2005年02月02日

ファンタジーとジェンダー(高橋準)

【 書 名 】ファンタジーとジェンダー
【 著 者 】高橋準
【出 版 社】青弓社
【発 行 年】2004年7月16日
【 価 格 】1600円+税(税込1680円)
【 ISBN 】4-7872-3234-7
【KeyWords】ポピュラー文化、家族、「男装」

【 内 容 】
【コメント】

 著者から掲載依頼があったので、Myriel用に少し手を加えておきます。
 章立てと内容の概略・取り上げられている作品をまず示します。

はじめに

第1章 迷宮の地図を描く―ファンタジーをどう読むか
 全体の序論。「ファンタジーとはなにか」にはじまって、日本ファンタジー小史、分析視角、など。

第2章 「男装の麗人」たち
 「リボンの騎士」「ベルサイユのばら」などのコミック作品から「男装者」の類型を抽出しつつ、「指輪物語」「グイン・サーガ」といった大物ファンタジーの中に登場する「男装者」のイメージを分析。

第3章 「戦う女性」たち
 第2章を引きついで、「戦う女性」についての分析。
 マーセデス・ラッキー「ヴァルデマール年代記」、ひかわ玲子「エフェラ&ジリオラ」、小野不由美「十二国記」、前田珠子「破妖の剣」、など。
 ヘイドン「ラプソディ――血脈の子」、ジーン・アウル「大地の子エイラ」などへの言及もあり。

第4章 ファンタジーのなかの家族
 ローリングの「ハリー・ポッター」シリーズとエディングズ「ベルガリアード物語」を軸に、「親を亡くした子ども(ただし男の子)」をめぐる「家族の物語」を分析するほか、現実の家族と異なるものを描いた作品として、マキャフリー「パーンの竜騎士」、ブラッドリー「ダーコーヴァ年代記」、そして小野不由美の「十二国記」ふたたび。 

付録 ファンタジー作品紹介
 「ハリポタ」、「リンの谷のローワン」、上橋菜穂子「守り人」シリーズ、などの児童文学系から、おとな向けのものとして、松村栄子「紫の砂漠」、ジーン・アウル「大地の子エイラ」、「グイン・サーガ」など。本文の補足なども含む。これだけでなく、よくある真面目なファンタジー評論で無視されてしまうことの多いヤング・アダルト向けについてもとりあげている。秋田禎信「エンジェル・ハウリング」、茅田砂胡「デルフィニア戦記」、荻原規子「西の善き魔女」など。コミックでは中山星香「妖精国の騎士」、垣野内成美「吸血姫美夕」、田村由美「BASARA」。


 以下、感想。
 もともとは@niftyのフォーラムにアップされた部分などもあるのだが、最初に発言に目を通した時の印象と、単著としてまとめられたものを読んでの印象はかなり違った。特に「男装の麗人」と「戦う女性」を隔てるものは何か、というようなところがそうだろうか。孤立している「男装の麗人」に対して、「戦う女性」は、少なくとも同じ地域や集団の中にちゃんと仲間がいる、というところが、同じジェンダー役割の越境を描いていても違うところだ、という指摘などは、まとめて読んで初めて理解できた。(個人的には、この点に触れている第3章が一番興味深く読めた。)
 その流れで出てくる付録の「エンジェル・ハウリング」は、ちょっと印象違うかな、とは思う(まあ、まだ連載途中で書かれた本だし)。でもたしかに、『ドラゴンマガジン』萌えキャラ・ベストスリーに入ってくるフリウ・ハリスコー(「エンジェル・ハウリング」の主人公の一人)視点のパートが雑誌連載されているのに、年齢が高いミズー・ビアンカ(もう一人の主人公)視点のほうは書き下ろしになっていて、そういう「おたく文化」という視点から見れば、興味深い例なのかも知れない。
 第1章の、筆者曰く「しちめんどうくさい」という部分はちゃんと読んでいないのだが(申し訳ない)、一つ印象に残ったのは、ジェンダーの問題は、ファンタジーというジャンルの作品が成立するための根幹に位置しているのだ、というくだり。現実とは違った世界を描こうとするハイ・ファンタジーでは、作品世界に合わせて現実とは異なるジェンダー関係を描こうとする場合はもちろん、逆に現実のジェンダー関係をそのまま持ち込む場合にも、今度は作品世界とのミスマッチが問題になる。そうすると、いずれにしても意識的・無意識的に、ファンタジーの書き手は(読み手も)ジェンダーの問題にかかわらざるを得なくなる、というところは、なるほどと思わされた。
 個々の作品分析も重要だけど、こうしたジャンル固有の問題を的確に指摘している点も見逃してはいけないところだと感じた。よくポピュラーカルチャーのジェンダー分析で、ステレオタイプ概念を使って作品を切って終わり、というようなものがあったりするが、良質の分析は(斎藤美奈子さんの「紅一点論」もそう)、ジャンルに内在しているロジックを摘出するというところを必ず持っているもので、その点本書もきちんと最低条件を満たしていると思う。
 価格もお手ごろでおすすめ。著者に「この値段なら買う。もちろん倍でも買うけど」と言ったら、「じゃあ2冊買って(笑)」と言われてしまいました。すいません1冊でがまんしてください。その分ファンタジー買いますから。(爆)
 それと注文を一つ。次にこのテーマで何か書く時は、そろそろ長年懸案の「空色勾玉」論をお願いします。

(written by Ayako TAKAHASHI)

投稿者 june : 00:23

2000年03月07日

愛の空間(井上章一)

【 書 名 】愛の空間
【 著 者 】井上章一
【出 版 社】角川書店・角川選書
【発 行 年】1999年8月5日
【 価 格 】2000円+税
【 ISBN 】4-04-703307-3
【KeyWords】セクシュアリティ、売買春、建築、デザイン

【 内 容 】
【コメント】
 週刊誌・新聞記事、文学、自分史などから、近現代の日本で性愛がどのような空間で営まれてきたかを探ろうとする試み。
 戦後の新聞記事に、皇居前広場でセックスする男女が目に付くという記事がある。「しろうと」の男女は必ずしも屋内を性愛の空間としていなかったのではないか――そういう問題提起から本書はスタートする。
 実際、船宿や待合などの屋内をよく利用したのは売買春がらみの男女であって、いわゆる「しろうと」たちは野外かそうでなければソバ屋の二階などを利用したという。東京近郊に「しろうと」の性愛用の建築物が造られはじめるのが1910年代。おそらく、地方ではずっと遅れていただろう。
 戦後直後はいわゆる「さかさクラゲ」あるいは「3S」のマークで知られるような「温泉宿」(実際には温泉などはない)。1960年代からはラブホテル、ということになる。
 どちらかというと、一本筋を通した分析というよりは、さまざまな種類の言説から抜き出した細かい描写を並べた歴史的記述といったほうがよい体裁の本書だが、『美人論』(リブロポート)よりも「フェミニストにはお叱りを受けそうだが……」的なピントのズレた言い訳が少ない分、読みやすい。(皆無ではなく、たとえば387頁にはこれも見事にピントをはずしまくった言い訳が一言差し挟まれている。)
 さまざまな資料の取り扱いだが、注意して読むと、井上が言説から距離を取った読み方をしようとしているのがわかる。「1970年代のラブホテルの内装の豪奢化は、女性がそれを望んだからだ」という週刊誌にたびたび登場する言説に対して、「果たしてそうだろうか」と第六章で疑問を呈してみせる。「いったい、どういう『女性』がその時、イメージされていたのだろう。」[p.312]
 『週刊大衆』『平凡パンチ』『宝石』などの記事の書き手やインタビューの相手などが、全て男性であることにここでは注目しておきたい。「女性がそれを好む」という発言は全て男性(記者やホテル経営者)からのものなのだ。「女性はこういうものを好むだろう」という彼らの思いこみがそこにあったのではないだろうか。実際、後の章でラブホテル建築を手がける建築家の、「ラブホテルの設計は、以前はオーナーの意見には全面的に服さねばならなかった」という声が取り上げられてもいる。
 井上はこれに、「女性の意見というときの女性とは、『くろうと』筋の女性のことではないのか」という見解も付している。確たる裏付けがない見解なので、とりあえずは保留としておきたい。
 戦後の住空間の編成では、(n-1)DK(nは世帯成員数)型の家が、アパート・マンションを中心に普及したことが知られている。それは、核家族化を前提として、夫婦同室・子どもに個室という住空間を普及させた。「年頃になれば」、子どもも性別で分けてやすむことが特に奨められるようになる。異性愛的な規範に従って男女が分けられるのだ。(もう一つの理由は「勉強のため」であるのは言うまでもない。)
 このように、戦後日本の家族の住空間の中では、異性愛的なセクシュアリティは夫婦の寝室に囲い込まれる。夫婦間のものだけが、認められた性愛になる。
 それ以外の性愛は、たとえば野外で営まれたり、待合などの専用空間で営まれることになる。高度成長期以降はラブホテルということになるだろう。こうした性愛専用の場所の提供は、「東京近郊」で始まったという。大規模に(n-1)DKの住空間が作られたのも、同じ東京近郊であった。こうした符合にも着目して、本書を読むべきであろう。

投稿者 june : 15:40

1999年03月28日

男たちの知らない女(マーリーン・バー)

【 書 名 】男たちの知らない女
      ――フェミニストのためのサイエンス・フィクション
【 著 者 】マーリーン・S・バー  小谷真理・鈴木淑美・栩木玲子訳
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】1999年2月25日
【 価 格 】本体4200円+税
【 ISBN 】4-326-65213-6
【KeyWords】サイエンス・フィクション ユートピア 想像力 少女 フェミニスト・ファビュレーション

【 内 容 】(目次)

 まえがき(マージ・ピアシー)

 序章 父権的ホーカス・ポーカス

 T フェミニズムとSF
 第1章 逃避行――『テルマ&ルイーズ』論
 第2章 女性アーティストの肖像――アン・マキャフリィ『竜の歌』を読む
 第3章 疑似家族――フェミニスト・ユートピア論
 第4章 女が女を愛する――ジェシカ・アマンダ・サーモンスン「放蕩娘」
     を読む
 第5章 透明人間――ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『男たちの
     知らない女』を中心に
 第6章 女の中に男が一人――マージ・ピアシー『時を飛翔する女』を読む
 第7章 生殖テクノロジー――妊娠と国家権力

 II フェミニズムとポストモダニズム
 第8章 エイリアンと人権――フェミニスト・ファビュレーションとは何か
 第9章 アメリカを変える――メルヴィル再読
 第10章 ポスト・コロニアニズム――ラシュディの書く女性的物語
 第11章 女たちの秘境探検――ヒューマニズムを問う
 第12章 文化的コスプレ――村上春樹「TVピープル」の場合
 第13章 少女救出作戦――埋葬された思春期

 訳者解説(小谷真理)

 SF作品総解説

【コメント】
 ヴァージニア州立工科大学準教授の著者によるSF評論集。
 文芸批評の正典(canon)からはまったく疎外されたサイエンス・フィクションは、フェミニスト批評からも疎外されてきた存在だという。「まえがき」でマージ・ピアシーが、彼女の作品『彼と彼女とゴーレムと』が“SF”というジャンルに入れられたことで、フェミニスト的切り口の書評が一番少なくなった、と書いているとおりなのだろう。
 マーリーン・バーは、「フェミニスト・ファビュレーション」という概念を提起することで、フェミニスト・サイエンス・フィクションの復権を目指す。「フェミニスト・ファビュレーション」とは、現実の家父長制社会から絶対的に断絶している社会を描くことで、現実を逆照射する力を持つようなフィクションすべてのことを指す。(したがってここには、フェミニストの書き手以外の書き手による作品も含まれる。)
 バーがとりあげるのは、映画『テルマ&ルイーズ』、マキャフリィの『竜の歌』、エリザベス・A・リンの『北の娘』といった、フェミニズム色の濃い作品から、村上春樹やサルマン・ラシュディといった男性の作品、スピルバーグの映画などにまで至る。彼女は、それらの作品の中に、沈黙させられてきた/沈黙させられているさまざまな「声」を読みとろうとする。それらを抑圧しているのは、ここではもちろん、さまざまな要素(階級や民族などと)結びついている家父長制(訳書一部では「父権制」)だ。
 彼女の読みの特徴は、これまで陽の目を見てこなかったフェミニスト・サイエンス・フィクションに着目することだけではない。もう一つ、マージ・ピアシーが「羊飼いタイプ」と呼ぶような、文化のフェミニスト的想像力・創造力を、女性作家の作品だけでなく男性の作り手が関わった作品にも発見し、それに言葉を与え、読者に「可能性」を示すところにある。
 「女性は抑圧されてきた/されている」。これまで何度もそう繰り返されてきた。では、未来は? その「可能性」の一端を示せることも、フェミニスト・サイエンス・フィクションが「フェミニスト・ファビュレーション」と呼びうる所以であるのではないだろうか。わたしたちとわたしたちの社会の「未来」を描く文学としての。
 「これらの社会が直接私たちの問題を解決してくれるわけではないが、少なくともより良いシナリオは見せてくれる。読者はそれに促されて、現実とは別の、もう一つの社会を想像する。こうして想像されたもう一つの社会から、現実的な解決策が生まれるのである。」(本書p.85)

投稿者 june : 16:51

1999年01月25日

宝塚(川崎賢子)

【 書 名 】宝塚 ―消費社会のスペクタクル―
【 著 者 】川崎賢子
【出 版 社】講談社選書メチエ
【発 行 年】1999年1月10日
【 価 格 】本体1600円+税
【 ISBN 】4-06-258147-7
【KeyWords】消費社会、演劇、スペクタクル、ジェンダー

【 内 容 】(目次)

 プロローグ 〈宝塚〉で読む二〇世紀

 第一章 宝塚歌劇誕生――博覧会の時代
  1 良家の子女が舞台に立った日
  2 児童博覧会から宝塚歌劇へ――博覧会のまなざしと少年少女

 第二章 「清く、正しく、美しく」の成立
  1 〈欲望〉のネットワーク――鉄道から電力事業まで
  2 速度の体験、透明な境界、電気の魔力――感性の再編

 第三章 モダニズムとノスタルジア
  1 エロ・グロ・ナンセンス――レヴューの時代
  2 ノスタルジアという神話

 第四章 女を演じる女・男を演じる女――ジェンダーの物語
  1 男役が生まれるまで
  2 性の境界を越える男役

 第五章 変容する物語――宝塚の戦後
  1 昭和のフランス革命――『ベルサイユのばら』の成功
  2 女たちの物語――『エリザベート』以後

 エピローグ 宝塚というメディアの魅力

(関連年表付き)

【コメント】
 「宝塚」についての論評は、これまでほとんどが個々の作品や作家・演出家についての批評、または団員についてのものであったという。「宝塚」を歴史的・社会的に位置づけるという作業はほとんどなされてこなかった。本書はこの課題に取り組もうとする草分け的存在である。
 宝塚歌劇団は、よく知られているとおり、未婚の女性のみによって舞台が構成されている。本書の課題の一つは、明治末から大正にかけての、まだ「女優」という存在が社会的に低く評価されていた時期に、「男優」と対をなさないかたちで年若い少女たちが舞台を演じることが、どのような困難に直面していたのか、そしてそれをどのように乗り越え、新しい(というか他に類例を見ないような)分野を「宝塚」が切り開いてきたかを示すことである。
 近代日本社会において、「女優」はしばしば、公の目の前にその身体をさらすということによって、性的逸脱者としてのレッテルを甘受しなければならなかった。「女優」は常に性に関わるスキャンダルととなりあわせであった――今もなお――と言えるかも知れない。「宝塚」はこれに対して、意識的に観客を「女性、子ども」として選択し、「清く、正しく、美しく」というスローガンをかかげて演技者の「少女」のイメージと結びつけ、「学校」というシステムを採用してアマチュアリズムの導入と世俗からの切断を行なうことによって、「女優」にまとわりつく「性」のイメージを切り捨ててみせたのである。――しかも同時に、新しい形の〈欲望〉をも提示した。
 その〈欲望〉とは、当時東京や大阪などの大都市周辺に形成されつつあった「郊外」に住まう、新中間層が求めたものであった。小林一三という稀代のマーケット・プランナーの存在が、それを可能にしたのかも知れない。
 さらに「宝塚」は、「男役」という存在をも発明した。男役は、女性が演じる男性である。しかし、男役は単なる男優の代用品ではない。男役には男役の固有の存在条件がある。そしてそれは、「宝塚」の舞台の上でのみ表現可能なものである。娘役との微妙な相対的位置関係において表現される男役の存在条件は、まさに「パフォーマンスとしてのジェンダー」そのものである。「宝塚」はその舞台の上で、新しいジェンダーの分割線を引きなおしてみせるのだ。
 男役にあこがれる女性たちの〈欲望〉は、単純なホモ/ヘテロのセクシュアリティの分割線では把握しきれないものがある、と著者は語る。複数のコードとその転倒という複雑なゲームが、「宝塚」をめぐって展開されているのだ。
 「宝塚」の魅力の一つは、常に変わり続けていることにあるのかも知れない。70年代半ばには、『ベルサイユのばら』(1974)で女性を主役の位置に持ってくると同時に、男役の魅力が一枚岩では語れないことを提示しても見せた。オスカルは女性であるが、もちろん男役によって演じられる。女である男役の団員が、女でありながら男装するオスカルを演じ、しかもそのオスカルは他の男役によって演じられるフェルゼンやアンドレたちとの恋愛模様の中におかれているのだ。娘役との差異によって示される男役の魅力はここで試練にさらされる。しかし、これを見事に「宝塚」は切り抜けてしまうのだ。おそらくそれこそが「宝塚」の底力(具体的には団員の層の厚さ)なのであろう。
 さらに、90年代には『エリザベート』(1996)という、宝塚史上はじめてタイトルロールを娘役に委ねた作品が上演される。ヒロインはすでに、受け身ではない。主役を担う娘役たちがファンの心情に深く訴えかける時代が来ることを示唆して、本書の議論はひとまず閉じられている。もちろんそれは、「宝塚」がここで終わってしまうことを意味するものでは決してない。

投稿者 june : 16:57

1998年09月25日

ファンタジーの冒険(小谷真理)

【 書 名 】ファンタジーの冒険
【 著 者 】小谷真理
【出 版 社】筑摩書房(ちくま新書)
【発 行 年】1998年9月20日
【 価 格 】660円+税
【 ISBN 】4-480-05774-9
【KeyWords】想像力 ユートピア 対抗文化

【 内 容 】

 序 章 ファンタジーへの誘い
 第一章 妖精戦争
 第二章 パルプとインクの物語
 第三章 ファンタジーのニューウェーブ
 第四章 魔女と女神とファンタジー
 第五章 ハイテク革命とファンタジー
 第六章 J・ファンタジーの現在形

 あとがき
 参考文献

【コメント】

 ファンタジーというジャンルのイメージと、その歴史をわかりやすく提示してくれる概説書。小谷の文章というと難解という印象を持たれる読者も多いだろうが、内容もあってかこの本ではそれほどでもない。ただ、随所にある筆者の「こだわり」のようなものと波長が合わない人は、抵抗感を覚えるかも知れない。(大したものではないだろうが。)
 さて、ここでは第四章に焦点を合わせてみたい。小谷はここで、現代ファンタジーの流れの中に、主に女性の書き手による「魔女を女神に置き換える」プロセスと「魔女/女神の対比を超える」方向性を読みとろうとする。
 前者は、これまで女性性が「魔性」としてとらえられてきた(現代のガールズ・ジャパニメーションでも、悪役は女性性を発露させた「大人の女」であることが多い)、その価値を転倒させていこうとするプロセスである。おそらくこれは、初期ラディカル・フェミニズムやカルチュラル・フェミニズムの女性性の称揚や、神秘主義のリバイバルの中での原‐ヨーロッパ的なもの――ケルト文化の女神信仰の復興などの動きとシンクロしているところがあるに違いない。
 後者は、単なる神秘主義の復興や懐古主義に留まらない、新しい主体性やアイデンティティのありようを模索する方向でもあるだろう。小谷は第四章ではサイバーパンクを引き合いに出しているが、第五章のクィア・ファンタジー(もちろんクィアの場合には担い手は女性だけではない)、第六章の大原まり子の『吸血鬼エフェメラ』などに流れを接続することも、もちろんできるはずである。
 ただ、『女性状無意識』と同様に、紙幅の関係もあってか「食い足りない」印象が読後について回るのは否めない。ぜひ、ジェンダーをテーマとして一冊の長さでまとめてほしいところである。

投稿者 june : 17:33

1998年09月23日

紅一点論(斎藤美奈子)

【 書 名 】紅一点論
【 著 者 】斎藤美奈子
【出 版 社】ビレッジセンター出版局
【発 行 年】1998年7月18日
【 価 格 】1700円+税
【 ISBN 】4-89436-113-2
【KeyWords】ポピュラー文化 子ども文化 メディア

【 内 容 】

 はじめに――世界は「たくさんの男性と少しの女性」でできている

 紅一点の国
  第一章 アニメの国
  第二章 魔法少女と紅の戦士
  第三章 伝記の国
  第四章 紅一点の元祖ジャンヌ・ダルク

 紅の勇者
  第一章 少女戦士への道――『リボンの騎士』『ハニー』『セーラームーン』
  第二章 組織の力学――『ヤマト』『ガンダム』『エヴァンゲリオン』
  第三章 救国の少女――『コナン』『ナウシカ』『もののけ姫』
  第四章 紅の勇者の三〇年

 紅の偉人
  第一章 天使の虚偽――フローレンス・ナイチンゲール
  第二章 科学者の恋――マリー・スクロドフスカ・キュリー
  第三章 異能の人――ヘレン・ケラー
  第四章 紅の偉人の五〇年

 あとがき――「萬緑叢中紅一点」を超えて

【コメント】

 議会や企業経営者など、この社会の上層部はすべからく「たくさんの男性と少しの女性」で構成されていて、しかもそれをわたしたちは、誰に教わるともなく、テレビアニメや伝記を読んでいて自分で知るのだ、と「はじめに」の部分で書かれています。『ウルトラセブン』のウルトラ警備隊なら友里アンヌ、『宇宙戦艦ヤマト』なら森雪、女の子が座れる椅子は一つしかない――それが「紅一点現象」なのだと。
 紅一点現象とは、一つには「数」の問題であるけれど、でも「質」の問題でもあります。なぜなら、彼女は「ひとりだけ特別に選ばれた女性」で、しかも、彼女の仕事・役目はごく限られたものだったから。闘いで傷ついた男の子をケアしたり、通信係=電話番をしたり、はたまた非公式には「お色気担当」であったり。ただしこれは、「男の子の国」の物語の話だけれど。(日本ではアニメーションもマンガも、「男の子向け」「女の子向け」に高度にジェンダー化されており、特に銘打っていない場合には暗黙裡に「男の子向け」である場合が多い。)
 じゃあ、「女の子の国」では?というと、「恋愛立国」である「女の子の国」でのヒロインは、常に「魔法少女」。「男の子の国」がわけがわからなくともいちおう「科学」で動いているとするなら、こっちはそもそもリクツがつかない「魔法」が作動原理なのだ。(そしてその「魔法」のうちでも最大にワケがわからんのが「愛」とかいうものである。)
 斎藤図式によれば、「魔法少女」は「父親から見た理想の娘」で、「男の子の国」の紅一点ヒロインである「紅の戦士」は「上司から見た理想のOL」であるという‥‥いささかミもフタもないが。しかし、幼い頃から繰り返しこのパターンで攻められたら、どんなふうに女の子も男の子も感じるだろう。
 ただ、『美少女戦士セーラームーン』にしても『新世紀エヴァンゲリオン』『機動戦艦ナデシコ』にしても、1990年代、特に後半以降の作品では、明らかに従来の枠組みは崩れつつある。『セーラームーン』各シリーズは、「女の子の国」の作動原理をそのままに、「男の子の国」のチーム性などの要素を付加したハイブリッドな構造を持つし、『エヴァ』にせよ『ナデシコ』にせよ、「男の子の国」のお話なのに、女性が指揮する女性主体の実戦部隊を有するという意味ではすでに「紅一点」を脱している。ただしそのとたんに、『ナデシコ』はナンセンスの方向へ走り出すし、『エヴァ』ではそもそも「物語」自体が崩壊してしまったけれど。これはある意味で、従来のアニメーションの構成原理の危機を意味しているのかも知れない。
 『紅一点論』がユニークなのは、アニメだけでなく「伝記もの」を視野に含んでいるところだ。伝記の世界でも、出てくる「偉人」はたいてい男、女性は、紫式部とかマリー・キュリー、ヘレン・ケラーなどごく少数。しかも、取り扱われかたにたいへんな偏りがあるという。これが第3部の「紅の偉人」の主題になる。「科学が好きな女の子に育てたい」とか思ってマリー・キュリーの伝記を子どもに買って読ませても、マリー・スクロドフスカとピエール・キュリーのラブ・ロマンスを中心に読まされることになるかも知れないのだ。
 ところで、最近ようやくアニメを見始めたわたしとしては、いくつか引っかかることが。斎藤の前著「紅の戦士」(『ハイパーヴォイス』、ジャストシステム、に収録)に関しては「ハチャメチャな女の子二人組が活躍する『ダーティペア』は?」という疑問を持ったものだが、今回は、「男の子向けアニメなのに魔法少女が活躍し、しかもその行動原理は食欲と物欲(笑)という『スレイヤーズ』シリーズは?」という疑問を持った。もちろん斎藤図式で説明不能ではないのだが(『セーラームーン』と同様、ハイブリッドな構造を持つと言える)、あれだけヒットした作品に言及がなされていないのがいささか気になるところではある。

投稿者 june : 17:02

1995年12月29日

現代批評のプラクティス・3 フェミニズム(富山太佳夫)

【 書 名 】現代批評のプラクティス・3 フェミニズム
【 編 者 】富山太佳夫
【出 版 社】研究社出版
【発 行 年】1995年12月20日
【 価 格 】2800円
【 ISBN 】4-327-15213-7
【KeyWords】文芸批評、芸術、ポスト構造主義

【 内 容 】

 ヴィジョンを求めて――序にかえて

 フェミニズム批評の混沌                   富山太佳夫

 小間使い/娘の位置からの物語
  ――フロイト、フォークナー、ホークスのフェミニン・スペース――
                               有満麻美子

 ブルームズベリー・グループなんか恐くない          高井 宏子

 白のパトロジー                       富島 美子

 視覚表現におけるフェミニズムの諸実践            西山千恵子

 哲学なき社会批判 ――フェミニズムとポストモダニズムの遭遇 
               N・フレイザー/L・ニコルソン(椎名美智訳)

 (ビ)カミング・アウト ――レズビアンであることとその戦略 
                     シェイン・フェラン(上野直子訳)

【コメント】
 巻頭言から引用しておきます。「今私たちが迫られているのは、二〇世紀の初めに形成されたものにすぎない英文学という神話を根本的に再検討するという作業である。(‥‥)そもそもいかなる意味において文学は文学なのか。私たちはいかなる土地の、いかなる人種の、いかなる階級の、いかなるジェンダーとセクシュアリティの〈主体〉として文学の研究に関与してゆくのか。」
 年の瀬に出版されたにしては(って、関係ないですが)、大胆な宣言をしています。
 ‥‥ということで、あわててのレビューなんで、まだよく読み込んでいません。でも、これは絶対「買い」の本だと思います。読んでみる価値はあります。特に、もともとはSignsに掲載されたフェランの "(Be)Coming Out" と、巻頭の富山太佳夫さんの解説を読むだけで、元は取れるように思います。

投稿者 june : 00:31

1995年07月31日

男は世界を救えるか(井上章一・森岡正博)

【 書 名 】男は世界を救えるか
【 著 者 】井上章一・森岡正博
【出 版 社】筑摩書房
【発 行 年】1995年7月20日
【 価 格 】1700円
【 ISBN 】4-480-85706-0
【KeyWords】エコロジカル・フェミニズム、男性、売春、生命科学

【 内 容 】(目次)

 序   男は世界を救えるか
 第1章 売春と臓器移植における交換と贈与
 第2章 不倫社会の神話と構造
 第3章 鎮魂の系譜学
 第4章 自然なエコロジー/不自然なエコロジー
 第5章 ロリコン・エコロジカル=フェミニズム
 第6章 禁煙運動における愛と権力

 あとがき

 解説
  巌流島の決闘 (山折哲雄)
  オス=フェミくんは世界を救えるか (村瀬ひろみ)

【コメント】

 わたしはこの本を、冷房のよく効いた情報処理室(うちの学部では事務室以外にはここだけに冷房がある。ということで、入り浸ってます、はい)でケタケタ笑いながら読んでいました。
 ただし、残念ながら、この本の中での井上氏は、あまりにもパターン化された「アンチ・フェミニズム論客」になってしまっていておもしろくない。これならいくらでも悪口言えるぞ。(笑)森岡さんが「序」の途中で、「フェミとアンチ・フェミの代理戦争もアホらしいけど‥‥」と言っていますが、なんかそんな感じもします。
 面白いのは、その「アンチ・フェミ」の井上氏(まあ、この本で彼が選択した立場としてそう言わせておいてもらいます)と「オス=フェミ代表」の森岡氏のなごやかながら緊張感漂う対談を、外側から冷ややかに見つめる「解説」(村瀬さんの方)がついているという、本自体の構造。
 でもねー、「ロリコン」や「フェティシズム」が生身の女ではなくて、それを指し示すもの=シニフィアンであり、エクラン(「遮蔽幕」、精神分析系統の用語、なのかな?)だというのはよいけれど、じゃあ、「生身の女」というのはどこにあるのさ?という疑問が出てくるのは避けられないところ。もちろん、解説者としては「生身の女の身体の復権」などという「ど単純」なことをいいたいわけではないだろう。読み手としてはその場のフンイキに流されて勘違いしないように努めなければならない。
 ちなみに、第5章では、ナウシカとセーラームーンが一緒に論じられています。森岡氏はあまり両者に差を認めていないようです。

投稿者 june : 23:47

1995年03月02日

レズビアン小説と優生学(富山太佳夫)

【 書 名 】『ダーウィンの世紀末』、に所収
【 著 者 】富山太佳夫
【出 版 社】青土社
【発 行 年】1995年1月20日
【 価 格 】2600円
【 ISBN 】4-7917-5354-2
【KeyWords】イギリス文学、セクシャリティ、レズビアン、優生学

【 内 容 】
【コメント】

 『現代思想』1989年9月号に掲載された論文の単行本収録です。(『現代思想』のこの号には、ハラウェイの「サイボーグ宣言」の訳も掲載されています。特集名は「セックスの政治学:男のフェミニズム」。)
 猥褻文書禁止法に抵触して発禁になったラドクリフ・ホール(1880-1943)の『孤独の井戸』(1928年)というレズビアン小説についての評論です。短い論文なので内容を紹介すると読まなくてすんじゃって営業妨害になるのでこれ以上は書きませんが、1920年代に流行した優生学思想と『孤独の井戸』批判との結び付きを指摘している点が注目されるべきでしょう。
 『ダーウィンの世紀末』はフェミニズムと直接関係があるわけではないのですが、富山氏の「過激な」筆致がよく見えてくる本です。序文とあとがきは最低立ち読みする価値が十分あります。

投稿者 june : 00:32

1994年06月25日

ポリローグ(ジュリア・クリステヴァ)

【 書 名 】ポリローグ
【 著 者 】ジュリア・クリステヴァ  足立・沢崎・西川ほか訳
【出 版 社】白水社
【発 行 年】1986年
【 価 格 】3800円
【KeyWords】フランス思想、文芸批評、ポスト構造主義、精神分析

【 内 容 】(目次)

 ニヒリズムの彼方へ 〜日本語版への序文
 緒言

 1 文学の政治性
 2 過程にある主体
 3 ひとつの自己同一性から別の自己同一性
 4 ポリローグ
 5 物質、意味、弁証法
 6 述語機能と語る主体
 7 言語学の倫理
 8 リズム的制約と詩的言語
 9 場所の名
(Julia Kristeva, Polylogue, Paris, Editions du Seuil, 1977. の抄訳)


【コメント】

 本書の表題にもなっている「ポリローグ」という語(これは例によってクリステヴァの造語であって、もちろん辞書を引いてもでていない)の概念の簡単なまとめをしてみたい。

 日本語に「二重人格」という言葉がある。この言葉には、なんとはなしに何やら悪い意味がこめられているような気がする。しかし、実際わたしたちの人格は二重どころか、四重・五重にもなっているのではないだろうか。クリステヴァをフランス語で読んでいる時の〈わたし〉と『めぞん一刻』をめくっている時の〈わたし〉、デートしている時の〈わたし〉と下宿で寝っころがって一人でテレビをみている時の〈わたし〉、月曜2限の「ミクロ経済学」の講義を聴いている時の〈わたし〉と3限に「社会思想史総論」に出ている時の〈わたし〉‥‥これらの〈わたし〉はあきらかに異なる、複数の〈わたし〉である。
 クリステヴァが本書でおこなっていることは、この主体の多ロゴス(ポリ‐ローグ)性を見つめること、主体を単一なロゴスとしてではなく、もろもろの論理・ことば・存在のモザイクである存在としてとらえること、である。「語る主体」は単一の象徴秩序ではない。主体を単一なるものへ解消することは抑圧であり、他者を排除するパラノイア的な固定なのである。
 ポリローグはどこで産み落とされるのか? クリステヴァによれば、それは「ル・セミオティック(原記号態:ことばのリズム、イントネーション)とル・サンボリック(記号象徴態:言語において記号・意味のレベルにあるもの)の衝突するところ」でである。たとえばそれはフィリップ・ソレルスの、句読点のまったくない『H(アッシュ)』という小説の中で、あるいは詩的言語の中で。詩的言語こそは、近代的主体、単一の象徴秩序を、破砕し、粉々にし、爆発させ、ポリローグへと再構成するものなのである。
 クリステヴァにとってこのポリローグはまた、ひとつの賭でもある。
 「『ポリローグ』はひとつの賭である。(‥‥)特異な言行為のただ中に、そこにみずからを措定する、肯定的な、単一の主体、すべての人がもつ模倣し得ないもの、取り込まれ得ないものに呼びかける単一の主体が目覚めることは可能なのだ、という賭である。
 『一なる復活』に賭けるのではない。諸々の言語活動(‥‥)における死(‥‥)の、その度ごとに特有なさまざまな止揚に賭けるのである。」(本書、pp.12-13)
 これは危険な賭ではある。特に、彼女が、セミオティック/サンボリックの理論装置を、無限定に社会へ適用するときに、その危険性は最大化する。
 しかし、わたしはあえてこの賭にのろう。抑圧する〈一なるもの〉から自らを解放するために。閉ざされている自己を「開く」ために。そしてなによりも、西洋的な「一者」の論理と日本的な「甘え」の論理のいまだ交錯している現代日本社会の中で、両者の崩壊を乗り越えていくために。

(コメントは1987/12/17当時のもの)

投稿者 june : 17:06

1994年04月30日

女性状無意識(小谷真理)

【 書 名 】女性状無意識 テクノガイネーシス ---- 女性SF論序説
【 著 者 】小谷真理
【出 版 社】勁草書房
【発 行 年】1994年
【 価 格 】2987円
【KeyWords】文学、サイバーパンク、セクシャリティ

【 内 容 】(目次)
 Introduction : 女性SF論序説

 I セクシュアリティ
  Chapter 1. 母と娘:母娘の肖像
      (タニス・リー『銀色の恋人』)
  Chapter 2. 出産(リプロダクション):接続された出産
      (ティプトリー Jr.「接続された女」)
  Chapter 3. 女性性器:ヴァギナ状エイリアンの詩学
      (コニー・ウィリス「わが愛しき娘たちよ」)

 II 他者たち
  Chapter 4. サルSF、あるいは霊長類的フェミニズム:アイちゃん・イン・
       ザ・スカイ
      (ターザン、バロウズの火星シリーズ、『猿の惑星』、ほか)
  Chapter 5. 両性具有:父権制下の両性具有
      (アーシュラ・ル・グィン『闇の左手』)
  Chapter 6. ブラック・フェミニズム:ラップ・アポクリファ
      (オクテイヴィア・バトラー『夜明け』ほか)

 III 女性的なもの(ガイネーシス)
  Chapter 7. エコ・フェミニズムSF:言語世界のゴーレム
      (マージ・ピアシイ『彼と彼女とゴーレムと』)
  Chapter 8. ベジタリアン・フェミニズムSF:バナナミートの懺悔
      (スージー・マッキー・チャーナス「オッパイ女」、ほか)
  Chapter 9. ガイネーシス:テクノガイネーシス
      (『スタートレック』のパロディ小説、ストーム・コンスタンティ
       ン『ヘルメテック』)

 Epilogue

 ()内は、とりあげられているSF作品名。

【コメント】
 読んでない作品が多く(邦訳がないものもある)、内容がうまくつかめないところも多かったけれど、刺激的な評論であることは確かです。ただ、どの章も、枚数不足という感を禁じえません。第3章なども、刺激的な作品をとりあげてはいるけれど、作品解説で終わっているようなところもあります。「そこから先が知りたいのよ」というところで終わっている‥‥とおっしゃったのは、さて、誰だったかな?

投稿者 june : 15:58