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2005年05月01日

科学者キュリー(S・ドライ)

【 書 名 】科学者キュリー
【 著 者 】セアラ・ドライ、増田珠子訳
【出 版 社】青土社
【発 行 年】2005年5月10日
【 価 格 】2200円+税
【 ISBN 】4791761812
【KeyWords】科学研究 伝記

【 内 容 】(目次)

1 少女時代 1867−1891
2 パリ 1891−1897
3 ラジウム発見 1897−1902
4 放射能の理論化 1902−1906
5 死と実験室の生活 1906−1911
6 スキャンダル 1911−1914
7 戦争 1914−1918
8 晩年 1919−1934

イレーヌ・ジョリオ=キュリー 1897−1956

訳者あとがき
読書案内
原注
年表
索引

【コメント】

 マーニャ・スクウォドフスカからマリー・キュリーに。そして、そのまま変わることはなく。
 ポーランドに生まれた少女は、女性に認められた15歳までの教育課程を修了した後、姉の学資を自分の家庭教師の給料でまかないながら、姉の学業が終わった後は自分もパリで学ぶことを夢見た。当時のポーランドはロシア領となっており、国を占領したロシア軍の目を盗みながら、「移動大学」と呼ばれる非公式の学びの場で、ポーランド語やそのほかのさまざまなことを学ぶしかなかった。
 結局マーニャ・スクウォドフスカがパリに到着したのは24歳の時(1891年)。彼女は、自分を「マリー・スクウォドフスカ」という新しい名前で大学に登録した。「マリー」はソルボンヌで学業に没頭したおかげで、その2年後の93年には物理学のリサンス(修士号に相当する)を主席で手にすることとなる。
 祖国を愛する彼女は、ポーランドへ戻って教職につこうと考えていたが、ピエール・キュリーの求婚が彼女をフランスに引きとどめた。もちろん彼女がピエールとともにありたいと望んだことは疑いもないが、フランスにとどまったからこそ研究を続けることが可能だったのもまた事実であろう。フランスにも女性が給料をもらいながら研究を続けられる職は当時存在しなかったが、ピエールが――しぶしぶながら――教授職についたおかげで、すぐに3人に増えた家族(イレーヌの誕生は1897年)が食べていくには困らなかったし、彼の職場の上司の計らいで、劣悪ながらも研究をおこなう場所も確保できた。そしてなにより、ピエールと彼の兄の発明品(水晶板ピエゾ電気計)を彼女の研究に不可欠の資材として使うことができた。科学者マリー・キュリーとしての彼女の活躍がこうして始まる。
 確認しておかなければならないが、ラジウムの発見につながる一連の研究は、ベクレルによる放射線の発見にヒントを得たマリー・キュリーの着想によるものである。ピエールは途中から彼女の実験に興味を覚えて、首を突っ込むことになったのだ。その逆ではない。
 1898年のラジウムの発見は、放射能は物質の原子の性質である、ということを見抜いた彼女の直感のたまものであるといってよい。キュリーはそののち、ラジウムの単離に力を尽くすことになり、その単調な作業に忍耐強く取り組む彼女のイメージばかりが世間に流布されることになるが、キュリーは努力の人である以上に洞察力の人でもあった。
 だが、それだけではない。ラジウムはウラン採掘後に廃棄されていたピッチブレンドの中から取り出さるのだが、その中にほんの微量しか含まれていない。何トンというピッチブレンドを確保し、産地からフランスへ輸送し、そこからラジウムを精製する一連のプロセスは単なる個人的努力では片づかない。お金もかかる。企業と交渉し、援助を取り付けた彼女は、たぐいまれな交渉力も身につけていたのだ。
 そのほか、子どもたちの教育、そして夫の死後のことであるが、年下の男性との恋愛。そういったことにも彼女は(ときには静かなものであったが)情熱を注いだ。
 第一次世界大戦の時には、X線を治療に活用するために奔走した。裕福な女性を訪問し、彼女たちが所有するリムジンを放射線車として寄贈してくれるように頼み込んだりした。車の運転も習って、いざというときには自分で車のメンテナンスもできるようにとメカの知識も習得し、ルノーを1台確保した。長女イレーヌも学業の傍ら放射線医療に従事した。そういった、科学の社会的貢献についてのさまざまな着想と実践をなした、アイディアと実行力の人でもあったわけだ。
 女性であることが彼女にとって不利だったこともある。
 1回目のノーベル賞受賞の時には、スウェーデン・アカデミーの会長は「団結は力なり」ということばで夫妻を称えたという。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう。」というキリスト教の文句を引いてだ。つまりここでいわれている「団結」とは、あくまでも「妻が夫の事業を支える」という限りのものであるのだ。世間もそう見た。真実とは異なるにもかかわらず。
 1904年にはソルボンヌにピエールのための教授ポストが作られたが、マリーのポストは彼の助手であった。ピエールの生前は彼女は教授職にはつけなかったのである。ストックホルムのノーベル賞受賞記念講演会もピエールが行った。いや、そもそもノーベル賞は彼だけに与えられようとしていたのだ。ピエールがていねいに、自分だけでなくマリーにも賞をくれ、と返事をしたためにそれだけはまぬがれたのだが。
 恋愛スキャンダル(ちょうど2度目のノーベル賞を受賞した時と重なる)の時には、パリのジャーナリズムはこぞって「あのポーランド女」と彼女を中傷した。女性であるがゆえのスキャンダルであったが、彼女が外国生まれであることもまたフランス人の排外心をあおったのだ。フランス・アカデミーのメンバーに選出されることもなかった。
 しかし、彼女はめげることはなかった。第一次世界大戦時の彼女の貢献から後は、フランスは頭を垂れて彼女を迎え入れることになった。そしてマリーはキュリーであり続けた。ポーランドは彼女の祖国であったが、彼女はフランスにとどまり、フランス人であった夫の名前で仕事を続けたのである。
 世間一般に広まっている、特に子ども向けに書かれたマリー・キュリーの伝記では、マリーの少女時代やピエールとのロマンスに過剰なウェイトが置かれ、あとはせいぜい夫婦の「共同作業」でラジウムが発見され、精製されたことが書かれているぐらいだという指摘がある(斎藤美奈子、『紅一点論』)。しかし実際のところ、キュリーに備わっていたのはもっとさまざまな豊かな才能であり、そして多方面に注がれたエネルギーであったのだ。本書はそれらをバランスよく描こうとしている。

投稿者 june : 2005年05月01日 15:09