2005年10月09日

サボテン姫とイグアナ王子(清原なつの)

【 書 名 】サボテン姫とイグアナ王子
【 著 者 】清原なつの
【出 版 社】本の雑誌社
【発 行 年】2005年5月25日
【 価 格 】本体1300円+税
【 ISBN 】4860110447
【KeyWords】セクシュアリティ ファンタジー

【 内 容 】

 サボテン姫とイグアナ王子
 五月の森の銀の糸
 さよならにまにあわない
 カッパドキアの秋
 ヴォーカリーズ
 ロストパラダイス文書
 とまとジュースよ永遠に

【コメント】
 「清原なつの忘れ物BOX」の1冊目。単行本未収録の作品を集めたもの。

 表題作「サボテン姫とイグアナ王子」は、体にサボテンのトゲがはえてしまった姫と、呪いでイグアナにかえられてしまった王子(トゲを食べると呪いが解ける)の恋物語。姫の体中にはえたトゲを、「腕→背中→胸→腹→脚」とイグアナ王子が食べていくプロセスは、きわめてセクシュアル。ただし、呪いが解けて王子が元の地位を回復し、二人が結婚してめでたしめでたし、では終わらないところがミソ。

 「ロストパラダイス文書」は、ロー・ファンタジー的な要素を持つ作品だが、やはりセクシュアリティが主題になっている。少し細かく見ていこう。(以下ネタバレを大幅に含む。)

 まずは、大まかなストーリー。
 単位を落としそうになった女子学生が、教授に「何でもします! 奴隷になります!」と泣きつくと(このとき眼鏡をかけた老教授が読んでいるのが「ロストパラダイス文書」という表題がついた資料)、とある村へ伝承採集のフィールドワークに出される。出かける前に彼氏とセックスをしている最中、「ときどき行方不明になるらしいから気をつけろよ」と忠告される。
 そして、村に行く途中、バスから降りて歩いているうちに霧にまかれ、崖から落ちて気を失ってしまう。
 気がつくと、老婆の家に寝かされている。温泉であたたまって、「今日は祭じゃ」という老婆に酒を飲まされ、酔いつぶされる。
 そのまま祭の舞台にあげられた彼女は、禁忌を破って兄・妹で結婚した老夫婦が拾って育てた「ウリコ姫」の役を演じさせられる。劇中では、「アマンジャクがきても絶対戸をあけちゃいけない」と養父母にいわれたにもかかわらず、戸を開けてしまい、アマンジャクたちにさらわれて強姦され、妊娠しなかったので処刑される。
 ここで彼女は「目が覚める」。気がつくと、先ほどと同じように、老婆の家にいる。先ほどまでのことは、崖から落ちて気を失っていた間に見た夢、ということになっているのだろうか。
 温泉に入っていくようすすめられたところで、このあとの展開に気づいた彼女は、「忘れ物をしました!」と家を飛び出して、村を出ようとする。しかし霧にまかれ、迷ったところで男に出会い、車に乗せられ、飲み物を勧められ、酔いつぶされる。
 以下同じ。気がつくと、また……。と、やや変奏をともないながらの繰り返しが数回続く。
 最後に大きく場面が変わって、「それで……帰って来ないんですか?」と女子学生が教授に尋ねている大学のシーンに切り替わる。実は、老教授は送り込んだ女子学生がどういう目にあわされるか知っていた、というオチ。
 さらに場面が変わって、村の情景。送り込まれた学生が子どもを抱いている。彼女は「もう戻れなくていい」と諦めたとたん妊娠して、村の若者と結婚している、ということのよう。

 この物語にはいくつかの「しかけ」がある。説明しやすい順序で取り上げていこう。

(1)くりかえし(ループ)
 ストーリーのところで述べたように、主人公は村とそこで彼女を待っている運命から、どういう選択をしても逃れられない、ということになっている。処刑されるところでいったん意識がとぎれ、ふたたび村に到着するところで目ざめる。

(2)「現実→幻想→現実」という構造
 主人公は、現実(大学→恋人との時間→村)からスタートし、幻想世界(「物語」「民話」の世界)へまぎれこみ、そこから抜け出せなくなる。最初現代風の衣服をまとっていた村人たちが、幻想世界では粗末な野良着を着ていたりする。
 そしてラストでは、彼女の行方不明事件が「物語」として現実(大学)から語られ、かつ彼女自身も妊娠→出産を経て現実(村)の生活へ戻ってくる。

(3)「舞台」「演劇」という装置
 必ずしも西洋の舞台演劇のように、はっきりと様式化されたものではないが、途中彼女は「舞台」に上がり、「ウリコ姫」を演じている。

 (1)のループ、これは主人公のケース1回限りでなく(というのは教授の言動からもわかるが)、過去から繰り返されてきたことだということの強調と、どうやってもこの運命からは逃れられないということの強調なのかもしれない。そしてたぶん、「この世界には同じようなことが満ちあふれている」ことの隠喩なのだといえよう。
 つまり、「ずっと」そして「いたるところで」。
 過去から繰り返されてきた、ということは、たとえば(2)でも書いたとおり、村人の衣装が現代的なものでなくなっていくことからも連想できる。だからこそ教授が読んでいる文書になっているわけだろう。
 (3)の「演劇」や「舞台」という装置も、ループと関わりあるかもしれない。演劇とは役者が代わっても、再び演じることができるものだから。ウリコ姫の位置にどんな女性がきても、アマンジャクを誰が演じても、このことは起こりうることになる。
 それはなにも、強姦やこうした嫁とりが常態であるということを直接的に表現しているということではなく、(現代の)女性のセクシュアリティが置かれている状態を比喩的に表現したものであると言えるのかもしれない。
 もっとも同時に、「劇」として描くことは、これが直接的な「現実」ではないという効果(緩衝作用)を読者に与えるものでもある。つまり、こういう現実がいたるところにあると一方で言いつつも、あまり生々しすぎないように、「これはお話ですけどね」ともう一方でささやいているわけだ。

 この主人公の女性がかなりセクシュアルな存在として描かれていることに注意したい。まず、恋人とのセックスシーンが描かれ、彼女は性体験が豊富だということが示される。そして身にまとっている、ミニスカート、ヒールの高いサンダル、など、身につけているものでも表されている。
 かつ、酒を飲んで酔っぱらってしまったり、言いつけにそむいて戸を開けてしまったり、男の車にのこのこ乗り込んだり、軽率でもあるように描かれている。
 ここからくるメッセージは、「性体験豊富で、露出の高い格好して、さらに軽率だとこんな目にあうよ」というだけではない。そのあとの繰り返しを通して、「どんなことをしてもダメなものはダメなんだよ」ということまであわせて示されているといえるだろう。「強姦神話」(「強姦されるのは、女がセクシーな服を着て、無警戒だったから、つまり女に隙があったから」というような)への異議申し立てだと考えることもできる。
 途中、彼女が戻りたいと願ったのは、大学であり、恋人のところだった。それは知識を得る場であり、自分のセクシュアリティおよび生殖力を自己管理しやすい性関係(少なくとも迷いこんだ村と比較して)だったわけだ。だが、それらをあきらめたとたん、つまり自己決定権や知識を手放したとたん、彼女は無限ループから解放され、最終シーンのような情況へと至るのである。

 つまり、「ずっと」「いたるところで」そして、「どうあっても」、逃れられない運命として、この世界では女性は強姦され続けなければいけないのだ、許されるのは、この運命を受け入れ、妊娠して「母」となることによってのみだ。
 ……と、まるでこう語っているかのような作品である。単行本未収録だったのは、あまりにもインパクトが強すぎるからだろうか。

投稿者 june : 15:53

2004年12月26日

サグラダ・ファミリア〔聖家族〕(中山可穂)

【 書 名 】サグラダ・ファミリア〔聖家族〕
【 著 者 】中山可穂
【出 版 社】新潮社(文庫)
【発 行 年】2001年11月
【 価 格 】400円+税
【 ISBN 】4101205310
【KeyWords】家族 セクシュアリティ

【 内 容 】
【コメント】

 主人公はピアニスト。いつも演奏会の後は無性に女がほしくなる、のだという。だが、はじめて本気になった恋人の透子とは、1年で別れてしまった。
 その彼女が子どもを産んだ。相手はパリで会ったゲイのピアニスト。子どもがほしかった透子は、「ほとんど強姦」のようにして彼とセックスし(もちろん襲ったのは透子の方だ)、そして子どもができた。
 だが、彼女は交通事故でいきなり死んでしまう。残された子どもを親戚は引き取りたがらない。父親は行方知れず。結局主人公は子どもを引き取り、父親の元恋人と一緒に育てることを決意する。
 主人公の響子、父親の恋人の照光(照)、そして透子の子どもの桐人。血縁も性関係もない三人だが、響子と照は婚姻届を出すことにし、桐人を引き取る。
 たまらなかったのは、響子がコンサート本番でピアノを弾くシーン。そしてその後。
 怪我をして指があまりうまく動かないこともあり、アカデミックな演奏は降りた響子だが、桐人が聴いている、桐人を通じて透子が聴いている気がする、そのことが彼女に力を与える。旧友の指揮者がふるタクトに合わせて弾くコンチェルト。「無限に触れた」――と響子は心でつぶやく。
 音楽でもなんでもいいのだけど、「できた!」という思いはとても大きな感動と成長をもたらしてくれる。創造的活動に関わる者が味わえる、いちばんおいしいところだ。だがこの本がすごいのはこのあとだ。ここからが本番。ページを1枚めくると、いきなりさっきまでの感動は吹き飛んでしまう。とびきりいい演奏をした後に、子どもがお腹をすかせている現実に直面させられる、この落差。いや、これが子どもを育てるということなのだ。だががまんできなくなった響子は、照と大げんかを始めてしまうのである。
 三人で住む家を借りようとするときも、自分たちの手持ちのお金、ピアノ、子ども、猫(響子は猫を飼っている。春雨という名前の、昔透子にもらった猫だ)という三重苦に苦しむ。やっと見つけた家は、駅から自転車で十分。「ここ、いいよ」と照は言うが、なんだかサラリーマンが通勤片道1時間半のマンションを買うときにいうようなことばを思い出せるセリフだ。
 だがそんな現実にもめげず、三人は新しい生活をスタートさせる。「わたしたちは家族だ。」サグラダ・ファミリア、「聖家族」だ……と。
 先ほど書いたように、桐人と響子、照の間には血縁関係はない。響子と照はそれぞれ同性愛者だから、ここに性関係はない。桐人の母である透子は響子の元恋人、父である雅行は照の元恋人。また響子にはカノンという女性とのつきあいがあり、照は桐人の親戚にあたる若い弘をひそかにねらっている。だから弘とカノンの二人もサグラダ・ファミリアに含めて考えていいのかも知れないが、むしろ家族が「開かれていること」を表わすものとここではとらえておこう。
 三人をつなぎとめるものは、戸籍でも血縁でもない。ただ、相手への、あるいは相手を生んだ人への愛情、お互いへの信頼、そういったものだけだ。だからひょっとしたら、いつか壊れるときはあっけないかもしれない。でも、壊れやすいかもしれないからこそ、大事にしなければならず、それゆえに強く結びあえるということもあるだろう。
 現在もなお主流である「近代家族」は、親および親から生まれた1〜2人の子どもを基本的成員とし、外部者を排する構造を持つ(閉鎖的小規模核家族)。お互いが情緒的絆で結ばれ、特に子ども(特に教育にかかわることがら)が家族の関心の中心をなす(愛情規範・子ども中心主義・教育家族)。またこの家族は、性別役割分業に基づく編成もされている。
 一見うまくいっているようにみえる「近代家族」も、いろいろな面でほころびを感じさせている。70〜80年代からすでに既婚女性へのストレスが問題化されており、さらに「愛情」という名の管理に息づまる子どもたちの反乱もあった。だからこそ、ファンタジー文学の中では親子関係を「脱血縁化」したり(小野不由美の「十二国記」)、家族以外の居場所を重視する(ハリー・ポッター)ような物語も増えてきているのだろう。
 そういう意味では、この物語もまた、現代における「家族のファンタジー」の一つなのだ。きっとこの「家族」は、短期的にはともかく、永続的に固定されてはいないだろう。だが、それもまた一つの「家族の姿」であるはずだ、ということを、この本はしっかりと主張している。

投稿者 june : 20:34

2000年12月28日

紫の砂漠(松村栄子)

【 書 名 】紫の砂漠
【 著 者 】松村栄子
【出 版 社】角川春樹事務所(ハルキ文庫)
【発 行 年】2000年10月18日
【 価 格 】820円+税
【 ISBN 】4-89456-782-2
【KeyWords】性差、ロマンチック・ラブ、宿命/選択

【 内 容 】
【コメント】

 紫の砂漠(デゼール・ヴィオレdesert violet)の端に位置する“塩の村”に住む「丸耳」のシェプシは7歳。迎えに来た詩人と、同じ7歳の子どもたちと共に「運命の旅」に出る。旅の途中でシェプシは、砂漠に呼ばれ、そこで自分と同じ「丸耳」のジェセルに出会う。……
 物語世界では、性別は生得のものではない。「男」か「女」か(作中ではそれぞれ「守る性」「生む性」と呼ばれる)は、この世界におけるロマンティック・ラブである「真実の恋」と呼ばれる生涯ただ一度の恋愛体験で決まる。どのようにして一方が生む性になり、他方が守る性になるかはあまり明らかにはされていない。ただ、当事者の間の微妙な関係や無言のやりとりで決まるとされているだけだ。
 おそらく望んだからなれるという単純なものでもないのだろう。しかしそれでも、作中で強調されているのは、性を生得的なものとし、それによってすべてを運命づけていく発想への抵抗だ。それはたとえば、末尾近くで長々と披露される「最初の書記」の手記の中でも語られる。
 物語世界でも、性は必ずしも「自由選択」できるものではないし、一度決定されれば生涯ついてまわるものだ。なにしろ「真実の恋」は生涯一度のもので、相手もただ一人であるのだから。しかし、その決定の場面には自らがはっきりとした意識をもって立ち会うことができる。それは「選択」というよりは「宿命」のようなものだが、わたしたちが考える「生物学的宿命」とは大きく異なるたぐいのものなのだ。したがってこれは、宿命/選択という二項対立を、わたしたちの経験するかたちとは別なありかたへずらすものであると考えてよいだろう。
 結果的に「真実の恋」と性の決定は、このずらされた宿命性により、きわめてロマンティックなものになっている。(解説の中で高原英理は「アンドロギュヌス・ロマンティック仕様」という言葉でこれを表現している。)近代に大量生産・消費されてきたロマンティック・ラブとそれは似ているかもしれない。しかし別なものでもある。似ていることよりも、ここでは別なものであることを重視したい。なぜなら、たとえ物語世界と接しているほんのつかの間であれ、「別なものであること」が、わたしたちの経験と理想を相対化するから。
 もう一つ、物語世界では血縁の結びつきも相対化されている。7歳になると子どもは生みの親から離されて「運命の旅」に出る。そして今度は、7年間「運命の子」として別な成人のカップルに育てられ、そこで職業教育を受けるのだ。7年間の養育・教育の後、今度は7年間の恩返しの期間がそれに続く。恩返しが終わって21歳になれば、そこで成人ということになる。
 「最初の書記」の手記の中でも述べられているとおり、これは血縁の束縛あるいは血縁にまつわる幻想(「血がつながっているから」「生みの親だから」というあらゆる言説)を解体するためのものだ。そういえば、小野不由美の「十二国記」(講談社文庫)の中でも、性別によって生き方が決まるものではないとされると同時に、親と子どもは血のつながりがあるものではなかった。これらの作品は、あたかも性と血縁が、わたしたちのよりどころであると同時に、きわめて強くわたしたちの生を束縛するものであることを示してくれているかのようだ。
 この物語世界では、はるか昔に生きた「最初の書記」の考え方によって、このような社会制度が作り上げられることになった。もちろんそれは、作者である松村栄子の考えをなにがしか反映したものであるだろう。物語世界において作者は「神」なのである。また、作中人物の「最初の書記」はこの世界における神に等しい存在であり、実際神話の中で神と混同されている。
 わたしたちが生きている現実の社会の中では、このような神に等しい存在はいない。わたしたちは自分たちで社会と歴史と生活を創っていかなければならない。神なき世界では、いかにして「理想」を実現したらいいのだろうか。しかも別な「理想」と衝突を繰り返しながら。

投稿者 june : 21:03

2000年03月04日

冬のオペラ(北村薫)

【 書 名 】冬のオペラ
【 著 者 】北村薫
【出 版 社】中央公論新社・中公文庫
【発 行 年】2000年2月25日(ノベルス版発行は1996年10月)
【 価 格 】590円+税
【 ISBN 】4-12-203592-9
【KeyWords】セクシュアル・ハラスメント ジェンダー・バイアス

【 内 容 】
【コメント】(※注意:☆以下にネタばれあり)

 北村薫の小説の主人公は生真面目だがどこかユーモラスだ。ユーモラスな生真面目さを持っている、と言ったほうがいいだろうか。
 「覆面作家」シリーズの「お嬢さま名探偵」も真面目も真面目、大真面目なのだが、彼女の行動(というか存在)はその真面目さがユーモアになっていた。おそらくそこには、北村の文体の力というのも働いているのだろう。
 名探偵・巫(かんなぎ)弓彦シリーズの語り手、姫宮あゆみもそうだ。彼女も喫茶店で「名探偵はいないかしら」という会話を漏れ聞いて、「“名探偵にご用でしたら、こちらで承っております”なんて切り出したら、馬鹿みたいだろう」と胸中でつぶやく。そんなせりふがつと胸の内に浮かぶが姫宮の「生真面目さ」であり、さらりと彼女に語らせる北村の筆致が「ユーモア」である。
 「わたしは名探偵なのです」とキッパリ言い切る巫も、これまた大真面目。「名探偵になりたいんですよ」とはにかみながら語る栗本薫の伊集院大介とは好対照だ。巫の存在は、一言で言えば、「世の中のからくりが見えてしまう天才って、不幸」ということなのだが、淡々と生活費を稼ぐためのアルバイトをする彼には、不遜さや悲愴感とはほど遠い、剽げたところがある。

 さて、本書『冬のオペラ』(“冬のソナタ”ではありません)は、そんな姫宮と巫の二人が出会った3つの事件を集めた短篇・中篇集。以下、ミステリーなので作品内容の詳細にはできるだけ触れないようにしたいのだが、テーマを拾う都合上、ネタばれを含むことになるのでご了解を。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 表題作「冬のオペラ」は、冬の京都と大学の人間関係を舞台にした中篇である。ここに書かれている60代の男性教員と30代の女性教員の関係は、一言で言えば「キャンパスのセクシュアル・ハラスメント」にほかならない。
 女性は学問の世界で活躍しているその男性教員にあこがれて、大学に赴任してきた。これは、望んだ就職ができにくい若い院生(それも女性)にとっては、願ってもない機会だっただろう。
 そんな彼女と男性教員は、いつか「特別な関係」になってしまう。しかし、彼女の男性へのあこがれは、あくまでも彼の叡知に対するものであって、若い女性と交際することで自分の老いを忘れようとする彼の中のもう一つの部分へは「滑稽さ」しか感じない。
 そんな自分を「我が儘」だ、と彼女自身は感じている。しかし、どうしても許せないこともあった。彼女にとって大学とは、学問の場であり、自分が生きる意味を求める仕事の場所なのだ。
 「よりによって、そこで、女であることを嘲られるようなことをされては耐えられません。」
 それが彼女の行動へとつながった。

 二人の関係を単にヘテロセクシュアルな恋愛関係とだけ言ってしまって終わりにできるだろうか。たしかに、表面的にはそう見える。しかし、描かれてはいないが恋愛関係に至る過程で、男性(教授、年長者)と女性(講師、新任者)の間に権力関係が働かなかったとは言えないだろう。また、別れ話を切り出した彼女に対する振る舞いなどからも、二人の間の力関係の不均衡がうかがわれる。
 「もう教壇には立てないだろう」と覚悟した彼女は、姫宮に自分の研究内容をぶちまける。それだけの情熱と、短いながらの研究のキャリアが、彼女にはあるのだ。ミステリーだからこそ、このような形で彼女の研究生活にピリオドが(おそらく)打たれるのだろうが、実際には女性の側の退職や、ストレスに耐えての職業継続→精神不安定や研究の中断、という形になるのではないだろうか。いずれにしても、女性の側の職業人生にとっての大きな損失につながることには変わりない。
 恋愛関係のもつれ、というだけで、この事件の源になった人間関係を理解してしまいたくはない。

 冒頭の短篇「三角の水」でも、やはり大学の研究室(理科実験系)を舞台に、ジェンダー・バイアスをめぐる問題が取り上げられている。
 ある「犯罪」の犯人が、別な人間を犯人に仕立て上げようとする。罪を押しつけられる方は女性で、押しつける方は男性だ。二人は同じ研究室の大学院生。その押しつけを巫が解き明かした後で、姫宮が彼になぜ彼女を犯人にしようと思ったのか、と尋ねる。すると彼は、こう答えるのだ。「だって、女の子だったら辞めたって構わないでしょう。いざとなったら、結婚すればいいんだし」。
 このあとの巫と姫宮の反応の描写が、いい。

 「出ましょう」
 巫名探偵が突然、立ち上がった。
 エレベーターの前で、今度は緊張のせいではなくこぶしを揺らしているわたしに向かい、彼はこういった。
 「小さな事件でしたが、下手をすると殺人事件に発展するところでしたな」
 わたしは震えながら、決然と答えた。
 「はい」

 こうしたジェンダー・バイアスとそれに対する疑問や怒りを、さりげなく描いてくれるところが北村の「味」の一つなのではないか。男性にしては、とは言わない。言いたくない。しかし、彼の持ち味としてはあまり評価されていない部分ではあるように思う。敢えてこの作品集を、ここで紹介する一つの理由である。

投稿者 june : 15:33

1997年01月02日

もし君と結ばれなければ(岡しのぶ)

【 書 名 】もし君と結ばれなければ
【 著 者 】岡しのぶ
【出 版 社】発行:ネスコ  発売:文藝春秋
【発 行 年】1996年9月5日
【 価 格 】1300円
【 ISBN 】4-89036-927-9
【KeyWords】身体、セクシュアリティ、自己表現

【 内 容 】
【コメント】
 写真週刊誌で紹介されてしまったのでいささかミーハー気味に感じられるようになってしまいました。19歳の女性歌人岡しのぶさんの第一歌集です。
 岡さんは、1976年生まれ、現在旭川工業高等専門学校化学科の5年生。蔗糖の研究をしているそうです。
 帯のキャッチコピーは「少女歌人の大胆表現」となっています。
 いくつか歌を拾ってみましょう。

 ・触れてよと願う心に手のとどかず触れるのはどうでもいいようなたとえば乳房
 ・初めての肉の重さを全身で噛みしめているあなたの下で
 ・今年になって初めての雪虫を見た 口の中が熱くなった

 上二つのようなセックスを思わせるような表現が「大胆表現」と言われるゆえんなのでしょう。「19歳」の「女性(少女)」がそれを歌っていることが、さらに「商品価値」を高めているかもしれません。
 身体はもっとも個人に近いところにあるもので、表現に生々しさをあたえてくれるものであるでしょう。彼女自身は、「乳房」や「腕」なども自分を表現するための一つの手段であるとごく自然に考えているようで、妙に技巧に走らず、素直な自己表現として身体を表わす言葉を使っている(というのも技巧の一つでしょうが)のが成功している一つの理由であるかも知れません。
 ところで、"body conscious"な表現をする人といえば小説家の山田詠美さんがいますが、山田さんも女性です。身体感覚に秀れた作品を男性は残すことができないのでしょうか。それとも、男性の身体感覚は作品として評価されないということなのでしょうか。
 化学科の学生さんらしいこんな歌もあります。

 ・原子量32という硫黄瓶手にもったまま見あげる夕陽

 そのほか、たとえば。

 ・いつか君が教えてくれたMARIKO悲しいときは歌えばいいと

 この歌の「MARIKO」とは、永井真理子かな?

投稿者 june : 18:32

ヴァーチャル・ガール(エイミー・トムスン)

【 書 名 】ヴァーチャル・ガール
【 著 者 】エイミー・トムスン   訳:田中一江
【出 版 社】早川書房(ハヤカワ文庫・SF1079)
【発 行 年】1994年10月15日
【 価 格 】680円
【 ISBN 】4-15-011079-4
【KeyWords】アイデンティティ、セックス中心主義、SF

【 内 容 】
 「金色がかった栗色の髪に、左右色違いの大きな瞳が印象的な美少女マギー。彼女はコンピュータの天才アーノルドが自らの伴侶にしようと作りあげたロボットだった。人間と変わらぬ優しい心を持つマギーだが、人工知能の開発が禁じられている今、正体がばれれば即座に破壊されてしまう。かくして二人は追跡の手を逃れ、波乱に満ちた放浪の旅に出た‥‥純真なロボット少女の成長と冒険を描く、スリリングで心あたたまる物語!」(裏表紙の作品紹介より)

【コメント】
 ピュグマリオン(ギリシア神話)もそうですが、これもまた「男が女を作る」という設定になっています。
 ただ、ひと味違うのは、マギーの場合、途中さまざまな経験を経て、創造主のアーノルドに対立するようになるということです。ピュグマリオンの場合は、理想の伴侶として作った象牙の少女を妻にしてしまうわけですが、マギーは途中でアーノルドの意図した理想からはどんどん離れていくことになります。
 そのあたりは本編を読んでいただくこととして。ここでは、作中でどのように「セックス」が位置づけられているかに焦点を合わせることにしましょう。
 アーノルドは自分の作品を完璧にするために、マギーにも完全な女性器を付けますが、実は彼自身はセックスには臆病。また、マギーを「純真」なままで留めておきたいと願うがために、彼女がセックスに持つ関心にいい顔をしません。人間についていろいろと知ろうとするマギーは、映画や小説などからも人間の行動パターンを知ろうとします。その中ではどうも「愛」が人間の行動の核になっているのではないかということがわかり、アーノルドにいろいろと質問をするのですが、彼は不機嫌になったり、話をそらしたりと、答えようとしません。
 アーノルドとはぐれてしまってからマギーはセックスを体験しますが、彼女の感想は「どうやってもおたがいにこれ以上は近づけないのだとしたら、たしかに人間はとても孤独にちがいない。」(p.294)「わたしは、セックスって考えていたほど大したものじゃないと思うけど。」(p.405)
 人間のさまざまな芸術作品の中で扱われている主題としてのセックスの比重の重さと対照的なマギーの感想。両者のギャップから人間の「セックス中心主義」が浮き彫りになってくるかのようです。
 この物語では上にあげたほかにもあといくつかのキーワードがあります。たとえば、ホームレス。あるいは、マイノリティ。ストーリー・テリングの面白さもさることながら、ホームレスのサバイバル・テクニックの描写にも特筆すべきものがあるでしょう。

投稿者 june : 18:30

1996年09月08日

ミドリさん(秋月りす)

【 書 名 】新婚生活攻略マニュアル ミドリさん
【 著 者 】秋月りす
【出 版 社】竹書房(竹書房文庫ギャグ・ザ・ベスト)
【発 行 年】1996年8月7日
【 価 格 】580円
【 ISBN 】4-8124-0176-3
【KeyWords】生活、仕事、家事労働

【 内 容 】
【コメント】
 山野ミドリ、28歳、「主婦」兼OL。夫一人、姑一人。夫は達也、22歳の新人サラリーマン。マメで、趣味は家事一般(料理、大掃除)。姑は姓名・年齢ともに不明。「お義母さん」と呼ばれています。「ベテランやもめ」で、嫌いなものは掃除と早起き。
 だいたいこれで内容の見当はつくと思いますが、ミドリさんと達也くんは、共働きで、家事はおそらく当番制。達也くんが、お料理大好き(クリスマスの得意メニューはローストチキン)&大掃除大好き(「お掃除大好き」ですらないのがミソ)なのがこの状況に華を添えています。
 なぜまた達也くんがこんなにもマメかというと、それは幼い頃からお母さんに鍛えられたからでした。なにしろ、達也くん曰く、「実はオフクロの料理があんまりひどいんで自分で作ってたんだ」(14ページ)そうな。
 このお義母さんがすごくおちゃめで楽しい人。なにしろ、新婚の二人のクリスマスの夜を、ベランダから(あのー、ここ2階なんですけど・・・)サンタに扮して邪魔しに来るくらいです。たぶん、息子の手料理が食べられなくなってさみしいんでしょうね。(笑)
 解説は小林カツ代さん。「今の時代の家の中の男と女の毎日のこと、女性観とか男性観とか、主婦が家庭で何を考えているかとか、そういう日常の心の動きまで漫画にしてゆけるなんて、私たちの時代にはあり得なかった。」と『墨汁一滴』に寄稿していたという小林さんのことばに、この本読んで自分一人で笑ってるだけじゃなくて紹介しようと思った次第です。

(written by Ayako TAKAHASHI)

投稿者 june : 07:37

1996年08月13日

ジェンダー城の虜(松尾由美)

【 書 名 】ジェンダー城の虜
【 著 者 】松尾由美
【出 版 社】早川書房(ハヤカワ文庫JA)
【発 行 年】1996年8月15日
【 価 格 】520円
【 ISBN 】4-15-030562-5
【KeyWords】ジェンダーフリー、ミステリー

【 内 容 】
 「入居資格は伝統的家族制度に挑戦する家族であること」友朗がすむ地園田団地は、設立者の大富豪の意向で、主夫のいる逆転家族や血縁のない契約家族、同性愛カップルなどが住む実験団地だった。そんな風変わりな場所に今度引っ越してきたのが小田島博士一家。しかし博士は到着早々何者かに誘拐されてしまった!友朗と団地住民たちは、博士の娘の美宇を助けて真相解明に乗り出すのだが……不思議な街のユーモアミステリ。(裏表紙から)

【コメント】
 小説、それもミステリ仕立ての作品なので、内容について細かく触れるとネタばれになっちゃうので、それは差し控えます。
 作者の前作、『バルーン・タウンの殺人』(ハヤカワ文庫JA収録)も読んだのですが、フェミニズム、ジェンダー・スタディーズの知識・発想をふんだんに取り入れ、さまざまな仕掛けを作品内に備えた興味深いものでした。特に、人工子宮が普及して、女性たちが妊娠・出産をしなくなった社会で、「妊婦文化」を継承していくバルーン・タウンというのは、面白い発想だと思います。解説を富山太佳夫さん(英文学)が書いていたのも、注目すべきことかも。たぶん、作者は富山さんのお茶の水女子大学時代のゼミの学生だったのでしょう。
 この作品でも、地園田(じえんだ)団地という、支配的なジェンダー関係を越境する家族の日常生活の空間を舞台に、クロス・ドレッシング(いわゆる異性装)、ホモセクシャル・カップル、契約家族などの小道具をうまく使って、「センス・オブ・ワンダー」を作り出しています。おそらく、このあたりが「SFとミステリの両ジャンルを横断した作品」と言われるところでしょう。
 仕掛け、について、一言。固有名詞に注目してみてください。もちろん、団地の名前は「ジェンダー」からとっていますが、そのほかにもいろいろあります(ちょっとムリヤリ、みたいなものもありますが)。作者も作品中で種明かしをしていたりするものもありますが、その前にネタを発見するのもまた面白いかもしれません。(校長の名前は、きっと何かあるなと思ったけど、結局わからないままに種明かしされてしまった。)最後まで読み切ったら、タイトルの意味もわかると思います。直接はもちろん、「ゼンダ城の虜」のパロディなわけですが。

投稿者 june : 07:26

1996年06月11日

裁きの門(マーセデス・ラッキー)

【 書 名 】裁きの門
【 著 者 】マーセデス・ラッキー 訳・山口みどり
【出 版 社】創元推理文庫
【発 行 年】1996年5月31日
【 価 格 】750円
【 ISBN 】4-488-57702-4
【KeyWords】ファンタジー、アマゾン

【 内 容 】
【コメント】

 『女神の誓い』の直接の続編です。
 ラッキーの著書の多くは、とある異世界のさまざまな国・さまざまな時代を描いた「ヴァルデマール年代記」として書かれているのですが、『女神の誓い』と『裁きの門』は、登場人物も同じで、時代的にも直接連続しています。
 2冊の中でポイントになっているのは、「姉妹の絆」(シスターフッド)です。女性同士の友情というものを、作者ラッキーはセンチメンタルなものではなく、しかもポジティブに描き出しています。タルマとケスリーの絆は、特に強く、恋人関係(同性、異性問わず)よりも深いものとして描かれていますが、それはもちろん、女神によって祝福された関係(女神への誓いの儀式によって媒介された絆)であるからでもあります。
 逆に、何らかの誓いを破ることは大きな違反行為にもなるわけで、この物語は、とある誓いが破られたこと(本の原題は "The Oathbreakes")をめぐって展開されることになります。
 性役割との関連で言えば、登場する傭兵団の傭兵の半数は女性で、しかも、団長や部隊の隊長などの「管理職」のポストも女性がかなりの割合を占めています。日本のファンタジーやアニメその他のメインストリームは、はたしてこれに匹敵する状況を描けるものになっているでしょうか。

投稿者 june : 07:18

女神の誓い(マーセデス・ラッキー)

【 書 名 】女神の誓い
【 著 者 】マーセデス・ラッキー 訳・山口みどり
【出 版 社】創元推理文庫
【発 行 年】1995年11月17日
【 価 格 】830円
【 ISBN 】4-488-57701-6
【KeyWords】ファンタジー、アマゾン

【 内 容 】
 「山賊への復讐と、皆殺しにされた一族の再建を誓い、ひとり故郷を旅立った女戦士タルマ。道すがら、女魔法使いに出くわした。『わたしはケスリー。あなたの復讐を手助けしたいの』彼女の持つ不思議な剣がタルマを呼んだのだというが‥‥? とびきり元気な女剣士と女魔法使い、傭兵になったふたりの行く手に待ち受けるものは? 現代アメリカ異世界ファンタジーの女王登場!」(裏表紙の紹介文より)

【コメント】
 ‥‥という紹介を書き写していると、何やら違和感があります。何といっても、わざわざ「女剣士」とか「女魔法使い」というように、「女××」と書かなければならないことが、そもそも「女でない剣士」あるいは「女でない魔法使い」が横行していたことの証しであり、そうした状況に対する対抗運動として、女性を重要な登場人物として描く潮流が欧米でフェミニズムの影響を受けて興ってきたのですから。
 それはともかく、M.ラッキーの「ヴァルデマール年代記」もこうした運動の中から生まれてきたシリーズで、この本に収録されている「剣の誓い」も、マリオン・ジマー・ブラッドリ編の『Sword and Sorceress III』に最初収録された短編です。
 以前、ジェンダーのユートピア・ディストピアは空間的な〈外〉――遠い宇宙のはてに設定されていました。ル・グィンの『闇の左手』、あるいはブラッドリの「ダーコーヴァ年代記」のように。アン・マキャフリィの「パーンの竜騎士」も異星世界が舞台でした。
 それが、80年代以降のファンタジー・ブームの中で、ジェンダーとセクシャリティのオルタナティブを描くのに、彼女たちはこぞって「内なる外」としての歴史、キリスト教以前のヨーロッパ世界や、あるいは近代以前の物質的・社会的環境を備えた異界の地を舞台とするようになりました。ブラッドリの『アヴァロンの霧』はケルトの女神信仰と父権的キリスト教とのぶつかりあいと融合の物語だし、あまりジェンダーの側面は強調されないけど、でもさりげなく注意して書かれているバーバラ・ハンブリーの「ダールワス・サーガ」もきわめて中世的な世界を舞台としていました。ジーン・アウルの「大地の子ら」シリーズ(『大地の子エイラ』ほか)にいたっては先史時代でしたね。とはいえ、これも大地女神信仰が基盤の世界を描いているという点では、ケルト的世界観に包まれているともいえるかも知れません。
 その世界観の基盤になっている女神は、単に「産み、慈しむ」母としての女性の役割をメタファーとして写し取ったものであるだけではなくて、ケルトのモリガンのようなネガティブなイメージをも反映しています。ブラッドリやラッキーの物語の中では、大地女神よりも「月の女神」――満ちては欠け、恵み多き存在にも、冷たく奪う存在にもなる、くりかえす時を刻む月のイメージで語られます。 したがって、近代と共に、聖化された女性のイメージ(つまり、「家庭の天使」としての。それは、もちろん階級的な要素も内に含んでいるのですが)だけが強調されてきたことに対するオルタナティブとしての「対抗的ジェンダー」を描いたものが、たとえばラッキーのこの物語であると言えるでしょう。
 では、果たして〈男〉である書き手は、ジェンダーの問題をどう描いているのだろうか? というと、たとえばD・エディングズなどを読んでいると、「あーあ」な気分になったりもします。ムアコックもやはり男は男だなー、『ギャラソームの戦士』以外は。といっても、これも男の魂が女性に乗り移る話ですが。
 日本でもファンタジーの層は厚くなってきて、ジェンダーやセクシャリティの側面での思考の冒険も徐々に見られるようになりました。(荻原規子さんや上橋菜穂子さんなど。)でも、まだまだそれは女性の書き手が中心ですし、蓄積はこれから、だといえるでしょう。

投稿者 june : 07:12

1995年09月21日

親指Pの修業時代(松浦理英子)

【 書 名 】親指Pの修業時代
【 著 者 】松浦理英子
【出 版 社】河出書房新社・河出文庫文藝コレクション
【発 行 年】1995年9月4日
【 価 格 】上・580円、下・560円
【 ISBN 】上・4-309-40455-3
      下・4-309-40456-1
【KeyWords】セクシャリティ、恋愛

【 内 容 】(裏表紙から)
 「ある夕暮れ、午睡から目覚めると左足の親指がペニスになっていた――。驚くべき奇想とともに始まる性の遍歴を描いて、発表直後から圧倒的な反響を呼び、90年代の文学に画期的な地平をひらいた第三十三回女流文学賞受賞の名作。」
 「性の見せ物一座に加わった、親指ペニスを待ち受ける数奇な運命は‥‥。新たなセクシュアリティのあり方をラジカルに問いかけながら、かつてない文学世界をつくりだした、近年、最大の話題作。96年、映画化決定。待望の文庫化!」

【コメント】
 文庫化されたのを機会に紹介することにしました。
 女性の足指がペニスになる、それはちゃんと勃起して、16、7cmになり、それで男性の性器と同じようなセックスもできる、という設定がまず奇抜、というところでしょうか。射精はしないけど、性感はあり、オルガスムも感じる。勃起はしても、主人公はそれを男性がペニスを使うようには使わない。性器のようではあるけど、性器ではないのが、親指ペニス。
 「私がこの小説において読者に与えたかったのは、性器的な快楽ではなくて、非性器的な快楽なんです。」(下巻、「親指ペニスとは何か」)と作者自身が言っているように、主人公が体験するその後の性体験は、最初に付き合っていた恋人との関係ではとうてい得られなかったようなものになっていきます。レズビアンの関係もそのうちの一つで、そのレズビアンの関係が壊れることを覚悟した主人公の心に浮かぶ言葉も、性関係を失うことがつらいというのではなくて、「親密さ」の喪失を予期して悩む、というふうになっています。
 ‥‥うまく説明できないんですが、これはもう読んでいただいた方がいいかもしれません。

投稿者 june : 23:59

1995年04月21日

OL進化論(秋月りす)

【 書 名 】OL進化論(1〜22)
【 著 者 】秋月りす
【出 版 社】講談社
【発 行 年】1994年〜2004年
【 価 格 】540円(税込み)
【 ISBN 】4-06-337558-7(22巻)
【KeyWords】仕事、日常生活、コミック

【 内 容 】
【コメント】

 完結していないので、コメントしづらいのですが、8巻へのコメントを紹介します。


 さりげなくさりげなく、OLたちの日常の中に、フェミニズムの主張がある!
 「カルチャーの楽しみ」はなんなのか? それは、達成感、自分は成長しているという手応え、「本格的にやってみない?」というスカウト、などなど、「OL生活にないものがそこにある」のだ、という洞察。(8巻、p.137)
 「結婚したよ〜」の絵はがきが多い中で、旧友からの「独身に戻りました。仕事探してます。」のはがきに「ををっ」と感動してしまう瞬間。(8巻、p.61)
 「ずっと友だちでいてくれる?」という女友だちの一言。・・・その真意は、「母個人宛てにくる年賀状って1通もないの。」という将来の寂しさへの予感。(8巻、p.41)
 あたしは令子さんが好きです。(笑)

(written by Ayako TAKAHASHI)

投稿者 june : 01:59

1995年01月29日

包帯をまいたイブ(冨士本由紀)

【 書 名 】包帯をまいたイブ
【 著 者 】冨士本由紀
【出 版 社】集英社
【発 行 年】1995年1月10日
【 価 格 】1200円
【 ISBN 】4-08-774111-7
【KeyWords】レズビアン、恋愛

【 内 容 】
【コメント】

 第7回小説すばる新人賞受賞作。
 小説です。

 ***

 「さよならを言うのは気分がいい。」(冒頭)

 ちょっぴり気だるい文体がところどころ重たくなるけど、覚えず最後まで一気に読み通してしまった。(電車に乗ってる時間が長いだけか・・・)

 わ、と思ったのは、64ページからうしろ、古い世代のレズビアン・フェミニスト4人と主人公たちが小さな店の中で乱闘になるシーン。

 そして。
 「麻生と僕の躯の間に四つの乳房があって、四つともとても小さかったから、重ねあわせると、それらははにかむようにくるくると滑った。」(P.176)

 ・・・・

 ***

 読みおわったとき、額がちょっと汗ばんでいたかもしれない。
 これも電車の暖房のせいにできるのだけれども。

(written by Ayako TAKAHASHI)

投稿者 june : 00:23