2008年02月14日

少女マンガジェンダー表象論(押山美知子)

【 書 名 】少女マンガジェンダー表象論
       ――“男装の少女”の造形とアイデンティティ
【 著 者 】押山美知子
【出 版 社】彩流社
【発 行 年】2007年
【 価 格 】2310円(税込み)
【 ISBN 】4779112443
【KeyWords】メディア、少女、アイデンティティ

【 内 容 】(目次)

第1章 “男装の少女”キャラクターの出発点
第2章 「傍流」としての“男装の少女”
第3章 “男装の少女”の成長
第4章 “男装の少女”の反復と再構築

【コメント】

■ジェンダーに敏感でありたいと願う読み手と、そして描き手/書き手のために

 戦後日本の少女向けコミックでは、『リボンの騎士』のサファイヤを出発点として、さまざまな〈男装の少女〉が描かれてきた。確かに彼女たちは、既存のジェンダー規範を服装と行動の面で越境しようというキャラクターとして設定されているが、実は限界もある。多くの場合少女たちの〈男装〉は、第二次性徴前や、結婚前つまり異性愛関係に入る以前の一時的なものとされている。また、単独でしか登場しないこともしばしばである(物語中や、作品の集団内に一人しかいない存在として描かれていることが多い)。場合によっては、むしろジェンダー規範を強化するような、戯画的な存在=道化としてしか描かれていないこともある。
 こうした長い歴史を持つ〈男装の少女〉という表象の影響力と意味を、顔の造作や眼の描き方、服の色やデザインといった視覚的な表現の分析を取り入れて再評価していることが、本書の大きな特徴である。第一章では『リボンの騎士』、第二章では一九六〇年代に描かれた〈男装の少女〉たち、第三章では『ベルサイユのばら』のオスカル、第四章では『ベルばら』以降の諸作品が取り上げられるが、これまで多かったストーリー中心の解釈だけでは得られない評価が、それぞれの作品について与えられている。キャラクターの空間配置とジェンダー表象の関係についての指摘(右から左へ時間が流れる日本のマンガに独特の「画面右側=能動的/左側=受動的」という図式が、「男性的/女性的」という関係に重ねられていること)などは、近年のマンガ研究の成果を十分に取り入れたものだといえる。雑誌掲載版の参照、単行本化されたものとの異同の確認、インタビューなどのさまざまな資料の活用といった地道な作業の上に、こうした分析が立脚していることも忘れられてはならない。
 特に第四章での『ベルサイユのばら』の分析は、ジェンダーに敏感にありたいと望む表現者にとってもきわめて示唆的である。作者の池田理代子は、オスカルに単に軍服を着せるだけのものとして〈男装〉をさせたのではない。『リボンの騎士』では微妙に隠蔽されていた身体性の問題を回避することなく表現するといった、テーマ上の試みもある。さらにそれに加え、男性キャラクターともその他の女性キャラクターとも異なる表現でオスカルを描くという、視覚表現上のさまざまな挑戦があって初めて、〈男装〉という性別越境が既存のジェンダー秩序を相対化する力を持つことができるのだということが、説得的に示されている。男性キャラクターと対するときと他の女性キャラクターと対するときでのオスカルの顔の描き分けや、年齢の経過による顔の造作の変化への着目がそれである。第四章後半で議論されているように、掲載誌『週刊マーガレット』の〈男装の少女〉が登場する同時期の作品と対比すれば、『ベルばら』における〈男装の少女〉の表現技法と、この作品の中で〈男装〉という性別越境に与えられている意味の独自性が、よりはっきりと理解できるだろう。
 つまり〈男装の少女〉とは、描きにくいキャラクターなのである。マンガという、ある意味表現上の「お約束」を守ることでなりたっている世界では、特にそうなのだ。既存の表現上のジェンダー・コードにおさまりきらない彼女たちは、描き手にまずそのことで困難をつきつける。安易に描けば惰性化する。性別ごとの服装コードがゆらいでしまった現代社会を舞台とすることがむずかしいという制約の厳しさもある。八〇年代以降の「戦闘美少女」の台頭の中で、服装上は女性的でありつつ、主体的・活動的でもあろうという設定もとみに一般化した。少女マンガではないが北条司の『キャッツ・アイ』の来生三姉妹はレオタードを身にまとうし、武内直子の『美少女戦士セーラームーン』でもミニスカートのセーラー服が戦闘コスチュームだ。そして彼女たちはチームを組んで戦いに出る。
 しかしこうした服装コードの変化や表現上の多様化が、決してジェンダー・カテゴリーの消滅やその抑圧性の除去を意味するものではないことも確かである。著者が本書の結論部分で指摘するのは、〈男装の少女〉という表現形態とは、自律的主体としての少女を描くための一つの方法論であったということである。形は変わるかもしれないが、同じ目的での方法論は、新たな環境の中でジェンダーやセクシュアリティにかかわる表現を切り拓こうとする際に、今後も必要になるものであるだろう。読み手が作品を十分理解するためだけでなく、描き手/書き手の新しい方法論探究のための素材としても、あるいは媒介者たる編集者の思考の材料としても、本書の分析は導きの糸となるに違いない。
(初出:『図書新聞』、2822号、2007.5.26)

投稿者 june : 16:21

2005年02月02日

ファンタジーとジェンダー(高橋準)

【 書 名 】ファンタジーとジェンダー
【 著 者 】高橋準
【出 版 社】青弓社
【発 行 年】2004年7月16日
【 価 格 】1600円+税(税込1680円)
【 ISBN 】4-7872-3234-7
【KeyWords】ポピュラー文化、家族、「男装」

【 内 容 】
【コメント】

 著者から掲載依頼があったので、Myriel用に少し手を加えておきます。
 章立てと内容の概略・取り上げられている作品をまず示します。

はじめに

第1章 迷宮の地図を描く―ファンタジーをどう読むか
 全体の序論。「ファンタジーとはなにか」にはじまって、日本ファンタジー小史、分析視角、など。

第2章 「男装の麗人」たち
 「リボンの騎士」「ベルサイユのばら」などのコミック作品から「男装者」の類型を抽出しつつ、「指輪物語」「グイン・サーガ」といった大物ファンタジーの中に登場する「男装者」のイメージを分析。

第3章 「戦う女性」たち
 第2章を引きついで、「戦う女性」についての分析。
 マーセデス・ラッキー「ヴァルデマール年代記」、ひかわ玲子「エフェラ&ジリオラ」、小野不由美「十二国記」、前田珠子「破妖の剣」、など。
 ヘイドン「ラプソディ――血脈の子」、ジーン・アウル「大地の子エイラ」などへの言及もあり。

第4章 ファンタジーのなかの家族
 ローリングの「ハリー・ポッター」シリーズとエディングズ「ベルガリアード物語」を軸に、「親を亡くした子ども(ただし男の子)」をめぐる「家族の物語」を分析するほか、現実の家族と異なるものを描いた作品として、マキャフリー「パーンの竜騎士」、ブラッドリー「ダーコーヴァ年代記」、そして小野不由美の「十二国記」ふたたび。 

付録 ファンタジー作品紹介
 「ハリポタ」、「リンの谷のローワン」、上橋菜穂子「守り人」シリーズ、などの児童文学系から、おとな向けのものとして、松村栄子「紫の砂漠」、ジーン・アウル「大地の子エイラ」、「グイン・サーガ」など。本文の補足なども含む。これだけでなく、よくある真面目なファンタジー評論で無視されてしまうことの多いヤング・アダルト向けについてもとりあげている。秋田禎信「エンジェル・ハウリング」、茅田砂胡「デルフィニア戦記」、荻原規子「西の善き魔女」など。コミックでは中山星香「妖精国の騎士」、垣野内成美「吸血姫美夕」、田村由美「BASARA」。


 以下、感想。
 もともとは@niftyのフォーラムにアップされた部分などもあるのだが、最初に発言に目を通した時の印象と、単著としてまとめられたものを読んでの印象はかなり違った。特に「男装の麗人」と「戦う女性」を隔てるものは何か、というようなところがそうだろうか。孤立している「男装の麗人」に対して、「戦う女性」は、少なくとも同じ地域や集団の中にちゃんと仲間がいる、というところが、同じジェンダー役割の越境を描いていても違うところだ、という指摘などは、まとめて読んで初めて理解できた。(個人的には、この点に触れている第3章が一番興味深く読めた。)
 その流れで出てくる付録の「エンジェル・ハウリング」は、ちょっと印象違うかな、とは思う(まあ、まだ連載途中で書かれた本だし)。でもたしかに、『ドラゴンマガジン』萌えキャラ・ベストスリーに入ってくるフリウ・ハリスコー(「エンジェル・ハウリング」の主人公の一人)視点のパートが雑誌連載されているのに、年齢が高いミズー・ビアンカ(もう一人の主人公)視点のほうは書き下ろしになっていて、そういう「おたく文化」という視点から見れば、興味深い例なのかも知れない。
 第1章の、筆者曰く「しちめんどうくさい」という部分はちゃんと読んでいないのだが(申し訳ない)、一つ印象に残ったのは、ジェンダーの問題は、ファンタジーというジャンルの作品が成立するための根幹に位置しているのだ、というくだり。現実とは違った世界を描こうとするハイ・ファンタジーでは、作品世界に合わせて現実とは異なるジェンダー関係を描こうとする場合はもちろん、逆に現実のジェンダー関係をそのまま持ち込む場合にも、今度は作品世界とのミスマッチが問題になる。そうすると、いずれにしても意識的・無意識的に、ファンタジーの書き手は(読み手も)ジェンダーの問題にかかわらざるを得なくなる、というところは、なるほどと思わされた。
 個々の作品分析も重要だけど、こうしたジャンル固有の問題を的確に指摘している点も見逃してはいけないところだと感じた。よくポピュラーカルチャーのジェンダー分析で、ステレオタイプ概念を使って作品を切って終わり、というようなものがあったりするが、良質の分析は(斎藤美奈子さんの「紅一点論」もそう)、ジャンルに内在しているロジックを摘出するというところを必ず持っているもので、その点本書もきちんと最低条件を満たしていると思う。
 価格もお手ごろでおすすめ。著者に「この値段なら買う。もちろん倍でも買うけど」と言ったら、「じゃあ2冊買って(笑)」と言われてしまいました。すいません1冊でがまんしてください。その分ファンタジー買いますから。(爆)
 それと注文を一つ。次にこのテーマで何か書く時は、そろそろ長年懸案の「空色勾玉」論をお願いします。

(written by Ayako TAKAHASHI)

投稿者 june : 00:23

1999年10月18日

学校文化とジェンダー(木村涼子)

【 書 名 】学校文化とジェンダー
【 著 者 】木村涼子
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】1999年10月1日
【 価 格 】2700円+税
【 ISBN 】4-326-65227-6
【KeyWords】教育、階層、主体化、かくれたカリキュラム、ポピュラー文化

【 内 容 】(目次)

 はしがき

 序章 〈ジェンダーと教育〉研究の課題
  1 学校における男女平等は幻想か
  2 学校の中で起こっていること――学校内部への視点―― 
  3 女性の中の多様性――ジェンダーと階層――
  4 女性性に向けての主体の形成

 I 学校のなかのジェンダー

 第一章 ジェンダーの再生産と学校
  1 イデオロギー装置としての学校教育
  2 幼児・初等教育の平等主義と〈中立〉的な性別カテゴリーの多用
  3 中等教育におけるセクシズムの強化
  4 〈かくれたカリキュラム〉とジャンクション・システム
  5 学校教育の再生産機能――資本制とセクシズム――

 第二章 学校文化における平等とセクシズムの葛藤
       ――ジェンダーと階層――
  1 学校文化の中の矛盾する二つのメッセージ
  2 学校文化への少女たちの対応
  3 階層による分化
  4 男女の新しいあり方に向けての学校文化の変革

 第三章 学校の中の〈かくれたカリキュラム〉
  1 〈見える〉と〈見えない〉の間――誰にとっての可視性か?――
  2 日本の学校が内包する〈かくれたカリキュラム〉
     ――子どもたちにとっての〈見える〉――
  3 〈見える〉ことの意味――学校文化の変革に向けて――

 第四章 教室におけるジェンダーの形成
  1 ジェンダーと教育研究における相互作用の問題
  2 児童によって認知された相互作用における性差
     ――質問紙調査の結果から――
  3 教室における相互作用の現実
     ――B小学校における教室観察から――
  4 子ども集団と教師のパワー・ポリティクス

 第五章 〈教育と女性解放〉の理論
  1 教育における性差別をいかにとらえるか
  2 リベラル・フェミニズムの立場――〈機会の平等〉論――
  3 ラディカル・フェミニズムの立場
     ――文化・知識の男性中心性批判――
  4 マルクス主義フェミニズムの立場
     ――ジェンダーと階級の再生産論――
  5 解放のための戦略をいかに措定するか

 第六章 女性解放をめざす教育――〈女性〉の多様性をみつめて――
  1 フェミニズム批判からフェミニズム第三の波へ
  2 学校教育の中で〈生き残る〉者――女性の中の不平等――
  3 マイノリティの視点の内在化

 II 少女が〈女〉になるメカニズム

 第七章 少女小説と〈女〉への社会化
  1 〈女らしさ〉の形成と大衆文化
  2 アメリカにおける少女向け恋愛小説
     ――その内部と外部のダイナミクス――
  3 日本における少女向け大衆文化の分析に向けて

 第八章 少女小説の方程式
  1 少女向けメディアの発達
  2 少女小説の消費の実態
  3 少女小説の物語の基本的道程
  4 物語構造のヴァリエーション
  5 ヒロインが取り結ぶ他者との関係
     ――個から対へ、対からネットワークへ――
  6 少女たちの〈読む〉行為

 第九章 自己と他者――少女マンガ、少女小説そして文学――
  1 〈癒し〉の流行
  2 少女文化における〈癒し〉
  3 自己肯定の危うさ

 第十章 なぜ女性は女性役割を受容するのか――その意識と現実――
  1 女性役割の自発的選択?
  2 現代女性の生活意識
  3 女性役割受容についての三つの仮説
  4 現実に近づくために

 終章 資本主義社会におけるセクシズム再生産の理論化に向けて
  1 資本主義とジェンダー秩序
  2 学校・マスメディアと労働市場の接合――労働力商品の生産――
  3 学校教育における二つのヘゲモニー――階級とジェンダー――
  4 サブカルチャーによる補完――〈抵抗〉とヘゲモニーの貫徹――
  5 再生産に内在する変革

 あとがき

【コメント】
 著者の既発表の論文を集めたアンソロジー。ただし決して寄せあつめではなく、かなり加筆・訂正が行なわれてもいるし、またきれいに現代の「ジェンダーと教育」をめぐる問題状況の全体を俯瞰できるようにもなっている。
 著書を一貫して流れているのは、教育(特に学校教育)を、「平等化」を進めると共に「差別化」を再生産するととらえるという立場である。世論調査でも、学校は他の生活領域に比べてきわめて男女平等であるという考えが根強い。しかし、かくれたセクシズムは学校教育の場に蔓延しているとすら言える。その両側面を持ったものとして教育をとらえようということだ。
 ただし、その現われ方は場面によって異なる。第一章では、段階別にそうした「平等化と差別化」の二側面がどのように現れてくるかが考察される。
 第二章では、しばしば「ジェンダーと教育」という問題が見落としてしまう点、すなわち階層の問題が扱われる。この問題が欠かせないのは、第五章で論じられ、終章でまとめられているように、筆者が「ジェンダーと教育」の問題をマルクス主義フェミニズムの問題関心からとらえ、全体社会の再生産の分析の中に位置づけようとしているためである。
 また、「生徒・児童は資本主義的・性差別的イデオロギーを注入される、受動的な存在に過ぎない」という視角にも、筆者は異議を唱える。子どもはセクシズムが教室の中で表現され、再生産されるときの担い手にもなるのだ。それはまず、欧米では1970年代から、日本でも1980年代後半から蓄積されてきた、クラスルームのミクロ分析から明らかにされる。さらに踏み込んで、その際に取られるデータ収集のアプローチも批判の対象とされる(観察および分析の焦点は教師の側にあり、子どもの意識や行動は主軸とはされてこなかったということ)。こうした観点はフェミニスト・ポスト構造主義と呼ばれるものの成果を引き継いでいるものである。
 さらに、特に少女たちの主体形成が、どのように学校文化と相呼応したり、「抵抗」したりされながら進んでいくかにも、目が向けられている。その際の手がかりとなっているのは、少女小説の「読まれ方」である。規模の大きい調査をもとにした「読まれ方」の分析(第八章)は、単なるテクスト解釈を超えて少女文化のありように迫るものであろう。
 こうした網羅的な視角と調査に基づく豊富なデータによって、木村のこの本は、「ジェンダーと教育」の問題についてこれから考えていこうという人にとって、「まず最初に読むべき1冊」になりうるのではないだろうか。彼女自身が学生時代に接した本が彼女の中のもやもやとした問題関心にはっきりとした形を与えたように、この本も同じ影響をこれからの読者に与えることになるかもしれない。そうした可能性を持った1冊だと言える。

投稿者 june : 15:45

1998年09月23日

紅一点論(斎藤美奈子)

【 書 名 】紅一点論
【 著 者 】斎藤美奈子
【出 版 社】ビレッジセンター出版局
【発 行 年】1998年7月18日
【 価 格 】1700円+税
【 ISBN 】4-89436-113-2
【KeyWords】ポピュラー文化 子ども文化 メディア

【 内 容 】

 はじめに――世界は「たくさんの男性と少しの女性」でできている

 紅一点の国
  第一章 アニメの国
  第二章 魔法少女と紅の戦士
  第三章 伝記の国
  第四章 紅一点の元祖ジャンヌ・ダルク

 紅の勇者
  第一章 少女戦士への道――『リボンの騎士』『ハニー』『セーラームーン』
  第二章 組織の力学――『ヤマト』『ガンダム』『エヴァンゲリオン』
  第三章 救国の少女――『コナン』『ナウシカ』『もののけ姫』
  第四章 紅の勇者の三〇年

 紅の偉人
  第一章 天使の虚偽――フローレンス・ナイチンゲール
  第二章 科学者の恋――マリー・スクロドフスカ・キュリー
  第三章 異能の人――ヘレン・ケラー
  第四章 紅の偉人の五〇年

 あとがき――「萬緑叢中紅一点」を超えて

【コメント】

 議会や企業経営者など、この社会の上層部はすべからく「たくさんの男性と少しの女性」で構成されていて、しかもそれをわたしたちは、誰に教わるともなく、テレビアニメや伝記を読んでいて自分で知るのだ、と「はじめに」の部分で書かれています。『ウルトラセブン』のウルトラ警備隊なら友里アンヌ、『宇宙戦艦ヤマト』なら森雪、女の子が座れる椅子は一つしかない――それが「紅一点現象」なのだと。
 紅一点現象とは、一つには「数」の問題であるけれど、でも「質」の問題でもあります。なぜなら、彼女は「ひとりだけ特別に選ばれた女性」で、しかも、彼女の仕事・役目はごく限られたものだったから。闘いで傷ついた男の子をケアしたり、通信係=電話番をしたり、はたまた非公式には「お色気担当」であったり。ただしこれは、「男の子の国」の物語の話だけれど。(日本ではアニメーションもマンガも、「男の子向け」「女の子向け」に高度にジェンダー化されており、特に銘打っていない場合には暗黙裡に「男の子向け」である場合が多い。)
 じゃあ、「女の子の国」では?というと、「恋愛立国」である「女の子の国」でのヒロインは、常に「魔法少女」。「男の子の国」がわけがわからなくともいちおう「科学」で動いているとするなら、こっちはそもそもリクツがつかない「魔法」が作動原理なのだ。(そしてその「魔法」のうちでも最大にワケがわからんのが「愛」とかいうものである。)
 斎藤図式によれば、「魔法少女」は「父親から見た理想の娘」で、「男の子の国」の紅一点ヒロインである「紅の戦士」は「上司から見た理想のOL」であるという‥‥いささかミもフタもないが。しかし、幼い頃から繰り返しこのパターンで攻められたら、どんなふうに女の子も男の子も感じるだろう。
 ただ、『美少女戦士セーラームーン』にしても『新世紀エヴァンゲリオン』『機動戦艦ナデシコ』にしても、1990年代、特に後半以降の作品では、明らかに従来の枠組みは崩れつつある。『セーラームーン』各シリーズは、「女の子の国」の作動原理をそのままに、「男の子の国」のチーム性などの要素を付加したハイブリッドな構造を持つし、『エヴァ』にせよ『ナデシコ』にせよ、「男の子の国」のお話なのに、女性が指揮する女性主体の実戦部隊を有するという意味ではすでに「紅一点」を脱している。ただしそのとたんに、『ナデシコ』はナンセンスの方向へ走り出すし、『エヴァ』ではそもそも「物語」自体が崩壊してしまったけれど。これはある意味で、従来のアニメーションの構成原理の危機を意味しているのかも知れない。
 『紅一点論』がユニークなのは、アニメだけでなく「伝記もの」を視野に含んでいるところだ。伝記の世界でも、出てくる「偉人」はたいてい男、女性は、紫式部とかマリー・キュリー、ヘレン・ケラーなどごく少数。しかも、取り扱われかたにたいへんな偏りがあるという。これが第3部の「紅の偉人」の主題になる。「科学が好きな女の子に育てたい」とか思ってマリー・キュリーの伝記を子どもに買って読ませても、マリー・スクロドフスカとピエール・キュリーのラブ・ロマンスを中心に読まされることになるかも知れないのだ。
 ところで、最近ようやくアニメを見始めたわたしとしては、いくつか引っかかることが。斎藤の前著「紅の戦士」(『ハイパーヴォイス』、ジャストシステム、に収録)に関しては「ハチャメチャな女の子二人組が活躍する『ダーティペア』は?」という疑問を持ったものだが、今回は、「男の子向けアニメなのに魔法少女が活躍し、しかもその行動原理は食欲と物欲(笑)という『スレイヤーズ』シリーズは?」という疑問を持った。もちろん斎藤図式で説明不能ではないのだが(『セーラームーン』と同様、ハイブリッドな構造を持つと言える)、あれだけヒットした作品に言及がなされていないのがいささか気になるところではある。

投稿者 june : 17:02

1997年07月29日

アダルトチルドレンと少女漫画(荷宮和子)

【 書 名 】アダルトチルドレンと少女漫画
【 著 者 】荷宮和子
【出 版 社】廣済堂出版
【発 行 年】1997年7月15日
【 価 格 】本体1600円+税
【 ISBN 】4-331-50588-X
【KeyWords】メディア アダルトチルドレン 家族 癒し

【 内 容 】

 第一部 現実を見つめて
  第一章 女の子・元女の子にとっての現実
  第二章 母親を取り巻く現実
  第三章 「性別」にかかわる現実
  第四章 「性」にかかわる現実

 第二部 アダルトチルドレンの発見
  第一章 家族という名の苦痛
  第二章 アダルトチルドレンの親子関係
  第三章 アダルトチルドレンの人間関係

 第三部 癒されるために
  第一章 癒されたいなら
  第二章 女と男の理想郷

 ※取り上げられる主な作品(順不同)
 『はみだしっ子』(三原順)
 『ゆれる早春』(池田理代子)
 『ふたりの童話』(岩館真理子)
 『桜の園』『光の庭』(吉田秋生)
 『美少女戦士セーラームーン』(武内直子)
 『夏のおわりのト短調』『夏の夜の獏』『さようなら女達』(大島弓子)
 『赤ちゃんと僕』(羅川真里茂)
 『はれた日は学校を休んで』(西原理恵子)
 『トーマの心臓』『メッシュ』『イグアナの娘』『残酷な神が支配する』『タ
ダとフロルのスペースストリート』(萩尾望都)
 『ホットロード』(紡木たく)
 『君の歌がある』(いくえみ綾)
 『スラムダンク』(井上雄彦)
 『こどものおもちゃ』(小花美穂)
 『エースをねらえ!』(山本鈴美香)
 『朝顔の朝』『紙のお月さま』(陸奥A子)
 『ガラスの仮面』(美内すずえ)

【コメント】
 最近数が増えてきたマンガ評論の一冊。
 「アダルトチルドレン」という概念を、「今の日本の社会に生きている女は、すべからく『アダルトチルドレン』と称されるべきなのだ。」(「はじめに」、p.13)と相当大きく拡大解釈している点、また、しばしば論証抜きで、「現代の少女なら‥‥であるはずだ」のような「あなたもわかるでしょ」的書き方をしている点はいただけない。「アダルトチルドレン」というようなことばをあえて使わずとも、彼女の言いたいことは十分に表現が可能なのではないかと思える。
 もともと「アダルトチルドレン」という概念は、アルコール依存の親のもとで育った子どものことを指すものであったが、その後「幼少時代より親(血縁上の親とは限らない)から正当な愛情を受けられず、有形無形の身体的・精神的虐待を受け続けて成人し、社会生活に対する違和感や子ども時代にうけた心的ダメージに悩み、苦しむ人々」を指すようになってきている。したがって、荷宮の用法が誤りであるとは言えないが、結局のところ、概念の最広義な定義は、この場合無定義と同じことになってしまっているのではないかと思える。
 内容であるが、『ホットロード』や『はみだしっ子』といった作品にはかなりのスペースが割かれ、特に『はみだしっ子』は繰り返し言及され、その魅力が十分に浮き彫りにされている。また、『美少女戦士セーラームーン』に関しては、「女も戦えという、均等法以後の世代へのメッセージ」を読みとってしまうなどという読み方ではなく、少
女たちの「隠された欲望」を(知ってか知らずか)表現してしまったところに着目している点は、興味深い。
 しかし、荷宮のこの本の真骨頂は、そういった「名作」との評価を受けた作品や、あるいは一般にヒットして誰もが知っている作品について述べている部分ではないのではないだろうか。むしろ彼女のこの作業では、これまでの「まじめな」評論でしばしば見落とされてしまったような、「おとめちっく少女マンガ」と呼ばれるジャンルの作品(あるいは、このジャンル外の作品であってもその中の「おとめちっく」と呼べる部分)の再評価の部分こそ、注目に値するように思う。

投稿者 june : 07:51