2010年11月26日

ことばとセクシュアリティ(カメロン&クーリック)

【 書 名 】ことばとセクシュアリティ
【 著 者 】D. カメロン、D. クーリック
【 訳 者 】中村桃子、熊谷滋子、佐藤響子、クレア・マリィ
【出 版 社】三元社
【発 行 年】2009年
【 価 格 】2730円(税込み)
【 ISBN 】4883032523
【KeyWords】言語、セクシュアリティ、メディア

【内容】(目次)

 第1章 つながりを作る
 第2章 セックスを語る、セックスを考える――セクシュアリティの言語的、ディスコース的構築
 第3章 ジェンダーはセックスとどう関係しているのか?言語、異性愛そして異性愛規範
 第4章 アイデンティティとしてのセクシュアリティ――ゲイとレズビアンのことば
 第5章 アイデンティティを超えて――ことばと欲望の関係
 第6章 言語とセクシュアリティ――理論、研究および政治

 解説(中村桃子)

【コメント】

クィア言語研究への道案内

 本書は、Cameron, D and Kulick, D, Language and Sexuality, Cambridge University Press, 2003、の邦訳である。巻末には、訳者の一人である中村桃子によって、本書の内容と本書に対する批判等がまとめられていて、たいへん便利である。手っ取り早く中身について知りたい読者は、こちらを参照していただくのがもっともよい。以下では、巻末のまとめとは少し違った角度から、本書のテーマと視角について紹介してみることにしたい。
 その中村自身にも『ことばとフェミニズム』(勁草書房、一九九五年)、『ことばとジェンダー』(勁草書房、二〇〇一年)といった著作があるが、本書で取り扱われる題材は“セクシュアリティ”である。これは何も違った対象を取り扱っているということではない。セクシュアリティとジェンダーは、日本語で「性」という言葉で示されることがらの、それぞれ別の相といえるからだ。両者は区別しなければならないが、切り離せるものではない。
 本書でも、いくつかの事例を通して、このことが説明されている。たとえば、アメリカのとある大学の学生寮で、その場にいない「すごくゲイのやつ」についてうわさ話をしている男子学生たちは、うわさ話の対象である学生の性的なふるまいについて話をしているのではない(第3章の例(3))。会話の中で取り上げられているのは、むしろ「男性性の欠如」(「足が細くて白い」「女のバレーボール選手のようなショートパンツをはいている」等)なのである。ここでは、「男らしさ」に欠けるというジェンダーへの言及によって、「すごくゲイのやつ」というセクシュアリティについての語りが行われている。そして同時に、うわさ話をしている学生たちは、自分たちがそういった存在とは別ものであること、「男らしさ」を備えた「異性愛」の男性であることをも、お互いに確認している。つまり、わたしたちの社会の異性愛規範は、ジェンダー規範とセットになっているのだ。
 フェミニストの研究、特にラディカル・フェミニズムの視点に立った研究も、ジェンダーとセクシュアリティの結びつきについて強調してきたことは確かである。しかし、本書の著者たちによると、ラディカル・フェミニズムは性的抑圧をジェンダー抑圧の反映であると見なしがちだという(本書一三六頁)。セクシュアリティをジェンダーの問題系に還元せず、その独自性を強調するために、カメロンとクーリックが依拠するのはクィア理論である。
 クィア理論が何であるかを簡単に説明するのは、いささか困難である。というか、そもそも指し示すべき単一の「理論」が存在しない。クィア理論とは、必ずしも求心性があるとはいえない諸理論の複合体なのである。だがあえていうならば、「異性愛規範の批判的検討」(本書二七九頁)という点では一致していると思われる。
 したがってクィア理論は、必ずしも「クィアな存在」、つまり同性愛者や両性愛者、トランスセクシュアルなどだけを対象とするわけではない。ゲイ男性やレズビアンの経験も、異性愛の文化や制度と無関係には理解することができないからだ。本書でもカメロンとクーリックは、セクシュアル・マイノリティの言語表現について取り上げるだけではなく、異性愛者たちの語りやアイデンティティ形成にも関心をよせる。先ほどの男子学生たちの会話分析もそうだ。彼らは「すごくゲイのやつ」について語ることによって、自らが異性愛者であることを確認している。異性愛であることとは、「同性に関心がないこと」によって定義されるものなのだ。
 こうした「異性愛であるか否か」という性的アイデンティティに関する確認は、常に行われる必要があり、現に行われている。異性への性的な関心の表明や異性の関心の獲得は、特に思春期には、個人の「社会的価値」と結びつけて評価されもする(本書第3章の例(4))。それゆえ時に過剰なものともなりがちである。すでに非異性愛者であるかもしれないとうすうす自覚している者にとっては、繰り返される確認の「儀礼」は、限りなく苦痛なものともなる。
 個人の性的アイデンティティとは、常に「問いに付されている」――プロセスとして存在するものだということだ。ジュディス・バトラーは「ジェンダーはパフォーマンスである」と述べたが、セクシュアリティも、さまざまな実践――本書で描かれているように、特に言語実践――を通してパフォーマティブに構成されているものといえる。これまでの研究では、ともすると「ゲイである」という性的アイデンティティが先にあって、「ゲイ・アイデンティティ」を持つものの語りとして「ゲイことば」があると考えられてきたが、むしろ逆に、具体的な言語実践を通して、特定の性的アイデンティティが文脈に応じて構成される、と考えなければならないだろう。
 このように、既存の「言語とセクシュアリティ研究」への批判と、それにかわる視角を提示している本書は、言語のクィア研究への道しるべとして重要な位置を占めているといえる。日本でも二〇〇七年一〇月にクィア学会が設立されたばかりである(訳者の一人であるクレア・マリィは設立大会での基調講演者であった)。研究の本格化が予感される時期の、タイムリーな出版であったといえよう。広く関心を集めてほしい一冊である。

投稿者 june : 19:25

2008年12月30日

〈性〉と日本語(中村桃子)

【 書 名 】〈性〉と日本語
【 著 者 】中村桃子
【出 版 社】日本放送出版協会
【発 行 年】2007年
【 価 格 】1019円(税込み)
【 ISBN 】4140910968
【KeyWords】メディア、言語、アイデンティティ、セクシュアリティ

【内容】(目次)

 はじめに

 第一部 「わたし」はことばでつくられる
 第1章 ことばとアイデンティティ
 第2章 「翻訳」のことばを読むーー再生産される言語資源

 第二部 日本語に刻まれた<性>
 第3章 セクシュアリティと日本語
 第4章 変わりゆく異性愛のことば
     ーー「スパムメール」「スポーツ新聞」「恋愛小説」

 第三部 創造する言語行為
 第5章 なぜ少女は自分を「ぼく」と呼ぶのか
 第6章 欲望を創造するーー消費社会と<性>

 終章 「日本語=伝統」観の閉塞を超える

 あとがき

【コメント】

■「ことば」という制度と実践

 中村桃子さんの著書は、出たら買う。これはもう、ずっとそうだ。
 最初に読んだ『ことばとフェミニズム』(勁草書房、一九九五年)以来のことである。手堅く、必ず何か新しいことを教えてくれるという安心感がある。最新刊のこの本も、今回編集部より書評依頼があったとき、もちろんすでに手元にあった。NHKブックスということで、たしかに一般向けに書かれてはいるが、どうしてなかなか手強い本である。
 実はこの本よりもやや先に出版された『「女ことば」はつくられる』(ひつじ書房、二〇〇七年七月刊)が、〇七年十一月に山川菊栄賞を受賞している。そこで用いられている「言語イデオロギー」という考えを、翻訳、ジャーナリズムの文体、コミックやゲーム、スパムメール、女の子たちの自称、ファッション雑誌のコピーといった、さまざまな現代語の実践の場に持ち込んだのが本書である。
 さかのぼれば、すでに『ことばとジェンダー』(勁草書房、二〇〇一年)で
「イデオロギーとしての『女ことば』」という考えが打ち出されており、直接に「ことば」をテーマとする一連の著作の中で、着実に議論が深められてきていることがわかる。
 本書では、「言語イデオロギー」が実際の言語行為に与える創造と制限という影響のうち、前者により焦点を当てている。その側面を強調するために用いられるのが、冒頭から頻出する「言語資源」という概念である。
 たとえば、日本語には「わたし」だけでなく、「あたし」「おれ」「ぼく」「わし」などのさまざまな一人称がある。それだけでなく、自分の名前を使って「○○(ちゃん)は〜」などということもできる。これが自称詞における言語資源ということになる。
 子どもたちは、家庭や学校、地域、あるいはメディアなどからこうした資源を獲得してくる。学校や家庭では、子どもたちに対して、男の子には「ぼく」を、女の子には「わたし」を使うように、と自称詞を制限することもある。それは社会でのジェンダー規範にそった用法だ。子どもたちは成長の過程で、さまざまな機会に、このようなジェンダーの二分法に出くわすことになる。そしてある場面ではこの二分法に同調するかもしれないが、別な場面ではそこから逸脱するような自称を用いたりもする。
 もっとも、自分を「ぼく」と呼ぶ女の子も、「ぼく」が社会一般では男性が用いる自称詞であることは理解している。だが彼女たちはそれを承知で、もっともふさわしいと思うことばとして「ぼく」を選び、自己のアイデンティティの表現として用いるのだ。
 だから、女の子たちの「ぼく」という自称は、必ずしも男性化願望ではない。むしろそれは、幼い時代の「○○ちゃん」とおとなの女性の「わたし」との狭間での、創造的な〈少女性〉の表現にほかならない。
 しかしだからこそ、いわゆる「ギャルゲー」で「ぼく・きみ」で話す女性キャラクターに、プレイヤーである男性たちは「萌え」られるのである。彼らは少女たちの「男性性」に惹かれるのではない。「ぼく」という自称詞を用いる女の子を、「未成熟な少女」という性的対象として消費しているのだ。
 女の子の側にとってみれば、「わたし」という自称を避け、おとなの女性であること(つまり異性愛規範に組み込まれること)を拒否することが、別な形での異性愛体制の強化につながってしまうことになる。言語行為の創造的な側面も、決して単独では存在し得ないといえる。
 「ことば」はジェンダーをはじめ、地域性や人種、階層などのさまざまな社会秩序=権力構造とからみあいながら存立している、一つの制度である。それは決して固定的なものではなく、歴史の中で社会・経済の変動にともなって変わりうるものであり、上で述べたような「ずれた」実践の積み重ねで変容するものでもある。
 ただし、そうした「ことば」の実践から生じるゆらぎも、何らかの形で再秩序化されていく面もあるということだ。「声に出して読みたい」ような「正しい日本語」が確固として存在し、そこからの逸脱を「乱れ」として常に気にしがちなわたしたちだが、実は「ことば」の明日を作るのはわたしたち自身の言語実践である。本書は「ことばについて語ることば」、すなわちメタ言説としてそのことに気づかせてくれる。
 支配的な言語イデオロギーを裏打ちするようなものではなく、「ずれた」メタ言説をいかに生み出していけるか。それもまた一つの言語実践であるに違いない。(『図書新聞』、第2859号掲載)

■付記

 1点だけコメント。思わず笑ってしまったのだけど。第4章で紹介されている事例だが、スパムメールの文面には、交際を求めている女性のプロフィールとして「身長:160-164cm」などとと書いてあったりするという。これについて、中村さんは、


身長が四センチも伸び縮みする女性も見てみたい(p.113)

と苦笑せんばかりに書いているが、これは数値データではなく、アンケートなどでよく使われるカテゴリーデータと理解するべきである(「30-34歳」のような)。「恋愛観:その他」も、スパマーはカテゴリーデータとして提示していると思われる。

投稿者 june : 15:40

2008年02月14日

少女マンガジェンダー表象論(押山美知子)

【 書 名 】少女マンガジェンダー表象論
       ――“男装の少女”の造形とアイデンティティ
【 著 者 】押山美知子
【出 版 社】彩流社
【発 行 年】2007年
【 価 格 】2310円(税込み)
【 ISBN 】4779112443
【KeyWords】メディア、少女、アイデンティティ

【 内 容 】(目次)

第1章 “男装の少女”キャラクターの出発点
第2章 「傍流」としての“男装の少女”
第3章 “男装の少女”の成長
第4章 “男装の少女”の反復と再構築

【コメント】

■ジェンダーに敏感でありたいと願う読み手と、そして描き手/書き手のために

 戦後日本の少女向けコミックでは、『リボンの騎士』のサファイヤを出発点として、さまざまな〈男装の少女〉が描かれてきた。確かに彼女たちは、既存のジェンダー規範を服装と行動の面で越境しようというキャラクターとして設定されているが、実は限界もある。多くの場合少女たちの〈男装〉は、第二次性徴前や、結婚前つまり異性愛関係に入る以前の一時的なものとされている。また、単独でしか登場しないこともしばしばである(物語中や、作品の集団内に一人しかいない存在として描かれていることが多い)。場合によっては、むしろジェンダー規範を強化するような、戯画的な存在=道化としてしか描かれていないこともある。
 こうした長い歴史を持つ〈男装の少女〉という表象の影響力と意味を、顔の造作や眼の描き方、服の色やデザインといった視覚的な表現の分析を取り入れて再評価していることが、本書の大きな特徴である。第一章では『リボンの騎士』、第二章では一九六〇年代に描かれた〈男装の少女〉たち、第三章では『ベルサイユのばら』のオスカル、第四章では『ベルばら』以降の諸作品が取り上げられるが、これまで多かったストーリー中心の解釈だけでは得られない評価が、それぞれの作品について与えられている。キャラクターの空間配置とジェンダー表象の関係についての指摘(右から左へ時間が流れる日本のマンガに独特の「画面右側=能動的/左側=受動的」という図式が、「男性的/女性的」という関係に重ねられていること)などは、近年のマンガ研究の成果を十分に取り入れたものだといえる。雑誌掲載版の参照、単行本化されたものとの異同の確認、インタビューなどのさまざまな資料の活用といった地道な作業の上に、こうした分析が立脚していることも忘れられてはならない。
 特に第四章での『ベルサイユのばら』の分析は、ジェンダーに敏感にありたいと望む表現者にとってもきわめて示唆的である。作者の池田理代子は、オスカルに単に軍服を着せるだけのものとして〈男装〉をさせたのではない。『リボンの騎士』では微妙に隠蔽されていた身体性の問題を回避することなく表現するといった、テーマ上の試みもある。さらにそれに加え、男性キャラクターともその他の女性キャラクターとも異なる表現でオスカルを描くという、視覚表現上のさまざまな挑戦があって初めて、〈男装〉という性別越境が既存のジェンダー秩序を相対化する力を持つことができるのだということが、説得的に示されている。男性キャラクターと対するときと他の女性キャラクターと対するときでのオスカルの顔の描き分けや、年齢の経過による顔の造作の変化への着目がそれである。第四章後半で議論されているように、掲載誌『週刊マーガレット』の〈男装の少女〉が登場する同時期の作品と対比すれば、『ベルばら』における〈男装の少女〉の表現技法と、この作品の中で〈男装〉という性別越境に与えられている意味の独自性が、よりはっきりと理解できるだろう。
 つまり〈男装の少女〉とは、描きにくいキャラクターなのである。マンガという、ある意味表現上の「お約束」を守ることでなりたっている世界では、特にそうなのだ。既存の表現上のジェンダー・コードにおさまりきらない彼女たちは、描き手にまずそのことで困難をつきつける。安易に描けば惰性化する。性別ごとの服装コードがゆらいでしまった現代社会を舞台とすることがむずかしいという制約の厳しさもある。八〇年代以降の「戦闘美少女」の台頭の中で、服装上は女性的でありつつ、主体的・活動的でもあろうという設定もとみに一般化した。少女マンガではないが北条司の『キャッツ・アイ』の来生三姉妹はレオタードを身にまとうし、武内直子の『美少女戦士セーラームーン』でもミニスカートのセーラー服が戦闘コスチュームだ。そして彼女たちはチームを組んで戦いに出る。
 しかしこうした服装コードの変化や表現上の多様化が、決してジェンダー・カテゴリーの消滅やその抑圧性の除去を意味するものではないことも確かである。著者が本書の結論部分で指摘するのは、〈男装の少女〉という表現形態とは、自律的主体としての少女を描くための一つの方法論であったということである。形は変わるかもしれないが、同じ目的での方法論は、新たな環境の中でジェンダーやセクシュアリティにかかわる表現を切り拓こうとする際に、今後も必要になるものであるだろう。読み手が作品を十分理解するためだけでなく、描き手/書き手の新しい方法論探究のための素材としても、あるいは媒介者たる編集者の思考の材料としても、本書の分析は導きの糸となるに違いない。
(初出:『図書新聞』、2822号、2007.5.26)

投稿者 june : 16:21

「少女」の社会史(今田絵里香)

【 書 名 】「少女」の社会史
【 著 者 】今田絵里香
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】2007年
【 価 格 】3465円(税込み)
【 ISBN 】4326648783
【KeyWords】子ども、社会史、家族、教育、メディア

【 内 容 】(目次)

序章 「少女」と都市新中間層
1 少女研究の課題
2 都市新中間層の女子
3 少女雑誌

I 「少女」の誕生とその変遷

第1章 「少女」の誕生――少女雑誌以前
1 子ども雑誌『穎才新誌』
2 「少年」の意味するもの
3 ジェンダーの変容
4 少年・少女
5 少年少女雑誌の登場
6 メリトクラシーとジェンダー

第2章 「少女」の身体の変遷
1 ヴィジュアル・イメージ
2 母親に守護される少女・勉強とスポーツをする少年
3 幼女ではない少女・勉強とスポーツをする少年
4 スポーツをする少女・軍国少年
5 軍国少女・軍国少年
6 「少女」のヴィジュアル・イメージ

第3章 近代家族と「少女」
1 家族と少女
2 親には絶対服従
3 近代家族的な情愛に裏打ちされた孝
4 孝から近代家族的な情愛へ
5 近代家族的な情愛の下で立身出世する
6 「国家」と忠の選択
7 子どもと「少女」

第4章 「少女」の成功
1 女性の成功とはなにか
2 属性主義の排除
3 成功の条件
4 実現困難という装置
5 スターの排除
6 「成功」の異なる意味合い

II 「少女」の受容

第5章 少女ネットワーク
1 少女ネットワークの形成
2 ネットワークの機能
3 核としての清純主義・芸術主義
4 成員の証としてのペンネーム
5 「少女」バッシング
6 コミュニティの解体
7 清純主義・芸術主義

第6章 エスという親密な関係
1 エスと文字世界
2 『少女の友』における友情小説の流行
3 『少女画報』の「薔薇のたより」
4 エスとはなにか
5 対抗文化としてのエス
6 「薔薇のたより」における裏切り
7 エスと少女ネットワーク

終章 「子ども」のジェンダー

【コメント】

■ジェンダー化される「子ども」――「少女」イメージの形成と変遷
 近代家族論がつとに指摘してきたことであるが、近代社会の中で「子ども」という存在は独自の価値を与えられてきた。「子ども」は「おとな」とは区別されるものとして、労働から解き放たれて親の庇護下におかれ、教育を受けるべき存在として、また本来的に「無垢」な存在として位置づけられてきた。
 日本で近代家族は、明治末から大正にかけて、都市新中間層の家族として成立してきたというのが、これまでの研究の成果である(いわゆる教育家族)。新中間層において子どもたちは、それまでよりも、また農民や労働者階級の子どもよりも、長い期間学校に囲い込まれ、学歴取得によって将来を確立すべきものとされてきたのである。
 本書の著者、今田絵里香氏が疑問を呈するのは、まずこの点についてである。近代家族論は、一方では性別役割分業の近代的再編と、その中への成人男女の組み込みを指摘してはいるものの、「子ども」のジェンダーについてほとんど言及しない。これはどういうことだろうか。学歴取得による社会的達成の回路は、当時明らかに男女で異なっていたのではなかっただろうか。
 また、高等女学校という教育制度によって時間が確保され、少女雑誌というメディアを通じて内容が与えられてきた「少女」文化については、これまでも研究が蓄積されてきた。だが著者によれば、これまでの研究では必ずしも「少女」イメージの変遷に注意が払われておらず、「少女」という表象が生み出され、人びとに支持された社会的背景、あるいは「少女」という表象が持っていた社会的機能が十分に説明されていない、という。
 つまり本書で問題にされるのは、「少女」というイメージが「少年」と異なるものとしてどのようにして形成され、都市新中間層の女子たちがどのようにそのイメージに自らを同一化していったかということである。さまざまな少女雑誌・少年雑誌の分析によって、今田氏は「少女」イメージの歴史的変遷をたどり、表象の社会的意味を明らかにしていこうとする。巻末に分析対象とされた雑誌のリストがあるが、その量の膨大さには驚かされる。
 ビジュアルな表紙絵の検討も目を引くが、小説や投稿欄を丹念に読み込んだ分析も読みごたえがある。これらの分析から明らかになることは、中等教育における男女別学制の確立という制度上の変化が、少女雑誌・少年雑誌という性別カテゴリーに対応したメディアの需要を喚起したこと、またこれらのメディアによって「少女」イメージが読者の間に「少年」とは異なるものとして確立されていくこと、主体と家族との間の規範的関係が言説上で表現され、さらにはそれが時代とともに変化していくこと、などである。投稿欄などでのペンネームの使用や、投稿や手紙等での「テヨダワ言葉」「キミボク言葉」というような独特の文体の使用が、主体形成上の重要な実践であったことも指摘されている。
 これまで当然視されてきた「子ども」や「社会的成功」「メリトクラシー」といった概念も、本書の検討を通じて問い直しを要求されることになる。これらの概念はあまりにも男性中心的なものではなかったか。この問題提起を含むという意味で、本書はきわめて質の高いジェンダー研究としての条件を備えている。
 またこれまでは、「少女幻想共同体」(本田和子)や「オトメ共同体」(川村邦光)など、読者同士のコミュニティがメディアによって媒介されている面が強調されてきたきらいがあった。しかし本書では、愛読者大会(雑誌『少女の友』では「友ちやん会」と呼ばれた)という形で、直接的な読者間の交流も行われていたことや、それをきっかけに投稿欄を離れて文通を含む交際が始まることが指摘されていることも興味深い。「エス」と呼ばれる同性間での排他的愛情関係(排他的とはいっても、同時に複数の相手とエス関係にある少女も実際にはいたようで、排他性はあくまでも理念である)も、こうした人間関係を強化・継続することに一役買っていたようである。日本近代における「シスターフッド」形成の一側面といえるだろう。
 もちろん本書で問題とされた「子ども」とは、あくまでも思春期以降の子どもであることには留意しておく必要がある。学齢期以前、あるいは尋常小学校・国民学校段階の子どもはどのようなジェンダー化の作用を受けていたのか。この点を明らかにするには、本書とは違うアプローチが必要になるだろう。だがその射程が及ぶ範囲では、本書の提供してくれる知見はきわめて刺激的なものであり、近代家族論や子ども研究を大きく前進させるものであることには間違いがない。
(初出:『図書新聞』、no.2817、2007.4.14)

投稿者 june : 14:35

2004年12月26日

きょうも料理(山尾美香)

【 書 名 】きょうも料理――お料理番組と主婦 葛藤の歴史
【 著 者 】山尾美香
【出 版 社】原書房
【発 行 年】2004年5月3日
【 価 格 】1800円+税
【 ISBN 】4-562-03763-6
【KeyWords】マスメディア 家事 性役割

【 内 容 】(目次)
【コメント】

 きょうも料理、あすも料理。
 とにかく主婦たるもの、家族の料理をきっちり毎日作らなければいけない。昨日と同じ献立じゃ子どもが文句たれるし、ダンナはなんだかこないだの検査で中性脂肪値が高かったからお肉じゃなくて魚にしようか、そうするとごはんとおみそ汁と焼き魚ってわけにいかないから、もう一皿おかずがいるなあ、何にしよう、困った、どうしよう……。
 と、実際に困っていた人が書きあげた修士論文が元になった本がこれ。慣れない主婦業、特に食事のしたくに悪戦苦闘しながら、「やめちゃえばいいじゃん!」と思いつつも包丁は手放せない、それはいったいなんでなんだろう、と疑問に思った著者の、「鍵は料理番組にあるのではないか」という着想から生まれたものだ。
 第1章から第3章までは、テレビの料理番組誕生以前の話。「家庭料理」が主婦の家族への愛情と結びつけられていくプロセスは戦前期にも存在したことが、「家庭料理指南」の本や新聞・雑誌記事から明らかにされる。しかしそれは、戦中と戦後の物資の欠乏と社会的混乱でいったんは白紙に戻る。そう、大正期ぐらいまでは、いや農村では昭和に入っても、ごはんとみそ汁と香の物だけの食事だってめずらしくはなかったし、おかずだって毎日同じ食材が続くことは当たり前だったのだ。
 しかし、高度成長あたりからその状況が変わってくる。次第に毎日献立を変え、レパートリーが増え、さまざまな食材が食卓に上るようになる。いや、「変えなければならない」「増やさなければならない」という半強制的な力がそこに働くのだ。「家庭料理」と「愛情」の結びつきの復活だ。その力となったのが、マスメディア、特にビジュアルに訴えかけてくるテレビ番組と、テレビ番組の内容と連動したカラフルなテキストだという。
 「ちゃんちゃかちゃかちゃか、ちゃんちゃんちゃ〜ん」のメロディでおなじみのNHK「きょうの料理」は、その嚆矢だ。この番組の開始は1957年11月だから、もう半世紀近く続いている超ロングラン番組ということになる。
 これらの料理番組は料理に必要な知識や技術を伝授するだけではない。「手作り料理は主婦の家族に対する愛情表現です」「手数をかけることがおかあさんの愛情の深さの表現です」という「愛情イデオロギー」を社会的に流布する媒体でもあった、と筆者は述べている(第4章)。もちろんそれを正面から受けとめたのは、主婦であり、母親である「女性」たちだ。男性を対象にする料理番組や雑誌もあったのだが、結局彼らの料理は「趣味」や「楽しみ」の域を出ていない。「日常」ではないのだ。
 家電製品の普及と共に、家事労働は軽減される――と思いきや、実は家事時間はまったくこの40年減っていない(1960年と2000年の既婚女性の一日あたりの家事時間はほぼ同じ)。それは、食事作りをはじめとして、さまざまところにより手数をかけるようになったからだ。「愛情」は次第にエスカレートしていく傾向にある。インフレは貨幣価値だけでなく家事労働時間の価値にも起こったのだ。
 「近代家族」独特の情緒性の強調、特に女性への割り当て、性別役割分業イデオロギーの流布、これらを率先して行なったのが、NHKという「公共放送」だったということだ。なんということだろう。
 本書はそのなりゆきをていねいに追いながら、家庭料理の「伝統」が戦後に「捏造」されるプロセスや、最初は栄養が、そして近年は家族の健康維持が、と、次々と新しい課題が料理をめぐって持ち込まれてくる様子を描いている。しかも楽しく読め、わかりやすい。家事が苦手、だけど自分がやらないと、という使命感に燃えている真面目な人に、まずは読んでほしい。

投稿者 june : 18:06

1998年09月23日

紅一点論(斎藤美奈子)

【 書 名 】紅一点論
【 著 者 】斎藤美奈子
【出 版 社】ビレッジセンター出版局
【発 行 年】1998年7月18日
【 価 格 】1700円+税
【 ISBN 】4-89436-113-2
【KeyWords】ポピュラー文化 子ども文化 メディア

【 内 容 】

 はじめに――世界は「たくさんの男性と少しの女性」でできている

 紅一点の国
  第一章 アニメの国
  第二章 魔法少女と紅の戦士
  第三章 伝記の国
  第四章 紅一点の元祖ジャンヌ・ダルク

 紅の勇者
  第一章 少女戦士への道――『リボンの騎士』『ハニー』『セーラームーン』
  第二章 組織の力学――『ヤマト』『ガンダム』『エヴァンゲリオン』
  第三章 救国の少女――『コナン』『ナウシカ』『もののけ姫』
  第四章 紅の勇者の三〇年

 紅の偉人
  第一章 天使の虚偽――フローレンス・ナイチンゲール
  第二章 科学者の恋――マリー・スクロドフスカ・キュリー
  第三章 異能の人――ヘレン・ケラー
  第四章 紅の偉人の五〇年

 あとがき――「萬緑叢中紅一点」を超えて

【コメント】

 議会や企業経営者など、この社会の上層部はすべからく「たくさんの男性と少しの女性」で構成されていて、しかもそれをわたしたちは、誰に教わるともなく、テレビアニメや伝記を読んでいて自分で知るのだ、と「はじめに」の部分で書かれています。『ウルトラセブン』のウルトラ警備隊なら友里アンヌ、『宇宙戦艦ヤマト』なら森雪、女の子が座れる椅子は一つしかない――それが「紅一点現象」なのだと。
 紅一点現象とは、一つには「数」の問題であるけれど、でも「質」の問題でもあります。なぜなら、彼女は「ひとりだけ特別に選ばれた女性」で、しかも、彼女の仕事・役目はごく限られたものだったから。闘いで傷ついた男の子をケアしたり、通信係=電話番をしたり、はたまた非公式には「お色気担当」であったり。ただしこれは、「男の子の国」の物語の話だけれど。(日本ではアニメーションもマンガも、「男の子向け」「女の子向け」に高度にジェンダー化されており、特に銘打っていない場合には暗黙裡に「男の子向け」である場合が多い。)
 じゃあ、「女の子の国」では?というと、「恋愛立国」である「女の子の国」でのヒロインは、常に「魔法少女」。「男の子の国」がわけがわからなくともいちおう「科学」で動いているとするなら、こっちはそもそもリクツがつかない「魔法」が作動原理なのだ。(そしてその「魔法」のうちでも最大にワケがわからんのが「愛」とかいうものである。)
 斎藤図式によれば、「魔法少女」は「父親から見た理想の娘」で、「男の子の国」の紅一点ヒロインである「紅の戦士」は「上司から見た理想のOL」であるという‥‥いささかミもフタもないが。しかし、幼い頃から繰り返しこのパターンで攻められたら、どんなふうに女の子も男の子も感じるだろう。
 ただ、『美少女戦士セーラームーン』にしても『新世紀エヴァンゲリオン』『機動戦艦ナデシコ』にしても、1990年代、特に後半以降の作品では、明らかに従来の枠組みは崩れつつある。『セーラームーン』各シリーズは、「女の子の国」の作動原理をそのままに、「男の子の国」のチーム性などの要素を付加したハイブリッドな構造を持つし、『エヴァ』にせよ『ナデシコ』にせよ、「男の子の国」のお話なのに、女性が指揮する女性主体の実戦部隊を有するという意味ではすでに「紅一点」を脱している。ただしそのとたんに、『ナデシコ』はナンセンスの方向へ走り出すし、『エヴァ』ではそもそも「物語」自体が崩壊してしまったけれど。これはある意味で、従来のアニメーションの構成原理の危機を意味しているのかも知れない。
 『紅一点論』がユニークなのは、アニメだけでなく「伝記もの」を視野に含んでいるところだ。伝記の世界でも、出てくる「偉人」はたいてい男、女性は、紫式部とかマリー・キュリー、ヘレン・ケラーなどごく少数。しかも、取り扱われかたにたいへんな偏りがあるという。これが第3部の「紅の偉人」の主題になる。「科学が好きな女の子に育てたい」とか思ってマリー・キュリーの伝記を子どもに買って読ませても、マリー・スクロドフスカとピエール・キュリーのラブ・ロマンスを中心に読まされることになるかも知れないのだ。
 ところで、最近ようやくアニメを見始めたわたしとしては、いくつか引っかかることが。斎藤の前著「紅の戦士」(『ハイパーヴォイス』、ジャストシステム、に収録)に関しては「ハチャメチャな女の子二人組が活躍する『ダーティペア』は?」という疑問を持ったものだが、今回は、「男の子向けアニメなのに魔法少女が活躍し、しかもその行動原理は食欲と物欲(笑)という『スレイヤーズ』シリーズは?」という疑問を持った。もちろん斎藤図式で説明不能ではないのだが(『セーラームーン』と同様、ハイブリッドな構造を持つと言える)、あれだけヒットした作品に言及がなされていないのがいささか気になるところではある。

投稿者 june : 17:02

1997年03月10日

DNA伝説(ドロシー・ネルキン&M・スーザン・リンディ)

【 書 名 】DNA伝説 〜文化のイコンとしての遺伝子
【 著 者 】ドロシー・ネルキン&M・スーザン・リンディ 訳:工藤政司
【出 版 社】紀伊國屋書店
【発 行 年】1997年2月28日
【 価 格 】2400円
【 ISBN 】4-314-00787-7
【KeyWords】マス・メディア 優生学 公共政策

【 内 容 】

 まえがき

 第一章 遺伝子の力
 第二章 優生学的遺伝子
 第三章 聖なるDNA
 第四章 分子家族
 第五章 プレスリーのDNA
 第六章 生まれつきの差異を創る
 第七章 赦罪――責任と罪の所在
 第八章 遺伝子本質主義の適用
 第九章 遺伝子未来主義
 第十章 超遺伝子

 訳者あとがき

【コメント】

 これは生物学の本ではありません。タイトルに「伝説」とあるように、「DNAという存在が現在文化(主にマス・メディア)の中でどのように取り扱われているか」、つまり生物学の文化的表象・イメージがどのようなものであるかを探求した著作です。
 近年のアメリカでのさまざまな文化的潮流の中にあるDNAの過剰な露出を、筆者たちは「遺伝子本質主義」と呼びます。たとえば、「家族の絆」は「育ち」ではなく遺伝子的連続によるものだという観念から、裁判所が親権をめぐる判決を下すようになっているということ、あるいは、出生直後に養子に出され、生みの親を知らない子どもが自分の生物学的両親を捜すのを支援する組織が数多く生まれてきていること、など。
 あるいは、ガンや高血圧の原因となる遺伝子情報の所在が発見されるようになっていると同時に、その情報に対してはプライバシー権が及ばず、個人情報が生命保険会社などに流通していること(もちろん、保険料の引き上げのために使われる)、「犯罪遺伝子」によって罪を問われない代わりに矯正の望みもないとされて、一生施設に閉じ込められたり、「悪い」遺伝子を未来に残さないようにするために避妊手術を受けさせられたり。
 ゲノム研究は、さまざまな不幸を取り除く可能性を持った研究であると同時に、かつての優生学が持っていたような「選別の論理」(優生学は、「優れたものを生かす」という意味ですが、実際は「劣ったものを排除する」ために使われました)として働くという側面を実際に持っています。筆者たちは終章で「多くの科学者は以上述べた可能性に気がついている」と言っていますが、もちろん、科学者でない一般のわたしたちこそ、生殖の国家管理や社会問題を個人の遺伝子の問題に還元するような傾向について、きちんとした知識と対応を考えておく必要があるといえるでしょう。

投稿者 june : 18:13

1996年04月27日

きっと変えられる性差別語(上野千鶴子+メディアの中の性差別を考える会編)

【 書 名 】きっと変えられる性差別語 〜わたしたちのガイドライン
【 著 者 】上野千鶴子+メディアの中の性差別を考える会編
【出 版 社】三省堂
【発 行 年】1996年4月30日
【 価 格 】1500円
【 ISBN 】4-385-35721-8
【KeyWords】ことば、マス・メディア、ステレオタイプ

【 内 容 】(目次)

 本書を編むにあたって‥‥わたしたちはこう考えます
 この本について はしがき
 ジェンダー的公正報道の五原則

 第1章 こんな風に呼ばれたくない 〜女の呼称と名称
 第2章 こんな言葉は願い下げ 〜おしつけられたイメージ
 第3章 決まり文句に見る女性像
 第4章 男の偏見まる出しの視点
 第5章 男が特別扱いされる時
 第6章 言語変革と社会変革 〜アメリカの場合
 第7章 ジェンダー的公正原則の提案へ
      アメリカの非差別言語運動と日本の差別語問題

 国内男女平等ガイドライン関連資料
 参考文献
 あとがき
 1〜5章に出てくる項目索引

【コメント】

 「言葉は権力です」「言葉は生き物です」「マス・メディアは権力を行使しています」「表現をめぐる闘いは、メディアの行使する権力との闘いです」「性差別語ガイドラインは、公権力による検閲でも法律による規制でもなく、市民による『もう一つの提案』です」
 この宣言から始まる本書は、マス・メディアの中での女性の呼称、表現のされ方の中にある、女性のイメージ、ひそかな男性の偏見を、具体的な個々のことばにそって洗いだしていこうとする。
 とりあげられていることばは、「AさんとB子さん」「主婦作家」「真紀子長官」「処女作」「うち女性○人」「化粧っ気なし」「男まさり」「男も子育て」「主人」などなど。男性の呼称も若干取り上げられている。
 問題なのは、本書の冒頭の宣言からもわかるとおり、ある特定の言葉を使わない・使わせないようにするということではない。本書では、「ジェンダー・フリー(性別情報不問)」「ジェンダー・フェアー(ジェンダー的公正)」「パラレル・トリートメント(両性の対称な扱い)」「インクルーシブネス(包括的な表現)」「バイアス・フリー(脱・固定観念)」という五つの原則にのっとって、何が問題なのかを指摘し、対案を提示する。その言葉が時にはあからさまに、時には暗に持っているさまざまな偏りや排除の論理を明らかにし、別の、より好ましい表現はないのかと考えていくところにあるのだ。
 一つ一つのことばに割かれた紙面は少ないものの、目的に適合的に作られた、使い易い本である。
 ちなみに本書、顔マーク(通信で使われている(^^;)とかではない)で、「えーっ、そんな」や「ゼエッタイ困る」を表わしており、このあたりけっこう愉快で楽しむこともできる。

投稿者 june : 07:05

1995年10月09日

戦争がつくる女性像(若桑みどり)

【 書 名 】戦争がつくる女性像
【 著 者 】若桑みどり
【出 版 社】筑摩書房
【発 行 年】1995年9月20日
【 価 格 】2200円
【 ISBN 】4-480-85716-8
【KeyWords】美術史、マス・メディア、母性

【 内 容 】(目次)

 まえがき

 序章 前提 戦争・女性・イメージ

 第一章 日本の戦時体制と女性の役割

 I 戦時下の母性政策
 II 非戦闘員としての女性が戦時に担う一般的役割
 III チアリーダー 「戦争援護」集団としての女性の動員

 第二章 戦時下の婦人雑誌にみる女性イメージ

 I 一般戦争画と婦人雑誌の挿絵との差異について
 II いくつかの国策婦人雑誌の記事と視覚ページの特質
 III 「主婦之友」の記事の特質とそのイメージ
 IV まとめ――象徴としての女性像

 結び

 あとがき

 年表(昭和元〜20年)

【コメント】

 戦争画の研究というのはあるようですし、戦時中の婦人雑誌の研究というのもあります(『婦人雑誌からみた一九三〇年代』同時代社)。しかし、美術史家が婦人雑誌の表紙・口絵・挿絵等をとりあげたものとしては初めての研究と言えるでしょう。
 若桑さんはまた別な意味で最近注目していたのですが、本書の出版は大きな衝撃でした。この本は2時間ほどで一気に読み上げてしまいました。
 本書では、まず前半で、欧米の研究も参照されながら、戦争と女性の関係が読み説かれていきます。戦争=男のもの、平和・慰安=女性のものというイメージ動員は、戦争に反対する側がしばしば用いるレトリックですが、これは実は戦争を推進する側の論理でもあります。「母」のイメージ動員が戦争を推進するために、しかも執拗に行われていったことが、豊富な資料から明らかにされていくのが第二章です。
 「母」は、「産み育てる」もの・「癒す」ものであると同時に、「チアリーダー」としても機能していたということもまた重要な指摘でしょう。近年、第二次世界大戦中の女性の戦争協力についての研究がかなり出てきていますが、それが芸術画ではなく大衆が家庭内で目にすることのできる雑誌の表紙画・挿絵を通してどのように視覚イメージとして流通していたかがわかります。「母」は兵士を「行きなさい!」と送り出し、傷ついて戻ってくれば彼を癒し、そしてまた送り出すという残酷さをも持つのですが、その厳しさも、女性が「国に仕える」ありかたとして肯定的に描かれるのですね。
 時局が逼迫してくると、「慈愛に満ちた母」のイメージよりも、総力戦のもう一つの前線である産業に従事する女性のイメージが増加してくるようになるようです。その時の女性の表情もずいぶんと硬いものになり、「戦い」の中にいるのだということが表わされるようになります。
 母性というのは、クリステヴァなどの指摘にもありますが、必ずしも「産み・育て・癒す」ものではありません。「産む」ということそのものが、そもそも秩序に新たなものを送り込むことであり、秩序の攪乱の契機でもあるわけですが、ここでは母性はそういった危険な側面をすべて切り落とされて、有効に秩序維持とその力の強化に貢献するようにさせられている、そのための動員の手段の豊富さ・執拗さがよくわかる一冊です。

投稿者 june : 00:01

1995年08月15日

日本語は女をどう表現してきたか(キトレッジ・チェリー)

【 書 名 】日本語は女をどう表現してきたか(原題:"Womansword")
【 著 者 】キトレッジ・チェリー、栗原葉子・中西清美訳
【出 版 社】ベネッセコーポレーション(福武文庫)
【発 行 年】1995年7月10日
【 価 格 】600円
【 ISBN 】4-8288-5728-1
【KeyWords】日本語、ライフサイクル

【 内 容 】(目次)

 第1章 女であること
天照大神/姉御肌/アンネの日/美人/ブス/男女(だんじょ)/丙午の女/
姦しい/紅一点/女人禁制/女/女文字/女らしさ/男勝り/男役/両手に花

 第2章 少女からお嫁さんへ
僕/ぶりっ子/デートをする/箱入り娘/花嫁修業/雛祭/女子大生/お嬢
様/良妻賢母/成人の日/スケ番/適齢期

 第3章 結婚生活
出戻り/ゴキブリ亭主/家風に染まる/夫婦茶碗/飯! 風呂! 寝る!/
婿養子/内助の功/蚤の夫婦/奥さん/おしどり夫婦/押しかけ女房/夫を
尻に敷く/千円亭主/嫁に行く

 第4章 母として
父兄/一姫二太郎/ママゴン/水子/帯祝い/お袋/里帰り/子宮/スキン
シップ/石女

 第5章 外で働く女たち
男女雇用機会均等法/芸者/行商のおばさん/保母と看護婦/育児/女流/
OL/パート/職場の花

 第6章 セクシュアリティ
痴漢/強姦/純潔教育/貝/二号/レズビアン/性交/処女/ソープ嬢/ス
キンレディ/夕暮族

 第7章 年を重ねて
更年期/未亡人/ナイスミディ/お婆さん/姨捨山/姑/粗大ゴミ/売れ残

 解説 田嶋陽子

【コメント】
 1990年に単行本として出版されていた本の文庫化です。
 収録されている「ことば」は、上の目次ですべてとりあげてみました。章構成とあわせて、この1冊で、女性のライフサイクルにそって日本語がどのように女性(必ずしも女性だけではないが)を表現しているかがわかるようになっています。
 原題の "Womansword" は "Woman's Word"(女の言葉)であると同時に "Woman Sword"(女の武器)でもある、と原著者による註がついています。おそらくそこに、筆者の思い、「日本女性も自分自身のために語るべきではないか?」という気持ちがこもっているのでしょう。

投稿者 june : 23:54

1995年05月05日

表現とメディア(日本のフェミニズム(7))

【 書 名 】日本のフェミニズム7:表現とメディア
【 編 者 】井上輝子・上野千鶴子・江原由美子、編集協力:天野正子
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1995年4月24日
【 価 格 】2000円
【 ISBN 】4-00-003907-5
【KeyWords】マス・メディア、大衆文化、ステレオタイプ

【 内 容 】
【コメント】

 I 女性像の歴史的変遷
  文学(水田宗子)・少女マンガ(藤本由香里)・歌謡曲(栗原葉子)
  雑誌(落合恵美子)

 II メディアの性差別表現
  新聞(田中和子)・テレビ(鈴木みどり、加藤春恵子)・絵本(藤枝澪子)

 III メディアを担う女性たち
  出版界(町田民世子)・テレビニュース(小玉美意子)・ニューメディア
  (村松泰子)

 メディア(特にマス・メディア)が描く女性像が、現実に生きる女性を縛り付けていくという側面があります。もちろん、メディアは一つの表現手段にもなりうるのでしょうし、ロールモデルを提示するという積極的側面もあるのでしょうけど。でも、それにはまだまだ条件が整っていないということでしょうか。
 第I部では、メディアが描いてきたさまざまな女性像を歴史的に検討する論稿がおさめられています。興味深いのは、日本独特のものとしての少女マンガを論じた藤本論文。また、歌謡曲というあまりとりあげられることのない題材を扱った栗原論文もあります。(ただ、これに関しては、もう少し幅広く題材を見てほしい気はしますが。)
 さらに第II部では、メディアの中の性差別表現(ステレオタイプ化が中心)がとりあげられています。絵本というのはあまり注目されないメディアかもしれませんが、書き手・選び手がほとんど女性という中で、きわめて強いステレオタイプ化の傾向があることが指摘されています。そう言えば、以前ベビーシッターをやっていた女性が、「唄って聴かせる歌がないのよねえ。」と嘆いていたことがありました。童謡もそうかもしれません。
 第III部では、「マス・メディアの送り手」としての女性の存在に焦点が当てられています。町田さんは勁草書房でたくさんの女性学・フェミニズム関係の書籍の出版に関わってきたベテランの編集者。村松論文ではコンピュータ文化(FEPの辞書の中身とか)やパソコン通信も言及されています。

投稿者 june : 02:06