2002年09月08日

フェミニズム・スポーツ・身体(アン・ホール)

【 書 名 】フェミニズム・スポーツ・身体
【 著 者 】アン・ホール  監訳:飯田貴子・吉川康夫
【出 版 社】世界思想社
【発 行 年】2001年8月30日
【 価 格 】2600円+税
【 ISBN 】4-7907-0889-6
【KeyWords】スポーツ 身体性 カルチュラル・スタディーズ

【 内 容 】(目次)

 序文
 謝辞

 第1章 あるフェミニストの研究遍歴
 第2章 カテゴリー的研究から関係論的研究へ
 第3章 フェミニスト・カルチュラル・スタディーズ――その可能性
 第4章 身体の意味
 第5章 フェミニズム研究を「行う」ということ
 第6章 リベラルな行動主義からラディカルな文化闘争へ

 訳者あとがき
 参照文献

【コメント】
 スポーツのジェンダー(フェミニスト)研究は、女性に焦点を当てたもの、男性に焦点を当てたもの、両方を含めても、日本ではそうは多くない。「女性スポーツの研究」は実はかなりあるのだが、非常に古い枠組みのもので、たとえて言えば労働研究における「女子労働研究」と「労働のジェンダー分析」とぐらいの隔たりを感じる。(ちなみに「女性スポーツ」ということば自体が、男性が行うスポーツを主流のスポーツと考え、女性が行うスポーツを特殊化・周辺化するものである。)
 ということで、何かを学ぼうと思ったら、外国の文献に頼らざるを得ないのだが、翻訳でもなかなか手に入らない……と思っていたところに本書が訳出された。
 著者アン・ホールはカナダのアルバータ大学の、現在は名誉教授。1970年代半ばから女性運動にかかわり、スポーツと女性の研究を、フェミニズム理論を学びながら作り上げた人である。本書には彼女の初期の研究遍歴(どのようにしてスポーツのフェミニスト研究を構想するに至ったか)について語った章もおさめられており、それを読むと、欧米においてもスポーツのジェンダー研究がまだまだ周辺的であることをうかがえる。
 また本書は、具体的なスポーツ研究というよりは、立場表明や方法論・視角の検討などが中心である。その点からはもっとさまざまな研究が今後紹介されることが望ましいだろう。

投稿者 june : 21:10

1997年02月18日

ウエディングドレスはなぜ白いのか(坂井妙子)

【 書 名 】ウエディングドレスはなぜ白いのか
【 著 者 】坂井妙子
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】1997年1月20日
【 価 格 】2678円
【 ISBN 】4-326-65196-2
【KeyWords】階級文化 ファッション セクシュアリティ

【 内 容 】(目次)

 第1章 ヴィクトリア朝のミドルクラス
 第2章 ヴィクトリア女王のウエディングドレス
 第3章 ステイタスシンボルとしての白いドレスとベール
 第4章 純潔と無垢の象徴
 第5章 もはやステイタスシンボルではない?
 第6章 新たなる象徴
 第7章 カップルへの贈り物、結婚披露宴、ハネムーン
 現代の結婚式に向かって

【コメント】
 日本では白無垢は「嫁いだ先の家風に染まるため」とか言いますが、イギリスではどうだったのか?という疑問に答えてくれる本です。きっかけは、当時アッパークラスの狭い範囲で流行していた白いウエディングドレスをヴィクトリア女王が結婚式で身につけてみせたこと。彼女の人気取りの一方策でもあり、同時に国産のレースを使うことで低迷していた国内産業の振興もねらおうとしたということだったらしいのですが、その白いドレスが、ヴィクトリア朝後期になってから、ミドルクラス内部の細かな社会的位置と服装・慣習の一致が崩れてきたことによってミドルクラス全体へと広まったことで普及が生じた‥‥というのが大まかなストーリー=ヒストリーになるようです。
 さらにそれが、女性のセクシュアリティに関するヴィクトリア朝的規範(「花嫁は処女であるべき」というもの。もちろん、規範は行動に際して参照される基準ではあるが、その通りに遵守されなければならない絶対のものというわけではない)とからまりあって人々の心に根づいたのだ、とされています。
 わたしにはちょっと違った疑問もあります。それは、「〈バージンロード〉っていつごろからのもの?」というもの。どなたかご存知の方は?

投稿者 june : 18:24

1996年06月15日

世紀末の赤毛連盟(高橋裕子)

【 書 名 】世紀末の赤毛連盟 〜象徴としての髪
【 著 者 】高橋裕子
【出 版 社】岩波書店
【発 行 年】1996年3月8日
【 価 格 】3500円
【 ISBN 】4-00-002995-9
【KeyWords】美術史、マンガ、文学、女性美

【 内 容 】

 第一章  世紀末の赤毛連盟 その一
 第二章  世紀末の赤毛連盟 その二
 第三章  紳士は金髪がお好き?
 第四章  白銀の糸
 第五章  垂らす髪、結い上げる髪 ――女性の髪にまつわる習俗――
 第六章  化粧する女たち
 第七章  毛髪の呪縛
 第八章  逆立つ髪 ――レイディ・オヴ・シャロット
 第九章  メドゥーサの髪
 第十章  当世少女漫画の源流を尋ねて ――一美術史家のより道――
 第十一章 「醜いあひるの子」の変貌 ――十九世紀の新しい女性美――
 第十二章 画家とモデル ――D・G・ロセッティ再考

【コメント】

 シャーロック・ホームズ・シリーズの中の有名な短編、「赤毛連盟」はなぜ赤毛でなければならなかったのか?という疑問からスタートする、19世紀末の時代と文学と美術を横断する幅広い考察が特徴のこの本では、社会の中の「髪の色」をめぐる価値体系や象徴性を問題にしながら、「イメージとしての女性」を問いなおしている。
 近代美術(絵画、彫刻など)という表現手段において、しばしば「これは芸術だから」という言い方がなされる。しかし、表現者たちのとる表現手段や表現内容は、決して社会の主流の価値観とは無縁ではない。芸術は一般社会から自由のものではありえないのだ。さらに、プロの制作者には男性の割合が大きく、逆に描かれる側には女性が多いのは周知の事実(福島市での調査によれば、市街地の人物像のうちの9割以上が女性)。したがって、「絵」の中に反映される価値観は「男性が見た女性」の価値観になりやすいということもあるだろう。彫刻の中の女性に裸体のものが多く、腰や胸が強調されているとか、着衣のものであればつつましいポーズや「母」をイメージするものであるか、あるいは年若い少女の像であるなど、芸術表現は一定の枠の中でしかその羽をはばたかせることができていないのだろうか。
 さて、本書で筆者が注目するのは描かれている人物、特に女性の「髪の色」である。
 金髪=高貴なもの・祝福されたもの、ブルーネット=真摯で情が深い、赤毛=情熱的で癇癪持ち・道化、などといった、一般社会のステレオタイプ化された髪の毛の色に対するイメージは、そのまま美術や文学のテクストにも持ち込まれる。中世には裏切り者ユダは赤毛で描かれ、道化師は赤毛のかつらをする。「赤毛のアン」のアンが自分の髪を黒く染めようとするのも、赤い髪の色にまつわる象徴性を忌避しようとしてのものだ。
 筆者が注目するのは、19世紀末にこの価値観を逆手に取る美術史上の一派があらわれるということである。ラファエル前派は「情熱的」「誘惑するもの」「ファム・ファタール(致命的な女)」という赤毛のイメージを、むしろ賞揚すべきものとして描いている。ロセッティしかり、ウィリアム・ハントしかり。文学に目をうつすと、トーマス・マンが『小男フリーデマン氏』で登場させるゲルダ・フォン・リンリンデン、あるいは『ブッデンブローク家の人々』で登場させるゲルダは、共に赤毛で、男をあるいは名家を堕落・没落へと導く。
 逆に、視覚芸術の中の男性は黒い髪をしていることも多い。これは、暗い色が「力強さ」を意味しているからではないかと筆者は述べている。小松左京の指摘によれば、ハリウッドの悪役でない男性俳優には暗い色の髪をした多いのだという。クラーク・ゲーブル、ジョン・ウェイン、ゲイリー・クーパーと並べられてみると(いささか古いところが続くが、最近の俳優ではどうだろう)、確かに説得力はある。
 自ら「大風呂敷」とのたまう筆者の想像力はさらに羽をのばして、1970年代後半からの少女マンガの中での「黒髪」と「白抜きの髪」の描き分けにも話が進む。どことなくユーモラスな筆の運びが固めの内容をやわらかく導いてくれ、あまり肩肘はらずに読み通すことができる一冊である。

投稿者 june : 07:20

1995年10月09日

戦争がつくる女性像(若桑みどり)

【 書 名 】戦争がつくる女性像
【 著 者 】若桑みどり
【出 版 社】筑摩書房
【発 行 年】1995年9月20日
【 価 格 】2200円
【 ISBN 】4-480-85716-8
【KeyWords】美術史、マス・メディア、母性

【 内 容 】(目次)

 まえがき

 序章 前提 戦争・女性・イメージ

 第一章 日本の戦時体制と女性の役割

 I 戦時下の母性政策
 II 非戦闘員としての女性が戦時に担う一般的役割
 III チアリーダー 「戦争援護」集団としての女性の動員

 第二章 戦時下の婦人雑誌にみる女性イメージ

 I 一般戦争画と婦人雑誌の挿絵との差異について
 II いくつかの国策婦人雑誌の記事と視覚ページの特質
 III 「主婦之友」の記事の特質とそのイメージ
 IV まとめ――象徴としての女性像

 結び

 あとがき

 年表(昭和元〜20年)

【コメント】

 戦争画の研究というのはあるようですし、戦時中の婦人雑誌の研究というのもあります(『婦人雑誌からみた一九三〇年代』同時代社)。しかし、美術史家が婦人雑誌の表紙・口絵・挿絵等をとりあげたものとしては初めての研究と言えるでしょう。
 若桑さんはまた別な意味で最近注目していたのですが、本書の出版は大きな衝撃でした。この本は2時間ほどで一気に読み上げてしまいました。
 本書では、まず前半で、欧米の研究も参照されながら、戦争と女性の関係が読み説かれていきます。戦争=男のもの、平和・慰安=女性のものというイメージ動員は、戦争に反対する側がしばしば用いるレトリックですが、これは実は戦争を推進する側の論理でもあります。「母」のイメージ動員が戦争を推進するために、しかも執拗に行われていったことが、豊富な資料から明らかにされていくのが第二章です。
 「母」は、「産み育てる」もの・「癒す」ものであると同時に、「チアリーダー」としても機能していたということもまた重要な指摘でしょう。近年、第二次世界大戦中の女性の戦争協力についての研究がかなり出てきていますが、それが芸術画ではなく大衆が家庭内で目にすることのできる雑誌の表紙画・挿絵を通してどのように視覚イメージとして流通していたかがわかります。「母」は兵士を「行きなさい!」と送り出し、傷ついて戻ってくれば彼を癒し、そしてまた送り出すという残酷さをも持つのですが、その厳しさも、女性が「国に仕える」ありかたとして肯定的に描かれるのですね。
 時局が逼迫してくると、「慈愛に満ちた母」のイメージよりも、総力戦のもう一つの前線である産業に従事する女性のイメージが増加してくるようになるようです。その時の女性の表情もずいぶんと硬いものになり、「戦い」の中にいるのだということが表わされるようになります。
 母性というのは、クリステヴァなどの指摘にもありますが、必ずしも「産み・育て・癒す」ものではありません。「産む」ということそのものが、そもそも秩序に新たなものを送り込むことであり、秩序の攪乱の契機でもあるわけですが、ここでは母性はそういった危険な側面をすべて切り落とされて、有効に秩序維持とその力の強化に貢献するようにさせられている、そのための動員の手段の豊富さ・執拗さがよくわかる一冊です。

投稿者 june : 00:01