都市新中間層の女子
3 少女雑誌

I 「少女」の誕生とその変遷

第1章 「少女」の誕生――少女雑誌以前
1 子ども雑誌『穎才新誌』
2 「少年」の意味するもの
3 ジェンダーの変容
4 少年・少女
5 少年少女雑誌の登場
6 メリトクラシーとジェンダー

第2章 「少女」の身体の変遷
1 ヴィジュアル・イメージ
2 母親に守護される少女・勉強とスポーツをする少年
3 幼女ではない少女・勉強とスポーツをする少年
4 スポーツをする少女・軍国少年
5 軍国少女・軍国少年
6 「少女」のヴィジュアル・イメージ

第3章 近代家族と「少女」
1 家族と少女
2 親には絶対服従
3 近代家族的な情愛に裏打ちされた孝
4 孝から近代家族的な情愛へ
5 近代家族的な情愛の下で立身出世する
6 「国家」と忠の選択
7 子どもと「少女」

第4章 「少女」の成功
1 女性の成功とはなにか
2 属性主義の排除
3 成功の条件
4 実現困難という装置
5 スターの排除
6 「成功」の異なる意味合い

II 「少女」の受容

第5章 少女ネットワーク
1 少女ネットワークの形成
2 ネットワークの機能
3 核としての清純主義・芸術主義
4 成員の証としてのペンネーム
5 「少女」バッシング
6 コミュニティの解体
7 清純主義・芸術主義

第6章 エスという親密な関係
1 エスと文字世界
2 『少女の友』における友情小説の流行
3 『少女画報』の「薔薇のたより」
4 エスとはなにか
5 対抗文化としてのエス
6 「薔薇のたより」における裏切り
7 エスと少女ネットワーク

終章 「子ども」のジェンダー

【コメント】

■ジェンダー化される「子ども」――「少女」イメージの形成と変遷
 近代家族論がつとに指摘してきたことであるが、近代社会の中で「子ども」という存在は独自の価値を与えられてきた。「子ども」は「おとな」とは区別されるものとして、労働から解き放たれて親の庇護下におかれ、教育を受けるべき存在として、また本来的に「無垢」な存在として位置づけられてきた。
 日本で近代家族は、明治末から大正にかけて、都市新中間層の家族として成立してきたというのが、これまでの研究の成果である(いわゆる教育家族)。新中間層において子どもたちは、それまでよりも、また農民や労働者階級の子どもよりも、長い期間学校に囲い込まれ、学歴取得によって将来を確立すべきものとされてきたのである。
 本書の著者、今田絵里香氏が疑問を呈するのは、まずこの点についてである。近代家族論は、一方では性別役割分業の近代的再編と、その中への成人男女の組み込みを指摘してはいるものの、「子ども」のジェンダーについてほとんど言及しない。これはどういうことだろうか。学歴取得による社会的達成の回路は、当時明らかに男女で異なっていたのではなかっただろうか。
 また、高等女学校という教育制度によって時間が確保され、少女雑誌というメディアを通じて内容が与えられてきた「少女」文化については、これまでも研究が蓄積されてきた。だが著者によれば、これまでの研究では必ずしも「少女」イメージの変遷に注意が払われておらず、「少女」という表象が生み出され、人びとに支持された社会的背景、あるいは「少女」という表象が持っていた社会的機能が十分に説明されていない、という。
 つまり本書で問題にされるのは、「少女」というイメージが「少年」と異なるものとしてどのようにして形成され、都市新中間層の女子たちがどのようにそのイメージに自らを同一化していったかということである。さまざまな少女雑誌・少年雑誌の分析によって、今田氏は「少女」イメージの歴史的変遷をたどり、表象の社会的意味を明らかにしていこうとする。巻末に分析対象とされた雑誌のリストがあるが、その量の膨大さには驚かされる。
 ビジュアルな表紙絵の検討も目を引くが、小説や投稿欄を丹念に読み込んだ分析も読みごたえがある。これらの分析から明らかになることは、中等教育における男女別学制の確立という制度上の変化が、少女雑誌・少年雑誌という性別カテゴリーに対応したメディアの需要を喚起したこと、またこれらのメディアによって「少女」イメージが読者の間に「少年」とは異なるものとして確立されていくこと、主体と家族との間の規範的関係が言説上で表現され、さらにはそれが時代とともに変化していくこと、などである。投稿欄などでのペンネームの使用や、投稿や手紙等での「テヨダワ言葉」「キミボク言葉」というような独特の文体の使用が、主体形成上の重要な実践であったことも指摘されている。
 これまで当然視されてきた「子ども」や「社会的成功」「メリトクラシー」といった概念も、本書の検討を通じて問い直しを要求されることになる。これらの概念はあまりにも男性中心的なものではなかったか。この問題提起を含むという意味で、本書はきわめて質の高いジェンダー研究としての条件を備えている。
 またこれまでは、「少女幻想共同体」(本田和子)や「オトメ共同体」(川村邦光)など、読者同士のコミュニティがメディアによって媒介されている面が強調されてきたきらいがあった。しかし本書では、愛読者大会(雑誌『少女の友』では「友ちやん会」と呼ばれた)という形で、直接的な読者間の交流も行われていたことや、それをきっかけに投稿欄を離れて文通を含む交際が始まることが指摘されていることも興味深い。「エス」と呼ばれる同性間での排他的愛情関係(排他的とはいっても、同時に複数の相手とエス関係にある少女も実際にはいたようで、排他性はあくまでも理念である)も、こうした人間関係を強化・継続することに一役買っていたようである。日本近代における「シスターフッド」形成の一側面といえるだろう。
 もちろん本書で問題とされた「子ども」とは、あくまでも思春期以降の子どもであることには留意しておく必要がある。学齢期以前、あるいは尋常小学校・国民学校段階の子どもはどのようなジェンダー化の作用を受けていたのか。この点を明らかにするには、本書とは違うアプローチが必要になるだろう。だがその射程が及ぶ範囲では、本書の提供してくれる知見はきわめて刺激的なものであり、近代家族論や子ども研究を大きく前進させるものであることには間違いがない。
(初出:『図書新聞』、no.2817、2007.4.14)

投稿者 june : 14:35

2005年10月09日

サボテン姫とイグアナ王子(清原なつの)

【 書 名 】サボテン姫とイグアナ王子
【 著 者 】清原なつの
【出 版 社】本の雑誌社
【発 行 年】2005年5月25日
【 価 格 】本体1300円+税
【 ISBN 】4860110447
【KeyWords】セクシュアリティ ファンタジー

【 内 容 】

 サボテン姫とイグアナ王子
 五月の森の銀の糸
 さよならにまにあわない
 カッパドキアの秋
 ヴォーカリーズ
 ロストパラダイス文書
 とまとジュースよ永遠に

【コメント】
 「清原なつの忘れ物BOX」の1冊目。単行本未収録の作品を集めたもの。

 表題作「サボテン姫とイグアナ王子」は、体にサボテンのトゲがはえてしまった姫と、呪いでイグアナにかえられてしまった王子(トゲを食べると呪いが解ける)の恋物語。姫の体中にはえたトゲを、「腕→背中→胸→腹→脚」とイグアナ王子が食べていくプロセスは、きわめてセクシュアル。ただし、呪いが解けて王子が元の地位を回復し、二人が結婚してめでたしめでたし、では終わらないところがミソ。

 「ロストパラダイス文書」は、ロー・ファンタジー的な要素を持つ作品だが、やはりセクシュアリティが主題になっている。少し細かく見ていこう。(以下ネタバレを大幅に含む。)

 まずは、大まかなストーリー。
 単位を落としそうになった女子学生が、教授に「何でもします! 奴隷になります!」と泣きつくと(このとき眼鏡をかけた老教授が読んでいるのが「ロストパラダイス文書」という表題がついた資料)、とある村へ伝承採集のフィールドワークに出される。出かける前に彼氏とセックスをしている最中、「ときどき行方不明になるらしいから気をつけろよ」と忠告される。
 そして、村に行く途中、バスから降りて歩いているうちに霧にまかれ、崖から落ちて気を失ってしまう。
 気がつくと、老婆の家に寝かされている。温泉であたたまって、「今日は祭じゃ」という老婆に酒を飲まされ、酔いつぶされる。
 そのまま祭の舞台にあげられた彼女は、禁忌を破って兄・妹で結婚した老夫婦が拾って育てた「ウリコ姫」の役を演じさせられる。劇中では、「アマンジャクがきても絶対戸をあけちゃいけない」と養父母にいわれたにもかかわらず、戸を開けてしまい、アマンジャクたちにさらわれて強姦され、妊娠しなかったので処刑される。
 ここで彼女は「目が覚める」。気がつくと、先ほどと同じように、老婆の家にいる。先ほどまでのことは、崖から落ちて気を失っていた間に見た夢、ということになっているのだろうか。
 温泉に入っていくようすすめられたところで、このあとの展開に気づいた彼女は、「忘れ物をしました!」と家を飛び出して、村を出ようとする。しかし霧にまかれ、迷ったところで男に出会い、車に乗せられ、飲み物を勧められ、酔いつぶされる。
 以下同じ。気がつくと、また……。と、やや変奏をともないながらの繰り返しが数回続く。
 最後に大きく場面が変わって、「それで……帰って来ないんですか?」と女子学生が教授に尋ねている大学のシーンに切り替わる。実は、老教授は送り込んだ女子学生がどういう目にあわされるか知っていた、というオチ。
 さらに場面が変わって、村の情景。送り込まれた学生が子どもを抱いている。彼女は「もう戻れなくていい」と諦めたとたん妊娠して、村の若者と結婚している、ということのよう。

 この物語にはいくつかの「しかけ」がある。説明しやすい順序で取り上げていこう。

(1)くりかえし(ループ)
 ストーリーのところで述べたように、主人公は村とそこで彼女を待っている運命から、どういう選択をしても逃れられない、ということになっている。処刑されるところでいったん意識がとぎれ、ふたたび村に到着するところで目ざめる。

(2)「現実→幻想→現実」という構造
 主人公は、現実(大学→恋人との時間→村)からスタートし、幻想世界(「物語」「民話」の世界)へまぎれこみ、そこから抜け出せなくなる。最初現代風の衣服をまとっていた村人たちが、幻想世界では粗末な野良着を着ていたりする。
 そしてラストでは、彼女の行方不明事件が「物語」として現実(大学)から語られ、かつ彼女自身も妊娠→出産を経て現実(村)の生活へ戻ってくる。

(3)「舞台」「演劇」という装置
 必ずしも西洋の舞台演劇のように、はっきりと様式化されたものではないが、途中彼女は「舞台」に上がり、「ウリコ姫」を演じている。

 (1)のループ、これは主人公のケース1回限りでなく(というのは教授の言動からもわかるが)、過去から繰り返されてきたことだということの強調と、どうやってもこの運命からは逃れられないということの強調なのかもしれない。そしてたぶん、「この世界には同じようなことが満ちあふれている」ことの隠喩なのだといえよう。
 つまり、「ずっと」そして「いたるところで」。
 過去から繰り返されてきた、ということは、たとえば(2)でも書いたとおり、村人の衣装が現代的なものでなくなっていくことからも連想できる。だからこそ教授が読んでいる文書になっているわけだろう。
 (3)の「演劇」や「舞台」という装置も、ループと関わりあるかもしれない。演劇とは役者が代わっても、再び演じることができるものだから。ウリコ姫の位置にどんな女性がきても、アマンジャクを誰が演じても、このことは起こりうることになる。
 それはなにも、強姦やこうした嫁とりが常態であるということを直接的に表現しているということではなく、(現代の)女性のセクシュアリティが置かれている状態を比喩的に表現したものであると言えるのかもしれない。
 もっとも同時に、「劇」として描くことは、これが直接的な「現実」ではないという効果(緩衝作用)を読者に与えるものでもある。つまり、こういう現実がいたるところにあると一方で言いつつも、あまり生々しすぎないように、「これはお話ですけどね」ともう一方でささやいているわけだ。

 この主人公の女性がかなりセクシュアルな存在として描かれていることに注意したい。まず、恋人とのセックスシーンが描かれ、彼女は性体験が豊富だということが示される。そして身にまとっている、ミニスカート、ヒールの高いサンダル、など、身につけているものでも表されている。
 かつ、酒を飲んで酔っぱらってしまったり、言いつけにそむいて戸を開けてしまったり、男の車にのこのこ乗り込んだり、軽率でもあるように描かれている。
 ここからくるメッセージは、「性体験豊富で、露出の高い格好して、さらに軽率だとこんな目にあうよ」というだけではない。そのあとの繰り返しを通して、「どんなことをしてもダメなものはダメなんだよ」ということまであわせて示されているといえるだろう。「強姦神話」(「強姦されるのは、女がセクシーな服を着て、無警戒だったから、つまり女に隙があったから」というような)への異議申し立てだと考えることもできる。
 途中、彼女が戻りたいと願ったのは、大学であり、恋人のところだった。それは知識を得る場であり、自分のセクシュアリティおよび生殖力を自己管理しやすい性関係(少なくとも迷いこんだ村と比較して)だったわけだ。だが、それらをあきらめたとたん、つまり自己決定権や知識を手放したとたん、彼女は無限ループから解放され、最終シーンのような情況へと至るのである。

 つまり、「ずっと」「いたるところで」そして、「どうあっても」、逃れられない運命として、この世界では女性は強姦され続けなければいけないのだ、許されるのは、この運命を受け入れ、妊娠して「母」となることによってのみだ。
 ……と、まるでこう語っているかのような作品である。単行本未収録だったのは、あまりにもインパクトが強すぎるからだろうか。

投稿者 june : 15:53

2005年04月21日

風俗嬢意識調査(要友紀子・水島希)

【 書 名 】風俗嬢意識調査――126人の職業意識
【 著 者 】要友紀子・水島希
【出 版 社】ポット出版
【発 行 年】2005年4月5日
【 価 格 】2300円+税
【 ISBN 】4-939015-76-9
【KeyWords】セックスワーク 売買春 社会調査

【 内 容 】(目次)

 はじめに
 お読みになる前に

 第1章 風俗嬢意識調査報告
 第2章 風俗嬢座談会+再現インタビュー
 第3章 『風俗嬢意識調査』を読む
  橋爪大三郎/瀬地山角/南智子/小倉千加子/宮台真司

 資料
  アンケート用紙/全回答/風俗の分類と内容/風俗用語辞典

 あとがき・謝辞

【コメント】

 セックスワークの非犯罪化について、長年地道に取り組んでいる要友紀子らの調査報告書。いわゆる「非本番系」風俗の女性たち126人の調査をまとめたもの。
 セックスワークの是非をめぐっては議論の余地があることには間違いないが、第3章で瀬地山角が指摘しているように、そうした議論とは別の次元で現にセックスワークは行われ続けており、さまざまな現実が存在することも事実である。この調査はまずその現実へ切り込むことで、既存の議論の土台をゆるがそうというものである。
 本書の冒頭部分から、一節を引いておく。(pp.8-9)

 売買春について交わされる議論の多くについて、私は、「一体、どういう経験や見聞から、風俗のことをどう理解してそのような考え方に至ったのか」というところが疑わしくてしょうがありませんでした。
(中略)
 もし、従来のような売買春論議が、セックスワーカーの現実や思いと全く無関係に、「自分の理想(幻想)のユートピア」を目指して語られているのだとしたら、これほど愚かなことはないと思います。
(中略)
 この風俗嬢意識調査結果が世に出たとたん、従来のような売買春論議の性質が一変するというような事態を想定しているわけではありません。ただ、「風俗嬢っていうのは概して……」とか、「風俗の仕事というのはこういうものだから……」といった、今まで信じられていた風俗にまつわる物語は、もう自信を持っては語られなくなるでしょう。

 東京および横浜での調査ということで、その他の大都市圏、あるいは地方都市だとまた違った結果が出るかも知れないが、これはもう調査を積み重ねていくしかない。
 分析では、大学生のアルバイト観との比較が興味深い。特に53〜55ページあたりの、他の労働に従事している人たちが、「売春よりはマシ」というかたちで労働のタイプを階層化していくことで、自分たちが従事している労働の条件の悪さなどを、「まだ下がある」というふうに資本に好都合に解釈してしまう可能性が生じる、という指摘などは重要であろう。
 ただ、学生にとってはあくまでもアルバイトは「アルバイト」であることが多いだろうから、風俗で生計を立てているような人たちを含むデータとの丸ごとの比較はどうだっただろうか。この点はもう少し慎重に評価したい。

 いずれにしても、やっと日の目を見たデータである(調査期間は1999年〜2000年)。広い反響があることを期待している。
 ところで、気になったことが一つ。この本にはしおりひもが2本ついている。紫とピンク。なぜ??

■関連URL

-http://homepage2.nifty.com/swash/index.html

 SWASH(Sex Work And Sexual Health)のWebページ。

-http://www.pot.co.jp/yukkochan/index.html

 要の調査日誌。メインのページは、最近更新されてない?

投稿者 june : 12:54

2005年03月17日

学校で教えない性教育の本(河野美香)

【 書 名 】学校で教えない性教育の本
【 著 者 】河野美香
【出 版 社】筑摩書房(ちくまプリマー新書)
【発 行 年】2005年3月10日
【 価 格 】680円+税
【 ISBN 】4480687092
【KeyWords】セクシュアリティ 思春期 避妊 STD

【 内 容 】


――すべての恋する中高校生に贈る、わかりやすくて役に立つ性の知恵袋。
(裏表紙より)

ティーンエイジャーの諸君へ

第1章 Hてなに?
 高校3年生女子で、H未経験です。遅いでしょうか?/援交をしている友だちが「Hなんて大したことない」といいます。未経験の私は大事なことだと思うのですが/はじめてHをします。どんなふうにしたらいいですか?(男子)
 ……ほか

第2章 生理ってなに?
 妊娠しても生理はくるのですか?/月経が10日で来たり、40日で来たりとバラバラです。おかしくないですか?(中学3年)/生理が不順な人は妊娠しやすいって本当ですか?
 ……ほか

第3章 避妊ってなに?
 安全日や危険日っていつのことですか?(男子)/排卵はどうすればわかりますか?/避妊しない人がたくさんいるようですが、大丈夫なんですか?/ピルについて教えてください
 ……ほか

第4章 出産ってなに?
 出産のことについて教えてください/妊娠中の身体の変化や生活について教えてください/妊婦がタバコを吸うのはよくないですか?/シンナーや薬物は赤ちゃんにどんな影響があるのですか?
 ……ほか

第5章 STD(性感染症)ってなに?
 性感染症にはどんなものがありますか? またどうやって感染するのですか?/十代のSTD患者はどれぐらい増えていますか?/セックスの経験年齢が速いと、不妊症や婦人科の病気にかかりやすいのですか?/エイズについて教えてください
 ……ほか

【コメント】
 産婦人科医の著者が、実際に中学生・高校生から受けた相談内容を元に、Q&A形式で、わかりやすく性に関する知識を書き下ろしたもの。単なる「からだのしくみ」の話ではなく、避妊やSTD予防などにも触れているところが実際的。
 コンドーム装着、各避妊法の比較検討、STDの種類と治療法、エイズ感染予防などが、図解入りでていねいにまとめられているのもよい。最小限だが、必要な知識をコンパクトにまとめてある。
 できれば、「さらに知りたい」という人たち向けの手がかりとなるようなことを文中に埋めこむか、あるいは巻末にまとめておいてほしかった。ここに書いてあることはほんの入口のことで、それは十代の読者にもわかると思うが、本当に知りたいことがなかった場合の対処の手がかりを与えておいてほしかったと思う。
 あともう一つ難を言えば、やはりヘテロセクシュアルな知識の範囲を出ていないということ。周辺的でもいいから、同性愛などについても触れておいてほしかった。これもなかなか「学校で教えない」たぐいのことではないだろうか。

投稿者 june : 23:05

2004年12月26日

サグラダ・ファミリア〔聖家族〕(中山可穂)

【 書 名 】サグラダ・ファミリア〔聖家族〕
【 著 者 】中山可穂
【出 版 社】新潮社(文庫)
【発 行 年】2001年11月
【 価 格 】400円+税
【 ISBN 】4101205310
【KeyWords】家族 セクシュアリティ

【 内 容 】
【コメント】

 主人公はピアニスト。いつも演奏会の後は無性に女がほしくなる、のだという。だが、はじめて本気になった恋人の透子とは、1年で別れてしまった。
 その彼女が子どもを産んだ。相手はパリで会ったゲイのピアニスト。子どもがほしかった透子は、「ほとんど強姦」のようにして彼とセックスし(もちろん襲ったのは透子の方だ)、そして子どもができた。
 だが、彼女は交通事故でいきなり死んでしまう。残された子どもを親戚は引き取りたがらない。父親は行方知れず。結局主人公は子どもを引き取り、父親の元恋人と一緒に育てることを決意する。
 主人公の響子、父親の恋人の照光(照)、そして透子の子どもの桐人。血縁も性関係もない三人だが、響子と照は婚姻届を出すことにし、桐人を引き取る。
 たまらなかったのは、響子がコンサート本番でピアノを弾くシーン。そしてその後。
 怪我をして指があまりうまく動かないこともあり、アカデミックな演奏は降りた響子だが、桐人が聴いている、桐人を通じて透子が聴いている気がする、そのことが彼女に力を与える。旧友の指揮者がふるタクトに合わせて弾くコンチェルト。「無限に触れた」――と響子は心でつぶやく。
 音楽でもなんでもいいのだけど、「できた!」という思いはとても大きな感動と成長をもたらしてくれる。創造的活動に関わる者が味わえる、いちばんおいしいところだ。だがこの本がすごいのはこのあとだ。ここからが本番。ページを1枚めくると、いきなりさっきまでの感動は吹き飛んでしまう。とびきりいい演奏をした後に、子どもがお腹をすかせている現実に直面させられる、この落差。いや、これが子どもを育てるということなのだ。だががまんできなくなった響子は、照と大げんかを始めてしまうのである。
 三人で住む家を借りようとするときも、自分たちの手持ちのお金、ピアノ、子ども、猫(響子は猫を飼っている。春雨という名前の、昔透子にもらった猫だ)という三重苦に苦しむ。やっと見つけた家は、駅から自転車で十分。「ここ、いいよ」と照は言うが、なんだかサラリーマンが通勤片道1時間半のマンションを買うときにいうようなことばを思い出せるセリフだ。
 だがそんな現実にもめげず、三人は新しい生活をスタートさせる。「わたしたちは家族だ。」サグラダ・ファミリア、「聖家族」だ……と。
 先ほど書いたように、桐人と響子、照の間には血縁関係はない。響子と照はそれぞれ同性愛者だから、ここに性関係はない。桐人の母である透子は響子の元恋人、父である雅行は照の元恋人。また響子にはカノンという女性とのつきあいがあり、照は桐人の親戚にあたる若い弘をひそかにねらっている。だから弘とカノンの二人もサグラダ・ファミリアに含めて考えていいのかも知れないが、むしろ家族が「開かれていること」を表わすものとここではとらえておこう。
 三人をつなぎとめるものは、戸籍でも血縁でもない。ただ、相手への、あるいは相手を生んだ人への愛情、お互いへの信頼、そういったものだけだ。だからひょっとしたら、いつか壊れるときはあっけないかもしれない。でも、壊れやすいかもしれないからこそ、大事にしなければならず、それゆえに強く結びあえるということもあるだろう。
 現在もなお主流である「近代家族」は、親および親から生まれた1〜2人の子どもを基本的成員とし、外部者を排する構造を持つ(閉鎖的小規模核家族)。お互いが情緒的絆で結ばれ、特に子ども(特に教育にかかわることがら)が家族の関心の中心をなす(愛情規範・子ども中心主義・教育家族)。またこの家族は、性別役割分業に基づく編成もされている。
 一見うまくいっているようにみえる「近代家族」も、いろいろな面でほころびを感じさせている。70〜80年代からすでに既婚女性へのストレスが問題化されており、さらに「愛情」という名の管理に息づまる子どもたちの反乱もあった。だからこそ、ファンタジー文学の中では親子関係を「脱血縁化」したり(小野不由美の「十二国記」)、家族以外の居場所を重視する(ハリー・ポッター)ような物語も増えてきているのだろう。
 そういう意味では、この物語もまた、現代における「家族のファンタジー」の一つなのだ。きっとこの「家族」は、短期的にはともかく、永続的に固定されてはいないだろう。だが、それもまた一つの「家族の姿」であるはずだ、ということを、この本はしっかりと主張している。

投稿者 june : 20:34

2002年09月03日

パブリック・セックス(パット・カリフィア)

【 書 名 】パブリック・セックス――挑発するラディカルな性
【 著 者 】パット・カリフィア  訳・東玲子
【出 版 社】青土社
【発 行 年】1998年8月7日
【 価 格 】2800円+税
【 ISBN 】4-7917-5650-9
【KeyWords】セクシュアリティ クィア S/M ポルノグラフィ セイファー・セックス

【 内 容 】
【コメント】
 「ついていけないヒト」として一部で有名(?)なパット・カリフィアのアンソロジー。彼女は自分自身を「サディスト」で「レズビアン」で「フェミニスト」であると認識している。次のような彼女の言葉がそれをよく表わしている。
 「もし船が難破したとして、まったく普通のレズビアンとどうしようもないマゾヒストの男とのどちらかといっしょに孤島に取り残されねばならなくなったら、わたしは男のほうを選ぶだろう。」(p.238、「レズビアン・セクシュアリティの秘密の側面」)
 この本の表題になっている「パブリック・セックス」とは、直接は論考「公共の場でのセックス」で述べられていることと関わっている。彼女はこの言葉を、アメリカの同性愛行為取締り強化の文脈で、政治的な意味合いを込めて使おうとしている。
 しかし、このアンソロジーの中でもっとも著名な章は、「フェミニズムとサド/マゾヒズム」(初出1980年)だろう。これは「レズビアン・セクシュアリティの秘密の側面」(初出1979年)に引き続いて、彼女のS/M愛好者としてのカミング・アウトの論考である。
 しばしばマゾヒズムは、「女性の本質」と結びつけられて論じられる。「マゾヒスト=服従的・受動的」という図式が、この社会の中での女性のステレオタイプと結びつけられているのだろう。また、精神分析にはそれを裏打ちするような研究も存在する(もちろんそうした見解に批判的な研究もある。詳しくは、たとえばジョン・ノイズ、『マゾヒズムの発明』、青土社、などを参照)。
 フェミニストはこういった結びつきを、女の子はピンクが好きで、男の子は青が好き、というのと同様の刷り込まれたものとして批判する。しかし、とカリフィアはそういった見解もまた拒絶するのだ。それはほとんどの場合、この社会の中の女性のステレオタイプ的見解とM的精神・身体のあり方が混同され、いっしょくたに否定されてしまうからだ。そしてそれは、彼女が自分のものと信じることのできた性的アイデンティティを否定するものでもある。だからこそ彼女はそうした言説に抵抗するのだ。(具体的には、本書ではキャサリン・マッキノンなどの反ポルノ活動家の発言などが名指しで上げられている。)
 それは、レズビアンだったらこういうセックスをするはず、こういうセックスが正しいはず、という決めつけへの抵抗だ。ある面現存する反ポルノ運動の論調は、同性愛を否定する言説のそれと似てきているのではないかと思わせるところもある。要するに、同性愛にしろS/Mにしろ、「ヘンタイ」として片づけてしまうわけだ。そういった言説をカリフィアは、近年のある種のフェミニズムに見られるようなプライベートな境域への退行を伴わずに批判しようと試みる。
 もちろん、今日のS/Mのありようが、社会の中の男性/女性の支配的なありようと重なったりすることはあるに違いない。わたしたちは自己のセクシュアリティの形成にあたって、社会の影響を排除することはできないのだから、それは当たり前だ。特にヘテロセクシュアルなS/Mの関係でそれは発現しやすいだろうし、流通している性表現(ポルノグラフィ)の中でもそうだろう。ある面、女性のマゾヒズムのほうが男性のマゾヒズムより一般には受け入れられやすいのかも知れない。(マゾッホの小説の中では、何よりもまず男性のマゾヒズムが描かれていたのに!)
 しかしそれだけではないのだ、ということだ、たぶん。そしてまた反対に、サド/マゾヒズムへの非難を、ジェンダー関係に起因する言葉で行なっていくことにも慎重にならなければならない。マゾヒストには「性的主体性」が存在しないとか、サディストの「支配」を一意的にジェンダー関係に結びつけるとか……。そういった固定的な観念にとらわれないセクシュアルな快楽追求のありようを肯定する、「解放の探究」がカリフィアのこのアンソロジーには一貫して存在している。彼女はまず、アクティビストなのだ。

投稿者 june : 21:13

2001年01月26日

モア・リポートの20年(小形桜子)

【 書 名 】モア・リポートの20年――女たちの性をみつめて
【 著 者 】小形桜子
【出 版 社】集英社(集英社新書)
【発 行 年】2001年1月22日
【 価 格 】720円+税
【 ISBN 】4-08-720075-2
【KeyWords】セクシュアリティ、結婚、恋愛、売買春

【 内 容 】

 はじめに
 第一章 〈モア・リポート〉のあゆみ
 第二章 一二人の女たちの性と生
 第三章 女の性――何が変わった?
 第四章 心地よい自分でいるために
 〈モア・リポート99〉データ編

【コメント】
 1980年にモア・リポートの第1回は実施された。それから7年後の87年に第2回の調査(〈モア・リポートNOW〉)、そして21年後の今年、1998年に実施された三回目の調査の結果がまとめられた(〈モア・リポート99〉)。
 三回の調査はそれぞれに時代ごとの“女の性”を映し出してきた。だが、その映し方はかなり異なる。
 まず、第1回目の調査では、まだ社会全体における女性の性に対する抑圧が強かったため、比較的性的な関心が高く、女性と男性の関係に敏感で、自分の性と向き合う態度の強い層が回答していたのではないか、というようなことを筆者は述べている。それは「オーガズムを得られる」という回答が、第1回の調査のときが一番割合的に多いというところなどに表われているという。(オーガズムを「必ず得られる」「たいてい得られる」と回答したのは、〈モア・リポート〉で46%、〈モア・リポートNOW〉で35.6%、〈モア・リポート99〉で38.7%。)
 より広い階層から、今回の調査は得られている、と見てもよいだろう。もちろんそれは、比較の問題ではあるが。
 そして、その違いを念頭に置いた上で、この20年あまりの間に、女の性は確実に変わった、と著者はいう。何が変わったのか?
 「二〇年前の〈モア・リポート〉は、女性誌『モア』の読者アンケートという形式で行われた、日本で初めての、女性の『性の現場』からの報告であった。(中略)そして、そのあふれるほどの言葉で、『性』は自分の『生』であり、自己確認のための創造的な磁場であり、人間同士の最も親密なコミュニケーションの方法であることを表明したのである。」
 「〈モア・リポート99〉には、三三八七人が参加している。(中略)アンケートの中で、女性たちは饒舌だった。が、二〇年前の女性たちのそれとは異質のものだった。同じように『性』を語っていながら、ある女性たちは、自分の性を、単なる体験やできごととして語っている。
 パートナーとの間で、可能な限りお互いを開きあい同化したいと願う『性』の根源的なエネルギーや力を、その体験やできごとから感じとることは難しかった。むしろ、『性』における親密性を回避しているようにさえ感じられる。」(本書3〜4頁)
 性とは、二人の人間(もちろん異性である必要はない)の間での、「可能な限りお互いを開きあい同化したいと願う『性』の根源的なエネルギーや力」でなければならない、というのは、ある種本質主義的で、あまりにもセックスをロマン化しているもの、とは言えるだろう。しかし、筆者が言うように、確かに何か以前とは異なるものが回答の中で露出してきたということは言えるのかもしれない。
 もちろんそれは、複数のパートナーを同時に持つことがかなり広く見られる現象になってきたこととか、オーガズムについての情報が豊富になったために期待の度合いが高まり、それゆえに逆に「失望」や「焦燥」をも多く生産しているということもあるだろう。
 後者については、筆者は「オーガズムを得るのは簡単ではない」と指摘し、パートナーを変えたり「経験豊富」で「Hがうまい」男性とセックスすることでオーガズムが得られるのではないかと考える女性たちに、警鐘を発してもいる。
 筆者が最後に持ってきたのは、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイのように「Do you love me?」と問い続ける女性の言葉だ。その「Tさん」のような回答について、筆者は、「彼女たちには、自分にとって本当は何が心地よくて、何が不快なのか、何が欲しくて、何が不要なのか、という実感が希薄」(本書233頁)であると指摘し、その中に「愛されたい」と願いつつ相手と近づくことを恐れる(ヤマアラシのジレンマ?)ような傾向の強まりを感じ取っている。
 この筆者の評価が正しいかどうかはわからない。しかし、第1回の〈モア・リポート〉の回答の中に感じ取れた、「セックスはコミュニケーションで、相手との距離をできるだけ近づけようとする中によろこびがある」というような感覚とは明確に異なる何かが、存在するのかも知れない。「好きな人とセックスできない」「どうでもいい人と寝ちゃう、遊びのほうが気楽にHできる」というような今回の回答は、なるほどそうだと思わせるところがある。
 もちろん、変わらないところだってある。結婚後の夫とのセックスに期待しない女性は非常に多い。彼女たちは、「マンネリ」「夫本位」「手抜き」あるいは「義務」「ボランティア」といった言葉でそれを表現する。そこにあるのは、セックスにおける妻と夫の間の力関係の問題だ。やはり男性主導、女性は受け入れる役割、というところが、夫婦間のセックスには存在しているのだろうか。もっとも、そこから筆者のように経済的な問題へとストレートに結びつけるのは、いささか単純に過ぎるとも思うが、おそらくさまざまな要因を合わせれば結果的に結論は重なるだろう。
 残念ながら、今回の報告書は分量的には物足りない。(新書版で269ページ。)紹介された女性の生の声も12人分だ。この点は大いに不満である。しかし、貴重な声を紹介してくれていることは間違いがない。今後も〈モア・リポート〉は継続されるのだろうかという関心を再び高めてくれた一冊である。

投稿者 june : 14:49

2000年03月07日

愛の空間(井上章一)

【 書 名 】愛の空間
【 著 者 】井上章一
【出 版 社】角川書店・角川選書
【発 行 年】1999年8月5日
【 価 格 】2000円+税
【 ISBN 】4-04-703307-3
【KeyWords】セクシュアリティ、売買春、建築、デザイン

【 内 容 】
【コメント】
 週刊誌・新聞記事、文学、自分史などから、近現代の日本で性愛がどのような空間で営まれてきたかを探ろうとする試み。
 戦後の新聞記事に、皇居前広場でセックスする男女が目に付くという記事がある。「しろうと」の男女は必ずしも屋内を性愛の空間としていなかったのではないか――そういう問題提起から本書はスタートする。
 実際、船宿や待合などの屋内をよく利用したのは売買春がらみの男女であって、いわゆる「しろうと」たちは野外かそうでなければソバ屋の二階などを利用したという。東京近郊に「しろうと」の性愛用の建築物が造られはじめるのが1910年代。おそらく、地方ではずっと遅れていただろう。
 戦後直後はいわゆる「さかさクラゲ」あるいは「3S」のマークで知られるような「温泉宿」(実際には温泉などはない)。1960年代からはラブホテル、ということになる。
 どちらかというと、一本筋を通した分析というよりは、さまざまな種類の言説から抜き出した細かい描写を並べた歴史的記述といったほうがよい体裁の本書だが、『美人論』(リブロポート)よりも「フェミニストにはお叱りを受けそうだが……」的なピントのズレた言い訳が少ない分、読みやすい。(皆無ではなく、たとえば387頁にはこれも見事にピントをはずしまくった言い訳が一言差し挟まれている。)
 さまざまな資料の取り扱いだが、注意して読むと、井上が言説から距離を取った読み方をしようとしているのがわかる。「1970年代のラブホテルの内装の豪奢化は、女性がそれを望んだからだ」という週刊誌にたびたび登場する言説に対して、「果たしてそうだろうか」と第六章で疑問を呈してみせる。「いったい、どういう『女性』がその時、イメージされていたのだろう。」[p.312]
 『週刊大衆』『平凡パンチ』『宝石』などの記事の書き手やインタビューの相手などが、全て男性であることにここでは注目しておきたい。「女性がそれを好む」という発言は全て男性(記者やホテル経営者)からのものなのだ。「女性はこういうものを好むだろう」という彼らの思いこみがそこにあったのではないだろうか。実際、後の章でラブホテル建築を手がける建築家の、「ラブホテルの設計は、以前はオーナーの意見には全面的に服さねばならなかった」という声が取り上げられてもいる。
 井上はこれに、「女性の意見というときの女性とは、『くろうと』筋の女性のことではないのか」という見解も付している。確たる裏付けがない見解なので、とりあえずは保留としておきたい。
 戦後の住空間の編成では、(n-1)DK(nは世帯成員数)型の家が、アパート・マンションを中心に普及したことが知られている。それは、核家族化を前提として、夫婦同室・子どもに個室という住空間を普及させた。「年頃になれば」、子どもも性別で分けてやすむことが特に奨められるようになる。異性愛的な規範に従って男女が分けられるのだ。(もう一つの理由は「勉強のため」であるのは言うまでもない。)
 このように、戦後日本の家族の住空間の中では、異性愛的なセクシュアリティは夫婦の寝室に囲い込まれる。夫婦間のものだけが、認められた性愛になる。
 それ以外の性愛は、たとえば野外で営まれたり、待合などの専用空間で営まれることになる。高度成長期以降はラブホテルということになるだろう。こうした性愛専用の場所の提供は、「東京近郊」で始まったという。大規模に(n-1)DKの住空間が作られたのも、同じ東京近郊であった。こうした符合にも着目して、本書を読むべきであろう。

投稿者 june : 15:40

1998年12月30日

知的障害者の恋愛と性に光を(障害者の生と性の研究会)

【 書 名 】知的障害者の恋愛と性に光を
【 著 者 】障害者の生と性の研究会
【出 版 社】かもがわ出版
【発 行 年】1996年8月25日
【 価 格 】本体2136円
【 ISBN 】4-87699-261-4
【KeyWords】知的障害者 ノーマライゼーション セックス・ケア 

【 内 容 】(目次)

   プロローグ
 I 障害者の性、最前線
   1 自分探しの旅−「障害者ドラマ」はトレンディ?
   2 障害者だってAVに出たい
   3 「セックス・ケア」で得られるもの−オランダからの報告
   4 ボクがボクであるために
 II ノーマライゼーションのまち−北海道伊達市に学ぶ
 III 知的障害者の性を理解・支援する
   1 四七歳で初めて知った肌のふれあい
   2 寝た子を起こせって! 本当ですか?
   3 学校でキスしたっていいじゃない
 IV 一緒に暮らそう−徳島・若竹通勤寮では
   1 知的障害者の結婚−一〇年の歳月から
   2 あなたへの道のり
 V 女性障害者はもっとつらい
   1 心の風景−往復書簡
   2 自己肯定への道−障害者の子育て
   3 フェミニズムから見る愛と性
 VI 見て見ぬふりを−小山内美智子さんと語る
   エピローグ

【コメント】
 『障害者が恋愛と性を語りはじめた』の続編。
 アダルトビデオに出た障害者の話、セックス・ケアの話などに抵抗感を感じる人もいるだろうが、まずはその体験や試行の中で、当事者が得たもの、掴んだもの、気づいた自身の状況などの声を読んでみること。
 より良い方向性があれば、いくらでもチャレンジして確かめていくだろうし、そのことにどういう意味があるのか、を問い直すこともできるだろう。
 自分が同じ状況だったら何が選択できるだろう、どうするだろう? それを問うことをせずにはいられない。そうして自分の出した答えが、他の人から共感を受けるかどうかは、また別の問題なのだとしても...。
 なお、「フェミニズムから見る愛と性」には、フェミニストカウンセラーの井上摩耶子さんへのインタビューが収められている。

(written by yeswhome)

投稿者 june : 22:23

1998年11月14日

障害者が恋愛と性を語りはじめた(障害者の生と性の研究会)

【 書 名 】障害者が恋愛と性を語りはじめた
【 著 者 】障害者の生と性の研究会
【出 版 社】かもがわ出版
【発 行 年】1994年8月30日
【 価 格 】本体2200円
【 ISBN 】4-87699-142-1
【KeyWords】セクシュアリティ 自己決定

【 内 容 】(目次)

 プロローグ
 I 障害者の性は閉ざされているか − 思うにまかせない5つのケース
  1 埋められない障害
  2 ボランティアにあこがれる重度身体障害者
  3 性を知らせたくない親たち
  4 性は生きるための力
  5 できなかったオナニーの手伝い
 II 起きた子はもう寝かせられない − 施設障害者の場合は
  1 家族をつくりたい
  2 生きているだけでも、ありがたいと思え……
  3 子宮摘出の背景
 III 心を化石にしないで − 二重に差別される女性障害者
  1 夢は一つ、主婦になりたい!
  2 結婚の条件
  3 女性とは、障害者とは
  4 心を化石にしないで
 IV でも、ぼくたちはやりたい!
  1 障害者にとってのソープランド
  2 「メインストリーム」論争
 V 生と性をエンジョイしよう − 若い障害者たちの最新レポート
  1 いけいけオールミックス
  2 障害者と健常者の壁を越えて
 VI 保障された「性」 − デンマークの障害者事情
  1 障害者を支える社会制度と性教育
  2 自由な「選択」こそ重要
 VII 「正常位」はだれが決めた? − 二人が語るノーマライゼーション
 エピローグ

【コメント】
 性の欲求というのは、いろいろな軸で存在するわけですね。それは、ごく身体的な快感だったり、誰かと過ごす時の感覚的なふれあいであったり、パートナーとしてともに暮らしていくことであったり、とにかくひとりの人間として大事にされたいという思いであったり、好きにならずにいられなかった気持ちの奔流であったり、自分の隠したい部分に勝手に踏み込まれたりせずにすむことだったり...。
 それが何らかの理由で止められたとき、あるいは自分でその欲求を追いかけることができないとき、〈私〉はどうすればいいのでしょう、あるいは、どうすることを選んでいくでしょうか? また、そこで「欠けたもの」はどのように、どんな基準で保障することができ、あるいは保障すべきなのでしょうか。
 さまざまな人の経験、そして声が報告されています。障害を持った人の生活だからといって、男女の性のあり方に触れずにすむということはなく、むしろそこには、ぽっかりとジェンダーの力関係がむき出しの形で出て来てしまうこともあるようです。単純化した構図で切り取る前に、それぞれの場面で何があるのかをゆっくり考えてみたいと思います。

(written by yeswhome)

投稿者 june : 22:17

1997年08月13日

近代日本のジェンダー(大越愛子)

【 書 名 】近代日本のジェンダー 〜現代日本の思想的課題を問う
【 著 者 】大越愛子
【出 版 社】三一書房
【発 行 年】1997年5月31日
【 価 格 】本体1900円+税
【 ISBN 】4-380-97238-0
【KeyWords】歴史 家族 セクシュアリティ 天皇制

【 内 容 】

 第一章 ジェンダー・イデオロギーの形成
  1 ジェンダー・ショック
  2 男性知識人たちの夫婦同権論争
  3 脱亜入欧と女子教育
  4 国粋主義と女子教育
  5 「女の力」幻想の形成
  6 性的奉仕のイデオロギー

 第二章 ジェンダー・イデオロギーとの葛藤とその内面化
  1 運動の中の諸矛盾との闘い
  2 『青鞜』における諸論争
  3 母性主義フェミニズムへ

 第三章 日本近代のジェンダーの政治学
  1 国家原理とジェンダー
  2 国家神道とジェンダー
  3 家族国家という国体戦略
  4 戦争とジェンダー
  5 日本主義とジェンダー
  6 コロニアリズムとジェンダー

 むすびにかえて

【コメント】
 国民国家の形成が決して平和裡に行なわれたものでないことは、近年の歴史研究が明らかにしてきたことである。それは、「ヨーロッパ」という固有の地理的・歴史的・社会的環境を舞台に、外的には国家間の抗争を通じて、また内的には民族的・言語的少数派の排除・抑圧を通じて行なわれた、暴力的な「建設」であった。その内的編成の過程で、「ジェンダー」という変数がきわめて重要な役割を果たしたということも、欧米のフェミニスト歴史学の流れの中で指摘されてきたことだ。
 おそらく、近代日本の国家編成にあたっても同種のプロセスが存在したであろう。それは、外的には欧米列強のアジア侵略に抗しつつ、他のアジア諸地域との差異を強調するというプロセスであり、内的には地域的な経済的・社会的・文化的集団を「ナショナル」なものへと再編するというプロセスであったと考えられる。
 では、「ジェンダー」という変数についてはどうであっただろうか。大越が本書で分析の対象とするのは、近代日本の国民国家形成に当たって、「ジェンダー」という変数がいかなる形で貢献させられたのかを明らかにすることである。
 江戸末期から明治初期にかけて欧米の文化と接触する中で、欧米のジェンダー規範(当然ながらそれは、欧米の国民国家形成において重要な役割を果たしてきたものである)が流入してくる中、伝統的なジェンダー規範とのはざまで、どのような近代日本独自のジェンダー規範が作り上げられてきたのかが問われることになる。
 大越によればそれは、「家制度の二重性」と呼べるものによって実現される。すなわち、明治民法を基軸とする外形的な男性家長中心の「家」と、法的には全く無権利ではあるが、隠された中心としての母性的存在が支える「家」との二重性の問題だ(第三章では、この「男性中心主義」と「母性原理」という二重性を象徴的に表現したのが戦前の天皇制であったことが指摘されている)。彼女は、強圧的に見える「家制度」への反発から起こった日本のフェミニズムの「第一の波」の終着点が戦時体制への協力であったのは、、近代日本の国家形成の装置としての「家」が、欧米型の男性主導の対関係を基盤にした「近代家族」とはズレたものであり、不安定な家長の座を支えているのが「母」としての女性の存在であることに当の女性たちが気づき、国家における女性の存在価値をアピールしようとしたことの、ある意味では必然的な結果にほかならないと主張する。
 こうした議論は、一つには、日本の女性が、戦争の一方的な犠牲者であったというわけではなく、戦争に自発的に協力し、加害者の側に立つ存在でもあったことを改めて問い直すという近年の近代女性史研究の流れとも一致するものである。またそれと同時に、「フェミニズム」というものが大文字の存在ではなく、歴史的・社会的に固有な存在であることを改めて明らかにしたという点でも重要な意味を持つだろう。もちろんこれは、「第二の波」の歴史的文脈をわたしたちが問う場合にも言えることにほかならない。

投稿者 june : 18:01

1997年07月30日

「性を考える」 わたしたちの講義(上野輝将・沢山美果子ほか)

【 書 名 】「性を考える」 わたしたちの講義
【 著 者 】上野輝将・倉地克直・沢山美果子・田中貴子・西山良平・妻鹿淳子
【出 版 社】世界思想社
【発 行 年】1997年5月20日
【 価 格 】本体2400円+税
【 ISBN 】4-7907-0647-8
【KeyWords】歴史 セクシュアリティ 両性具有 ライフサイクル

【 内 容 】

 開講にあたって                      ‥‥倉地克直

 第一講 平安京の女性・性・生命              ‥‥西山良平
 第二講 中世における「児」――児のジェンダー/セックスをめぐって
                              ‥‥田中貴子
 第三講 「男女和合」の世界                ‥‥倉地克直
 第四講 村の若者と娘たち                 ‥‥妻鹿淳子
 第五講 「産」の心性                  ‥‥沢山美果子
 第六講 日本軍従軍慰安婦問題を考える           ‥‥上野輝将
 講義を終えて――学生アンケートから           ‥‥沢山美果子

 座談会 (参加者)伊奈正人/上野輝将/倉地克直/沢山美果子/田中貴子/
          西山良平/妻鹿淳子・編集部

【コメント】
 1994年度および1995年度の岡山大学教養部総合科目「性を考える」の講義を編集し直したもの。実際に行なわれた講義の一部は他で発表され、本書には収録されていない。(このあたりの経緯は、倉地・沢山の「あとがき」を参照。)したがって「開講にあたって」のあたりは「フィクション」になっているが、全体としてまとまりを書いているというようなことは決してない。「です・ます」調の話し言葉で書かれた、読みやすくかつわかりやすい一冊である。
 各大学で行なわれている「女性学」または「ジェンダー論」「性差論」の講義録も、出版が目につくようになってきている。『性というつくりごと』(勁草書房)は同じ岡山大学の講義録であるし、『ジェンダーから世界を読む』(明石書店)は一橋大学の一・二年生対象の総合科目の講義録、今年出版された『性差の科学』(ドメス出版)は愛知大学のものである。
 やはり、「ジェンダー」といったテーマは総合科目という形式になじむのだろうか。たしかに、ジェンダー論の幅を全てカバーしようとすると、一人の担当者ではかなり負担が大きいことは経験からわかる。(もっとも、総合科目形式にしたところで、コーディネータの苦労が減るわけではないのだが。)
 しかし、現在手に入る講義録の各書で、それぞれ構成が異なっているのがおもしろい。『性というつくりごと』や『性差の科学』が自然科学に大きなウェイトをおいているのに対して、『ジェンダーから世界を読む』や本書は人文・社会科学のみで編成されている。しかも、『ジェンダーから世界を読む』が同時代の空間的な「ジェンダー」の差異の広がりに目を向けようとしているのに対して、本書は時間的な軸を中心に据えているものである。日本社会を、中世から近代まで。
 内容については実際に触れていただくことにして、最後にひとこと。『性差の科学』にもあるのだが、「学生の感想」と「座談会」も構成上のアイテムとなってきているようだ。総合科目形式はまだまだ教養科目としてしか開講されていないところが多いようだが、「複数担当」や「受講者とのインタラクション」を導入しやすい総合科目は、従来の大学の講義形式とは異なるものとして広く一年生から四年生までのカリキュラムに渡って位置づけられてもよいのではないだろうか。

投稿者 june : 18:04

1997年05月20日

性愛――わたしの性表現と快感(手塚千砂子)

【 書 名 】性愛 −わたしの性表現と快感−
【 著 者 】手塚千砂子
【出 版 社】学陽書房・女性文庫
【発 行 年】1997年4月20日
【 価 格 】本体660円+税
【 ISBN 】4-313-72036-7
【KeyWords】セクシュアリティ、関係性

【 内 容 】
【コメント】
 12人の女性へのインタビュー&座談会で語られる彼女たちの「セクシュアリティ」。十二人十二色の表現を通して、女性の性のあり方の多様さが伝わってくる。
 ちょっと「イギリス人は‥‥」「アメリカでは‥‥」というところが鼻につくことはあるけれど、日本の性関係(男女間だけではないかもしれない)が決してほめられたものではないのは、ほんとうのところ。だから、あまり批判はできない。
 ここに登場する女性たちは、いろいろな途をたどった結果、肯定的に性をとらえ、セックスをエンジョイしている。でも、強迫観念的に「セックスしなければいけない」「快感がなければセックスじゃない」という方向に駆り立てられていくとしたら、それはヘン。もちろん開放的なことはいいことなのだけれど。
 けっこうアンビヴァレントな気分にさせられる一冊でした。

(1997/05/20)

投稿者 june : 18:09

1997年05月04日

ヴィクトリア朝の性と結婚(度会好一)

【 書 名 】ヴィクトリア朝の性と結婚 −性をめぐる26の神話
【 著 者 】度会好一(わたらい・よしいち)
【出 版 社】中央公論社・中公新書
【発 行 年】1997年4月15日
【 価 格 】本体720円+税
【 ISBN 】4-12-101355-7
【KeyWords】セクシュアリティ 結婚 売買春

【 内 容 】
【コメント】
 この本で著者は、「ヴィクトリア朝の文化は性に関しては抑圧的だった」、「ヴィクトリア文化は避妊を知らなかった」などの「神話」(一般に信じられていること)について、一次史料を駆使して実像を明らかにすることを試みている。
 新書なのでそれほど専門的というわけでもなく、比較的わかりやすい題材について短くまとめられているので、わかりやすい反面物足りない側面もある。また、おのおのの「神話」について、その内容がはっきりとしないセクションもある。(記述のどこからどこまでが「神話」で、どこからどこまでがその「神話」の検証部分なのかが不分明。)
 もっとも、その分手軽でとっつきやすく、つまみぐいも可なので、時間つぶしにはいいかもしれない。19世紀のイギリス文化・文学にある程度詳しい人なら、見知った名前が次々と登場するので、その意味でも興味深いかもしれない。また、終章「ヴィクトリア文化」は英国におけるキリスト教の盛衰とからめてヴィクトリア朝文化の性倫理を位置づけており、この箇所は最後に必ず読まれるべきところだろう。

投稿者 june : 18:11

1997年02月18日

ウエディングドレスはなぜ白いのか(坂井妙子)

【 書 名 】ウエディングドレスはなぜ白いのか
【 著 者 】坂井妙子
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】1997年1月20日
【 価 格 】2678円
【 ISBN 】4-326-65196-2
【KeyWords】階級文化 ファッション セクシュアリティ

【 内 容 】(目次)

 第1章 ヴィクトリア朝のミドルクラス
 第2章 ヴィクトリア女王のウエディングドレス
 第3章 ステイタスシンボルとしての白いドレスとベール
 第4章 純潔と無垢の象徴
 第5章 もはやステイタスシンボルではない?
 第6章 新たなる象徴
 第7章 カップルへの贈り物、結婚披露宴、ハネムーン
 現代の結婚式に向かって

【コメント】
 日本では白無垢は「嫁いだ先の家風に染まるため」とか言いますが、イギリスではどうだったのか?という疑問に答えてくれる本です。きっかけは、当時アッパークラスの狭い範囲で流行していた白いウエディングドレスをヴィクトリア女王が結婚式で身につけてみせたこと。彼女の人気取りの一方策でもあり、同時に国産のレースを使うことで低迷していた国内産業の振興もねらおうとしたということだったらしいのですが、その白いドレスが、ヴィクトリア朝後期になってから、ミドルクラス内部の細かな社会的位置と服装・慣習の一致が崩れてきたことによってミドルクラス全体へと広まったことで普及が生じた‥‥というのが大まかなストーリー=ヒストリーになるようです。
 さらにそれが、女性のセクシュアリティに関するヴィクトリア朝的規範(「花嫁は処女であるべき」というもの。もちろん、規範は行動に際して参照される基準ではあるが、その通りに遵守されなければならない絶対のものというわけではない)とからまりあって人々の心に根づいたのだ、とされています。
 わたしにはちょっと違った疑問もあります。それは、「〈バージンロード〉っていつごろからのもの?」というもの。どなたかご存知の方は?

投稿者 june : 18:24

レスビアンの歴史(リリアン・フェダマン)

【 書 名 】レスビアンの歴史
【 著 者 】リリアン・フェダマン  富岡明美・原美奈子訳
【出 版 社】筑摩書房
【発 行 年】1996年11月25日
【 価 格 】4841円
【 ISBN 】4-480-85733-8
【KeyWords】レスビアン、レズビアン、セクシュアリティ、歴史、アイデンティティ

【 内 容 】(目次)

 序章

 第1章 女どうしの愛――二〇世紀の〈ロマンティックな友情〉
  学のある紡ぎ女(独身婦人)/〈ロマンティックな友情〉の変容/“永遠
 の詩人、永遠の恋人”/〈生涯の伴侶〉とレスビアンの性愛

 第2章 蕾に巣食う虫――初期の性科学者たちと女性愛
  性倒錯と「男っぽい女」または、男装の女性/性的奇形としてのフェミニ
 スト/攻撃にさらされる〈ロマンティックな友情〉/小説による知識の普及
 /「先天的倒錯」理論の思わぬ効用

 第3章 小粋(シック)なレスビアン――実験と抑圧の一九二〇年代
  バイセクシュアルの試みとそのルーツ/白人の「スラム詣で」/ハーレム
 の黒人レスビアン/アメリカ各地の労働者階級レスビアン/レスビアン・ボ
 ヘミアン/性衝動至上主義と、悪役と化したレスビアン

 第4章 荒地にオアシス――一九三〇年代
  子ども・キッチン・教会の三Kと「バイセクシュアル」という妥協/小説
 や芝居に表われたレスビアン/「レスビアン稼業」/一九三〇年代のレズビ
 アンの性愛

 第5章 裸のアマゾネスと変態(レズ)娘たち――第二次世界大戦とその余波
  恋人たちの軍団/「政府後援」のサブカルチャー/レスビアン「異常者」
 全盛期/レスビアン治療は長椅子で

 第6章 口にするのもはばかる愛――マッカーシズムとその遺産
  「あなたはこれまでに、レスビアン関係をもったことがありますか?」/
 冷戦時代の闘い――軍隊における魔女狩り/哀しい遺産

 第7章 ブッチ、フェム、カイカイ
   ――一九五〇〜六〇年代におけるレスビアン・サブカルチャーの創造
  ゲイ・バー文化の創造――若年・労働者階級レスビアン/ブッチ/フェムの
 役割分担――若年労働者階級レスビアン/どっちつかずの「カイカイ」レズ
 ビアン――上流・中産階級

 第8章 ゲイ革命――一九六〇〜七〇年代
  静かなる序章/ゲイ革命――爆発/新しい女性愛のかたち/レスビアン・
 フェミニスト革命/分裂・連帯・不屈の闘争

 第9章 「レスビアン・ネーション」に向けて
   ――一九七〇年代の〈女と一体化した女〉
  レスビアン・フェミニスト文化の青写真/女の音楽・女の新聞/肉体と魂
 ――私たちの大切なもの/「政治的に正しい」こと/分裂と対立

 第10章 レスビアン・セックス論争――一九八〇年代
  レスビアン・セックスと文化派フェミニスト/セックス・アドベンチャー
 を求めて/二極対立は性感を高めるか

 第11章 バベルの塔からコミュニティへ――現在、そして未来
  穏やかな道へ/多様化するレスビアン/連帯/九〇年代に関する覚え書き
 ――〈クィア・ネーション〉?

 終わりに――社会による女性愛の形成とその変貌

 訳者解説

 原註/人名索引/事項索引

【コメント】

 Lillian Faderman, Odd Girl and Twilight Lovers - A history of lesbian life in twentieth-century America, 1991、の全訳です。19世紀末から今日までの、約100年間のアメリカ合衆国のレズビアンの歴史を描いた大著です。
 ある意味では非常にショッキングな本です。たとえば、わたしたちにとってレズビアン(あるいは男性ゲイ)の存在というのは、最近になってようやく見えるようになってきたものです。けれど、フェダマンによれば、19世紀から(あるいはそれ以前から)「女同士の友情」という形で女性間の愛情の交流が存在したということになっています。エマ・ゴルドマン(アメリカのアナーキスト・フェミニスト)などの著名な女性も、同性の非常に親しい友人を持っていて、そのこと自体はこれまでの伝記や研究で指摘されていましたが、その二人の間に、今日なら「レズビアン関係」と呼ばれるような関係が存在していて時には明らかに身体的な性愛の関係も結ばれていたということが述べられています。
 こうした関係が「同性愛」としてとらえられるようになったのは、性科学が「同性愛」という名前をつけて「倒錯」のレッテルを貼ったことによってだといいます。そうすると、レズビアン・アイデンティティを生み出したのは、実はレズビアンの排除を行なった動きそのものだということになります。アンビヴァレント!
 ちょっと値段が高くて重くて、内容の密度も濃い本ですけれど、読みごたえは十分という本です。

(written by Ayako TAKAHASHI)

投稿者 june : 18:21

1997年02月17日

交換日記(本田和子)

【 書 名 】交換日記
【 著 者 】本田和子(ほんだ・ますこ)
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1996年11月7日
【 価 格 】1236円(3%税込み)
【 ISBN 】4-00-026054-5
【KeyWords】少女文化 自我形成 セクシュアリティ

【 内 容 】
【コメント】
 ある女性の小学校低学年から中学校時代の、教員・友人との間での「交換日記」を分析の素材として、少女文化に迫ろうとする本です。本田さんには、ほかに『異文化としての子ども』や『少女浮遊』などの子ども論・少女論があります。
 中学1年生の交換日記の中に登場する「好き・嫌い」の二分法の世界の登場を、彼女たちの性意識の芽生えとからめて読み込んだり、「少女」というカテゴリーへの参入を「少女文字の使用」という表現面からさぐったりと、多様な「読み」が展開されます。
 岩波書店の「今ここに生きる子ども」というシリーズの中の1冊です。

投稿者 june : 18:28

セックスレスな男たち。(家田荘子)

【 書 名 】セックスレスな男たち。
【 著 者 】家田荘子
【出 版 社】集英社
【発 行 年】1996年10月30日
【 価 格 】1200円
【 ISBN 】4-08-780237-X
【KeyWords】セクシュアリティ 男性 仕事

【 内 容 】
【コメント】
 26人の男女(カップル含む)へのインタビューを中心に構成した本です。まあ、家田さんらしいといえるんでしょうか。あるいは『モア・リポート』の集英社っぽいと言うべきでしょうか。『Bart』での連載をまとめたものです。
 しかし、面白くありませんでした。いや、面白かったというべきか。
 わたしがマーカーで線を引いたところは、最初ほとんどがインタビュー相手の言葉への家田さんのコメント部分になっていて、どういうことかというと、この本の前半部分を読んでいるときには、家田さんの発言に仄見える、セクシュアリティあるいは「男らしさ」をめぐる固定観念がすごく気になったのでした。
 「このまま、セックスしないでも平気な体になってしまって、男として大丈夫なのだろうか」(p.20)「こんなに男らしい男性なのに、女のために使わないなんて」(p.67)「もちろん、強壮ドリンクなど飲んだりとか」(p.73)‥‥だんだん、「えっとあのー(^^;)」、という気分にさせられてきたりして。
 それが、だんだん後半になると、(童貞だと雑誌のインタビューで公表した男性に対して、上司が「ハレンチな」と怒ったことに対して)「なんか変だ。セックスしないことが、ハレンチなんて……。人は、セックスを必ずしなくてはいけないのだろうか。」(p.179)などというコメントに見られるように、少しずつ彼女の態度がズレてくるところがあって、このあたりが興味深いところです。

投稿者 june : 18:26

1997年01月02日

ヴァーチャル・ガール(エイミー・トムスン)

【 書 名 】ヴァーチャル・ガール
【 著 者 】エイミー・トムスン   訳:田中一江
【出 版 社】早川書房(ハヤカワ文庫・SF1079)
【発 行 年】1994年10月15日
【 価 格 】680円
【 ISBN 】4-15-011079-4
【KeyWords】アイデンティティ、セックス中心主義、SF

【 内 容 】
 「金色がかった栗色の髪に、左右色違いの大きな瞳が印象的な美少女マギー。彼女はコンピュータの天才アーノルドが自らの伴侶にしようと作りあげたロボットだった。人間と変わらぬ優しい心を持つマギーだが、人工知能の開発が禁じられている今、正体がばれれば即座に破壊されてしまう。かくして二人は追跡の手を逃れ、波乱に満ちた放浪の旅に出た‥‥純真なロボット少女の成長と冒険を描く、スリリングで心あたたまる物語!」(裏表紙の作品紹介より)

【コメント】
 ピュグマリオン(ギリシア神話)もそうですが、これもまた「男が女を作る」という設定になっています。
 ただ、ひと味違うのは、マギーの場合、途中さまざまな経験を経て、創造主のアーノルドに対立するようになるということです。ピュグマリオンの場合は、理想の伴侶として作った象牙の少女を妻にしてしまうわけですが、マギーは途中でアーノルドの意図した理想からはどんどん離れていくことになります。
 そのあたりは本編を読んでいただくこととして。ここでは、作中でどのように「セックス」が位置づけられているかに焦点を合わせることにしましょう。
 アーノルドは自分の作品を完璧にするために、マギーにも完全な女性器を付けますが、実は彼自身はセックスには臆病。また、マギーを「純真」なままで留めておきたいと願うがために、彼女がセックスに持つ関心にいい顔をしません。人間についていろいろと知ろうとするマギーは、映画や小説などからも人間の行動パターンを知ろうとします。その中ではどうも「愛」が人間の行動の核になっているのではないかということがわかり、アーノルドにいろいろと質問をするのですが、彼は不機嫌になったり、話をそらしたりと、答えようとしません。
 アーノルドとはぐれてしまってからマギーはセックスを体験しますが、彼女の感想は「どうやってもおたがいにこれ以上は近づけないのだとしたら、たしかに人間はとても孤独にちがいない。」(p.294)「わたしは、セックスって考えていたほど大したものじゃないと思うけど。」(p.405)
 人間のさまざまな芸術作品の中で扱われている主題としてのセックスの比重の重さと対照的なマギーの感想。両者のギャップから人間の「セックス中心主義」が浮き彫りになってくるかのようです。
 この物語では上にあげたほかにもあといくつかのキーワードがあります。たとえば、ホームレス。あるいは、マイノリティ。ストーリー・テリングの面白さもさることながら、ホームレスのサバイバル・テクニックの描写にも特筆すべきものがあるでしょう。

投稿者 june : 18:30

1996年06月11日

女神の誓い(マーセデス・ラッキー)

【 書 名 】女神の誓い
【 著 者 】マーセデス・ラッキー 訳・山口みどり
【出 版 社】創元推理文庫
【発 行 年】1995年11月17日
【 価 格 】830円
【 ISBN 】4-488-57701-6
【KeyWords】ファンタジー、アマゾン

【 内 容 】
 「山賊への復讐と、皆殺しにされた一族の再建を誓い、ひとり故郷を旅立った女戦士タルマ。道すがら、女魔法使いに出くわした。『わたしはケスリー。あなたの復讐を手助けしたいの』彼女の持つ不思議な剣がタルマを呼んだのだというが‥‥? とびきり元気な女剣士と女魔法使い、傭兵になったふたりの行く手に待ち受けるものは? 現代アメリカ異世界ファンタジーの女王登場!」(裏表紙の紹介文より)

【コメント】
 ‥‥という紹介を書き写していると、何やら違和感があります。何といっても、わざわざ「女剣士」とか「女魔法使い」というように、「女××」と書かなければならないことが、そもそも「女でない剣士」あるいは「女でない魔法使い」が横行していたことの証しであり、そうした状況に対する対抗運動として、女性を重要な登場人物として描く潮流が欧米でフェミニズムの影響を受けて興ってきたのですから。
 それはともかく、M.ラッキーの「ヴァルデマール年代記」もこうした運動の中から生まれてきたシリーズで、この本に収録されている「剣の誓い」も、マリオン・ジマー・ブラッドリ編の『Sword and Sorceress III』に最初収録された短編です。
 以前、ジェンダーのユートピア・ディストピアは空間的な〈外〉――遠い宇宙のはてに設定されていました。ル・グィンの『闇の左手』、あるいはブラッドリの「ダーコーヴァ年代記」のように。アン・マキャフリィの「パーンの竜騎士」も異星世界が舞台でした。
 それが、80年代以降のファンタジー・ブームの中で、ジェンダーとセクシャリティのオルタナティブを描くのに、彼女たちはこぞって「内なる外」としての歴史、キリスト教以前のヨーロッパ世界や、あるいは近代以前の物質的・社会的環境を備えた異界の地を舞台とするようになりました。ブラッドリの『アヴァロンの霧』はケルトの女神信仰と父権的キリスト教とのぶつかりあいと融合の物語だし、あまりジェンダーの側面は強調されないけど、でもさりげなく注意して書かれているバーバラ・ハンブリーの「ダールワス・サーガ」もきわめて中世的な世界を舞台としていました。ジーン・アウルの「大地の子ら」シリーズ(『大地の子エイラ』ほか)にいたっては先史時代でしたね。とはいえ、これも大地女神信仰が基盤の世界を描いているという点では、ケルト的世界観に包まれているともいえるかも知れません。
 その世界観の基盤になっている女神は、単に「産み、慈しむ」母としての女性の役割をメタファーとして写し取ったものであるだけではなくて、ケルトのモリガンのようなネガティブなイメージをも反映しています。ブラッドリやラッキーの物語の中では、大地女神よりも「月の女神」――満ちては欠け、恵み多き存在にも、冷たく奪う存在にもなる、くりかえす時を刻む月のイメージで語られます。 したがって、近代と共に、聖化された女性のイメージ(つまり、「家庭の天使」としての。それは、もちろん階級的な要素も内に含んでいるのですが)だけが強調されてきたことに対するオルタナティブとしての「対抗的ジェンダー」を描いたものが、たとえばラッキーのこの物語であると言えるでしょう。
 では、果たして〈男〉である書き手は、ジェンダーの問題をどう描いているのだろうか? というと、たとえばD・エディングズなどを読んでいると、「あーあ」な気分になったりもします。ムアコックもやはり男は男だなー、『ギャラソームの戦士』以外は。といっても、これも男の魂が女性に乗り移る話ですが。
 日本でもファンタジーの層は厚くなってきて、ジェンダーやセクシャリティの側面での思考の冒険も徐々に見られるようになりました。(荻原規子さんや上橋菜穂子さんなど。)でも、まだまだそれは女性の書き手が中心ですし、蓄積はこれから、だといえるでしょう。

投稿者 june : 07:12

1996年03月09日

セクシュアリティの社会学(現代社会学10)

【 書 名 】岩波講座・現代社会学10:セクシュアリティの社会学
【 編 者 】井上俊・上野千鶴子・大澤真幸・見田宗介・吉見俊哉
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1996年2月9日
【 価 格 】2100円
【 ISBN 】4-00-010700-3
【KeyWords】セクシャリティ、ロマンチック・ラブ、近代

【 内 容 】(目次)

 セクシュアリティの社会学・序説     上野千鶴子
 性的他者とは誰か            水田 宗子

〈セクシュアリティと近代社会史〉
 見られる性、見せる性ができるまで    井上 章一
 セクシュアリティの編成と近代国家    牟田 和恵
 オナニーの歴史社会学          赤川 学
 同性愛の比較社会学
  ――レズビアン/ゲイ・スタディーズの展開と男色概念――
                     古川 誠
 “処女”の近代 ――封印された肉体―― 川村 邦光
 視姦論 ――写真ヌードの近代――    笠原美智子
 「恋愛」の全近代・近代・脱近代     佐伯 順子

〈消費社会のセクシュアリティ〉
 消費社会のセクシュアリティ
  ――女のオーガズムの「発見」――   金塚 貞文
 「郊外化」と「近代の成熟」
  ――性の低年齢化と買春化の背景――  宮台 真司

〈overview〉
 セクシュアリティ研究の現状と課題    斎藤 光

【コメント】
 内容が非常に多岐に渡るので、序説(上野千鶴子)にしぼってコメントします。
 セクシュアリティとは、まずもって近代の概念であると序説では主張されます。すなわち、わたしたちが現在目の前にしている(かのように思っている)「セクシュアリティ」とは、歴史的に特殊なものであって、同種のものが過去に存在したかのように考えて、「セクシュアリティの歴史」を考えたり、「古代のセクシュアリティ」「中世のセクシュアリティ」「近代のセクシュアリティ」を考えるのは、架空のものを語ることにしかならないのだと。
 しかし、ではそのセクシュアリティが現在においてきちんと定義され、範囲が定められている対象かというと、実はそうではない。セクシュアリティは往々にして、「性に関すること」として事典などに記載されるけれど、それではトートロジーにすぎない。しかし、本文においてきちんと定義がされているだろうか。
 たしかに、4-5頁において、「セックスは両脚のあいだに、セクシュアリティは両耳のあいだにある。」という、全米性情報・性教育評議会の設立者であるカルデローンとカーケンダールの定義が引かれていているけれど、これは結局、セクシュアリティが文化的な概念であること以上のことを言っているものではない。
 その点で、本文の記述はいささか「不親切」であるとのそしりはまぬがれ得ないでしょう。要は、「セクシュアリティとは、性に関連する社会的・文化的現象のことである」ということなのでしょうが、これとても、p.4で批判されている天野正子による有斐閣の『新社会学辞典』の記述と変りないことになります。
 あるいは、こうも言えるかもしれません。セクシュアリティ研究は、セクシュアリティが「何であるか」という概念確定の作業にも関わる自己言及的な作業なのだ、と(p.5)。そして、まさに、さまざまなセクシャリティ研究は、「無定義概念」としてのセクシュアリティという言葉を使いながら、その内容を与えていこうという研究として展開されているようです。
 だから、こうも言えるかも知れません。セクシュアリティ研究とは、「性」という言葉に人が結び付けて考えていることがらがいかなるカテゴリー(つまり定義づけ)とかかわって行われているのかを解明する研究であると(pp.15-16参照)。
 序説以降は、さまざまな分野のトピックが重ねられていますが、どれも(関心がある人には)興味深い内容であり、十分読みごたえのある仕上がりかと思います。

投稿者 june : 01:13

1996年01月16日

自分からはじめる セカンドマリッジガイド(木本喜美子編)

【 書 名 】自分からはじめる セカンドマリッジガイド
【 編 者 】木本喜美子
【出 版 社】KDDクリエイティブ
【発 行 年】1995年8月15日
【 価 格 】1200円
【 ISBN 】4-906372-32-5
【KeyWords】結婚、法律、セクシャリティ、老後

【 内 容 】
【コメント】

 変わった本です。まず本を開こうとして、「あれ?」っと首を傾げました。そう、これ、小振りの辞書とかによくある装丁なのです。綴じ方、表紙の触感、などなど‥‥。まさに「使ってください」という感じの〈ガイドブック〉です。
 Part I は、結婚って何?という原論(木本喜美子「1人の気楽さ、2人の喜び」)。ここで筆者は、結婚のステージを3つに分けています。1番目が「性欲婚」、2番目が「子育て婚」、3番目が「愉快婚」。
 最近、結婚相談所を訪れる40代の人が多くなっているそうですが、40代同士で話があって楽しくてうまくいっていても、「嫁さんにするなら、ウェディングドレスが似合う人の方が。で、子どももほしいし」という男の人の言葉を紹介し、せっかく目の前に気が合う人がいるのにそれを見逃してしまうことについて残念なことではないか、と筆者は述べます。それは結局、1番目と2番目のステージの結婚観にとらわれているから?(ウェディングドレスは別に性欲をあらわすわけじゃありませんが‥‥。)40代以降になると、性欲も衰え、子育てもめどが立ってしまう。そんな時期に、これまで結婚、そして夫婦二人の関係を支えてきた「性欲」と「子育て」以外のところに「婚」の基盤を求めるとしたら、それは「愉快」であること、つまり「一緒でいて楽しい」ということこそ「セカンドマリッジ」なのではないか、というのが、その主張の根幹です。
 もちろん、ここでは結婚ということ、つまり、「ゴールインする」・「籍を入れる」ことを目的としている訳ではありません。また、別段離婚して再婚しなさいというすすめでもありません。あくまでもそれは、自分にとって(そして自分が出会う人にとって)よりよい関係のあり方を「性欲」と「子育て」にとらわれずに探そう、ということだと思います。(だから、「別にファーストマリッジとセカンドマリッジが連続しててもいいんですよね?」と確認したら、「そうよ」と編者は言ってました。)性欲と子育ては、やはり若いうちでないとちょっと、でも、愉快なら‥‥というふうに、ミドルとシルバーに勇気を与えてくれる主張でもあるかもしれません。あるいは、「愉快」であるのに性別は関係ない、だったら同性同士でもいいかもしれません。
 でも、「愉快」であるためには、いろいろと準備が必要だろう、ということで、さまざまな道具立ても用意されています。「結婚についての意識を変えることが大事」と言われていますが、もちろん意識だけじゃないですね。
 Part IV は「セカンドマリッジのための性愛学」(村瀬幸浩)では、「性欲婚」の観念と結びついた「挿入・射精中心」のセックス(挿入も射精も男性の行為であることから、筆者はこれを男性中心主義のセックス観でもあると言っています)ではない性のありかたを「愉快婚」にぜひ、と述べられています。もちろん、そこには「年老いてセックスなんて」という考え方、つまり若者中心の性愛観を廃するという意味もあるかもしれませんが、それと同時に、性的な触れ合いの頻度はそれ以外の場所・時間での触れ合いの頻度と相関関係にあるのではないかという仮定があるからでしょう。
 Part V は、「セカンドマリッジのための法律学」(二宮周平)。「ファーストマリッジ」と連続していないセカンドマリッジの場合は、前の結婚の婚姻関係が問題になることがあります。「愉快婚」は生殖と結びつかない分戸籍にとらわれる必要もないから、事実婚であることも多いでしょう。あるいは、相続と絡んで子どもたちが法的な結婚に反対することも考えられます。そうすると事実婚を強いられることもあるかもしれません。そんな関係の中で、相手と自分の権利を確保し、いろいろなスタイルがありうるセカンドマリッジを支えるための法律の知識を紹介してあります。(姓、相続、税制、扶養義務、国際結婚、etc.)
 ところで、こうした知識だけでは、いくら身につけてもセカンドマリッジはできません。Part II(板本洋子「自分からはじめるマリッジライフ」)では、出会いの場をこうして求めようということや、セカンドマリッジに際してのつきあい上の留意点が説かれます。「愉快婚」はゴールインが目的なのではなく、あくまでも「愉快」であることが目的なのだから、法的な結婚や同居にこだわらなくてもいい、でも、その分むずかしいということでもあるでしょう。難しさをさりげなく指摘しながら、「まず自分からはじめよう」、そのためには結婚の対象になりうる人、つまり独身者だけが出会いの対象ではないよ、というさりげないヒントも忍ばせてくれています。(「婚」に人間関係をとじこめる必要もないということでもあるでしょうか。)
 Part III「セカンドマリッジのための関係学」(深堀習[しげ])では、いろいろなセカンドマリッジの実例が取上げられています。
 セカンドマリッジ実践のための本として読んでもいいし、今の関係(恋人同士でも夫婦でも友だちでも)を考えなおすために読んでもいいでしょう。大事なのは、自分にとっての幸せということで。

投稿者 june : 01:08

1995年12月12日

都市空間とセクシャリティ(上野千鶴子)

【 書 名 】小木新造編著、『江戸東京学への招待 [1] 文化誌篇』に収録
【 著 者 】上野千鶴子
【出 版 社】日本放送出版協会(NHKブックス)
【発 行 年】1995年11月20日
【 価 格 】1100円
【 ISBN 】4-14-001750-3
【KeyWords】都市、住まい、セクシャリティ

【 内 容 】

(1) 江戸期のセクシャリティ:遊郭・農村
 江戸期のセクシャリティが、都市空間の中でどのような位置に置かれていたのか、というと、それは「境界」にあった。たとえば、吉原という堀で隔てた向こう側の土地、船宿、娼婦(遊女)が登場する場面は、このようなところ。また、春画に描かれている場面も、縁側や軒下など、家屋構造上の周辺であることが多い。
 他方、農村のセクシャリティはどうであったのか。農村では、プライバシーはほとんど存在しない。だれがどこで寝ているか(この場合、特に女性)は明白であった。「夜這い」の習俗が成立したのもそのためである。「夜這い」は、決して自由な恋愛ではない。それは農村共同体の下位共同体である若者集団によるセクシャリティのコントロール下での性愛行動である。

(2) 近代の都市空間と性
 近現代の住居は、核家族を想定して設計されている。公団住宅に典型的に見られる集合住宅は、家族の成員数をn人として、(n−1)DKもしくは(n−1)LDKを理想として作られている。
 この時、n−1は、夫婦を一組として、暗黙の内にそこにセクシャリティの存在を前提として考えているからだ。したがって、(n−1)LDKの中で一番大きい部屋が、「二人分」の寝室として夫婦に割り当てられる。
 あるいは、妻の居場所は家全体であると考えることもできる。夫用の「書斎」を、とすすめる住宅プランニングや雑誌記事はあっても、主婦の個室を、とうたう女性雑誌は存在しなかった。主婦の居場所は、第一に台所であり、そして家全体なのだが、それは女性が家事をする、そして家のことに第一の責任を持つという性別役割分担の規範に支えられた設計なのだ。

(3) 性と住まいのポストモダン
 家族が家族ではなくなり、個人の集合としての「個族」としての性格を強めつつある今、カップルのセクシャリティのための場を住宅に設計しようという発想が消滅しつつある。住宅のポストモダンは、一人のための機能を備えた個室群とコモンスペース(ダイニングキッチン、風呂場、トイレ、など)の組み合わせとして構想されるようになっている。
 このようなプランは、単に「個族」としての家族のためのものではなく、死別・離別などでカップルが崩壊した高齢者同士や、同性愛カップルなどにも適合的なものなのではないだろうか。

【コメント】
 シングル生活と住宅構造については、この前知人とやりとりしてから考えていた問題です。
 個のスペースを確保しつつ、コモンスペースを持つにはどうしたらよいか。現在のアパートなどは、自律・孤立した個人・家族がそこに住むことを前提としており、コモンスペースという発想がそもそも不在です。したがって、コモンスペースを持ちたいならば、別な場所に求めるか(共同でもう一部屋借りる)、家屋構造自体を変えなければならないということになります。
 LAT(Living Apart Together)カップルなどにとっては、上記(3)のところでとりあげられているような住宅が一つの理想の住まいになるかもしれません。

投稿者 june : 00:36

1995年09月21日

親指Pの修業時代(松浦理英子)

【 書 名 】親指Pの修業時代
【 著 者 】松浦理英子
【出 版 社】河出書房新社・河出文庫文藝コレクション
【発 行 年】1995年9月4日
【 価 格 】上・580円、下・560円
【 ISBN 】上・4-309-40455-3
      下・4-309-40456-1
【KeyWords】セクシャリティ、恋愛

【 内 容 】(裏表紙から)
 「ある夕暮れ、午睡から目覚めると左足の親指がペニスになっていた――。驚くべき奇想とともに始まる性の遍歴を描いて、発表直後から圧倒的な反響を呼び、90年代の文学に画期的な地平をひらいた第三十三回女流文学賞受賞の名作。」
 「性の見せ物一座に加わった、親指ペニスを待ち受ける数奇な運命は‥‥。新たなセクシュアリティのあり方をラジカルに問いかけながら、かつてない文学世界をつくりだした、近年、最大の話題作。96年、映画化決定。待望の文庫化!」

【コメント】
 文庫化されたのを機会に紹介することにしました。
 女性の足指がペニスになる、それはちゃんと勃起して、16、7cmになり、それで男性の性器と同じようなセックスもできる、という設定がまず奇抜、というところでしょうか。射精はしないけど、性感はあり、オルガスムも感じる。勃起はしても、主人公はそれを男性がペニスを使うようには使わない。性器のようではあるけど、性器ではないのが、親指ペニス。
 「私がこの小説において読者に与えたかったのは、性器的な快楽ではなくて、非性器的な快楽なんです。」(下巻、「親指ペニスとは何か」)と作者自身が言っているように、主人公が体験するその後の性体験は、最初に付き合っていた恋人との関係ではとうてい得られなかったようなものになっていきます。レズビアンの関係もそのうちの一つで、そのレズビアンの関係が壊れることを覚悟した主人公の心に浮かぶ言葉も、性関係を失うことがつらいというのではなくて、「親密さ」の喪失を予期して悩む、というふうになっています。
 ‥‥うまく説明できないんですが、これはもう読んでいただいた方がいいかもしれません。

投稿者 june : 23:59

1995年08月14日

Coming OUT!(笹野みちる)

【 書 名 】Coming OUT!
【 著 者 】笹野みちる
【出 版 社】幻冬舎
【発 行 年】1995年8月13日
【 価 格 】1200円
【 ISBN 】4-87728-067-7
【Key Word】レズビアン、カムアウト

【 内 容 】
【コメント】

 バンド「東京少年」ボーカリストの笹野みちるさんの、レズビアン・カムアウト本。彼女の中学・高校時代の生活(同志社付属だったらしい)から、現在の恋人との関係までが語られる。
 構成は、「あの」掛札悠子さん。(巻末に、笹野×掛札の対談もあり)掛札さんの『「レズビアン」である、ということ』(河出書房新社)を読んだことが、笹野さんの一つの転機になったらしい。
 笹野さんは現在ソロ活動中。たしか2枚のアルバムをすでに発表していたはず。1995年9月には3枚目の『Girl Meets Girl』もリリースされています。

投稿者 june : 23:52

1995年05月08日

母性(日本のフェミニズム(5))

【 書 名 】日本のフェミニズム5:母性
【 編 者 】井上輝子・上野千鶴子・江原由美子、編集協力:天野正子
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1995年3月24日
【 価 格 】2000円
【 ISBN 】4-00-003905-9
【KeyWords】母性、女性史、中絶、避妊、子育て

【 内 容 】
【コメント】

 I 母性の政治学
  母性概念をめぐる現状とその問題点           大日向雅美
  「母性」の誕生と天皇制                加納実紀代
  乳幼児政策と母子関係心理学              小沢 牧子

 II 出産/避妊/中絶の近代
  「お産」の社会史                   宮坂 靖子
  中絶の社会史                     田間 泰子
  産む産まないは女(わたし)がきめる
   ――優生保護法改悪阻止運動から見えてきたもの――  大橋由香子
  システム化された出産                 舩橋 惠子

 III 子育てにおける女性の葛藤
  閉ざされた母性                    木村 栄
  働く母親と育児不安                  牧野カツコ
  「とまどい」と「抗議」
   ――障害児受容過程にみる親たち――         要田 洋江

(解題「制度としての母性」江原由美子、より)

○母性の政治学
 「母性」という言葉は、どのような社会的背景の下でどのように形成され、使用されてきたのか。大日向論文が示すように、「母性」とは「自明のごとく用いられながら、実はその概念はきわめて不明確」である。大日向は、医学・心理学などの学問領域の中での「母性」という言葉の使われ方を検討し、そのあいまいさを摘出しながら、「母性」という言葉が狭義の生殖に関わる女性の身体的機能・状態などを指す意味を超えてある価値観を表明する言葉として使用されていることを指摘する。
 加納論文は、同じ「母性の政治学」の視点を第一の波のフェミニズムに適用していく。対象となるのは「母性保護論争」である。加納は当初使われていたこの言葉が、あることをきっかけにして抽象的観念として一人歩きをはじめ、ついには「女の存在そのものを意味」する言葉になっていく過程を描き出し、最終的にこの言葉を肯定的に用い、「天皇制」肯定にまでつなげていくのが、高群逸枝というフェミニストであったことを指摘している。
 小沢論文では、いわゆる「三歳児神話」(三歳までは母親の手で育てないと子どもの精神的発達に問題が生じるという議論)と国家による乳幼児政策・女性政策とのかかわりを論じている。母性神話はイコール子どもの神話でもある。現在のところ一番強固なのは、「子どもの側から母性を見る」という視点であり、この視点からの母性神話の形成をこの論文では取り扱っている。

○出産/避妊/中絶の近代
 このセクションには、明治以降の歴史において、「子どもを産む」ということをめぐる女性の状況と社会的条件・環境がどのように変化してきたかを扱う論稿が収められている。
 宮坂論文は、主に明治から大正末までを対象にしながら、「新産婆」、すなわち、熟練者としての「トリアゲ婆」ではなく、出産介助についての教育を受け、国家による承認を受けたエージェントが出産に関わることによって、民間のマビキなどの自生的な出産抑制を廃し、人口増加政策を取る明治政府の利益をよりよく擁護する出産をめぐるシステムが形成されたことを指摘している。この「新産婆」の制度は、それまで民間に存在した出産をめぐる女たちの相互扶助のネットワークを弱体化させ、さらには生死観までをも変えていったという点で、共同体を生命のレベルから解体する国家装置であったといえよう。
 「産む」ということは、その反対の「産まない」ということによって規定されている。「産まない」ための手段が「避妊」であり、「中絶」である。田間論文では、明治からの妊娠中絶をめぐる国家・民衆の動きを対象に論じている。明治政府がごく初期にとった政策の一つに、「マビキと堕胎の禁止」がある。しかし、こうした中絶の「犯罪化」にもかかわらず、民間には生存を確保するための人口調整としての中絶への要求があり、また実践があった。この構図が大きく転換するのが戦後である。中絶は刑法に犯罪規定を残しながら、優生保護法によって「合法化」されてゆく。ところがこれがまたゆらぐのが、「将来の労働力不足」が認識されはじめた1970年代である。そして1972年の優生保護法改定は、第二の波のフェミニズム(リブ運動)の活動における最大の焦点となった。
 「リプロダクティブ・ライツ」と呼ばれる女性の権利が認識されはじめ、その確立をめざす主張が行われはじめたのがこの時期である。大橋論文は、80年代に再燃する優生保護法改定の動きに対抗する女性たちの運動の中で生まれてきた「産む・産まないは女(わたし)が決める」というスローガンと、リブの中の「産める社会を・産みたい社会を」というスローガンとのズレの中に、この10年間の女性の状況の変化を見出す。それは、労働力をめぐるポリティクスにおいて女性が「戦力化」されてきたこと、生殖技術の発展にともなう「女性の開発=搾取(exploitaion)」、そして、これらの動きに対する女性側の危機感の高まりである。「女(わたし)が決める!」という叫びは、結局のところ、女のからだの国家・専門家による管理を拒否する、国境線を超えた危機意識の現われであったと大橋は主張する。
 舩橋論文は、主に戦後展開された、「出産の医療化」と病院への囲いこみ=施設化を考察したものである。陣痛促進剤の使用の普及などの管理出産への傾向は、結局のところ病院の人手不足が原因となっているものであると舩橋は主張するが、それがかえって管理の不十分を招くという悪循環が存在している。だが、こうした「システム化された出産」の体験は、「黙して語られないことが多い」。それはなぜなのだろうか。

○子育てにおける女性の葛藤
 「母性」は、単に「受胎」「出産」「授乳」という生物学的な一連のプロセスだけでなく、出産後の子どもを育てるというプロセスをも含む概念として通常使われている。しかし、問題なのはこれが決して自明な連続性をそなえているわけではないというということだ。「母親になる」ということは、自分の子どもという「他者」の世話をいかにして女性が受け入れるかということであり、必然的にそこにはさまざまな葛藤が生じる「はず」なのだ。(だが、この「はず」は「わけがない」――なぜなら彼女は「母親」だから――という語で置き換えられていることが多い。)
 木村論文では、専業主婦たちの「拘禁ノイローゼ」が扱われている。子育てをめぐる専業主婦の状況は、現代において、一種の密室化され、他人の介助を受け入れてはならないという閉塞化した状況である。そこでは、「子どもが泣きやまない」「首の座りが悪い」などのきわめて些細なことが重大な問題であるかのように受け取られる。子どもの虐待は、こうした「些細なこと」がきっかけで生じることが多いのだが、子どもを虐待してしまう母親は「母性を欠如させた異常者」なのだろうか。むしろ、子どもに縛られ、四六時中向き合うことを強制する状況の、彼女は被害者なのではないのだろうか。
 牧野論文は、この同じ育児ノイローゼという問題に対して、「働く母親」という方向からアプローチしているという点で、木村論文の対極をなす。牧野は調査データに基づいて、働く母親と専業主婦の間での子育てをめぐる葛藤の相違を発見しようとする。その結果見出されたのは、「母親が有職かどうか」ではなくて、「夫が一緒に子育てをしてくれている」と考えているかどうか、また、「家族以外により広い社会関係を持っているか」(もちろん有職の場合はこれがあるということになる)どうか、だという。
 要田論文は、障害児を出産した母親が、周囲からのさまざまな影響を受けながら、どのように自分の子どもを受け入れていくかを論じている。障碍を持つ子どもを出産した母親に対して、周囲はあたかも「産まない方が良かった」とでもいうかのような言説を浴びせかける。さらに拍車をかけるのが母親自身が持っている「障碍への恐怖感」である。現代の母親はあまりにも医学化されてしまった子育ての状況の中で、自分の子どもに身体的・精神的障碍があるのではないかという不安に常に脅かされている。「子育ての責任者は、母親一者」という神話がそれを強化する。子どもの障碍は、母であることの失敗なのだから。障碍を持つ子どもを出産したということは、まさにその恐怖の対象を現前させたということであり、母であることの失敗である。これを克服する過程は当然ながら葛藤に満ちている。子どもの障碍を受け入れていくことは、自己の障碍者への差別感を認識しながら、それを「健常者の論理」を正当化する社会的通念への異議申立てへ転換していく、「障害児をもつ親としての真の解放」を達成していく過程であると
要田は主張している。

投稿者 june : 02:08

1995年01月29日

包帯をまいたイブ(冨士本由紀)

【 書 名 】包帯をまいたイブ
【 著 者 】冨士本由紀
【出 版 社】集英社
【発 行 年】1995年1月10日
【 価 格 】1200円
【 ISBN 】4-08-774111-7
【KeyWords】レズビアン、恋愛

【 内 容 】
【コメント】

 第7回小説すばる新人賞受賞作。
 小説です。

 ***

 「さよならを言うのは気分がいい。」(冒頭)

 ちょっぴり気だるい文体がところどころ重たくなるけど、覚えず最後まで一気に読み通してしまった。(電車に乗ってる時間が長いだけか・・・)

 わ、と思ったのは、64ページからうしろ、古い世代のレズビアン・フェミニスト4人と主人公たちが小さな店の中で乱闘になるシーン。

 そして。
 「麻生と僕の躯の間に四つの乳房があって、四つともとても小さかったから、重ねあわせると、それらははにかむようにくるくると滑った。」(P.176)

 ・・・・

 ***

 読みおわったとき、額がちょっと汗ばんでいたかもしれない。
 これも電車の暖房のせいにできるのだけれども。

(written by Ayako TAKAHASHI)

投稿者 june : 00:23

1994年05月26日

「レズビアン」である、ということ(掛札悠子)

【 書 名 】「レズビアン」である、ということ
【 著 者 】掛札悠子
【出 版 社】河出書房新社
【発 行 年】1992年
【 価 格 】1300円
【KeyWords】レズビアン、アイデンティティ、セクシュアリティ

【 内 容 】
 レズビアン」とはだれか
 ポルノの嘘、フェミニズムの誤解
 結婚と家族と「レズビアン」
 「母」という呪縛
 「レズビアン」差別が見えない理由
 「女と女」の可能性
 教室の中の同性愛者
 ひとつではない「快」を探す
 カムアウト、そして、共生へ
 いま、「レズビアン」であるということ

【コメント】
 自分が「レズビアン」である、ということを著者自身がどのように認め、それを引き受け、そして公言(coming out)するようになったのか、を述べた著作。その過程として生まれてきた、「レズビアンとは誰か、というのではなく、私がレズビアンの一つの現実なのだ」という言葉が力強い。
 よく「ホモ・セクシャリティは同質志向である」という言葉を聞く。もちろんこの言葉が完全に間違いであるとは思わないが、しかし、この本の中で言われているようなことを知ると、いかに皮相な見方でしかないか、ということがわかる。
 そこにあるのは「ひとりの人間の生き方」として息づいているセクシャリティの多様なありようの中の一つの姿である。それに対して Noを突きつけることは、ひとりの人の首を締めることにも等しいのではないだろうか。


投稿者 june : 16:19

1994年04月30日

女性状無意識(小谷真理)

【 書 名 】女性状無意識 テクノガイネーシス ---- 女性SF論序説
【 著 者 】小谷真理
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】1994年
【 価 格 】2987円
【KeyWords】文学、サイバーパンク、セクシャリティ

【 内 容 】(目次)
 Introduction : 女性SF論序説

 I セクシュアリティ
  Chapter 1. 母と娘:母娘の肖像
      (タニス・リー『銀色の恋人』)
  Chapter 2. 出産(リプロダクション):接続された出産
      (ティプトリー Jr.「接続された女」)
  Chapter 3. 女性性器:ヴァギナ状エイリアンの詩学
      (コニー・ウィリス「わが愛しき娘たちよ」)

 II 他者たち
  Chapter 4. サルSF、あるいは霊長類的フェミニズム:アイちゃん・イン・
       ザ・スカイ
      (ターザン、バロウズの火星シリーズ、『猿の惑星』、ほか)
  Chapter 5. 両性具有:父権制下の両性具有
      (アーシュラ・ル・グィン『闇の左手』)
  Chapter 6. ブラック・フェミニズム:ラップ・アポクリファ
      (オクテイヴィア・バトラー『夜明け』ほか)

 III 女性的なもの(ガイネーシス)
  Chapter 7. エコ・フェミニズムSF:言語世界のゴーレム
      (マージ・ピアシイ『彼と彼女とゴーレムと』)
  Chapter 8. ベジタリアン・フェミニズムSF:バナナミートの懺悔
      (スージー・マッキー・チャーナス「オッパイ女」、ほか)
  Chapter 9. ガイネーシス:テクノガイネーシス
      (『スタートレック』のパロディ小説、ストーム・コンスタンティ
       ン『ヘルメテック』)

 Epilogue

 ()内は、とりあげられているSF作品名。

【コメント】
 読んでない作品が多く(邦訳がないものもある)、内容がうまくつかめないところも多かったけれど、刺激的な評論であることは確かです。ただ、どの章も、枚数不足という感を禁じえません。第3章なども、刺激的な作品をとりあげてはいるけれど、作品解説で終わっているようなところもあります。「そこから先が知りたいのよ」というところで終わっている‥‥とおっしゃったのは、さて、誰だったかな?

投稿者 june : 15:58