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2005年10月09日

サボテン姫とイグアナ王子(清原なつの)

【 書 名 】サボテン姫とイグアナ王子
【 著 者 】清原なつの
【出 版 社】本の雑誌社
【発 行 年】2005年5月25日
【 価 格 】本体1300円+税
【 ISBN 】4860110447
【KeyWords】セクシュアリティ ファンタジー

【 内 容 】

 サボテン姫とイグアナ王子
 五月の森の銀の糸
 さよならにまにあわない
 カッパドキアの秋
 ヴォーカリーズ
 ロストパラダイス文書
 とまとジュースよ永遠に

【コメント】
 「清原なつの忘れ物BOX」の1冊目。単行本未収録の作品を集めたもの。

 表題作「サボテン姫とイグアナ王子」は、体にサボテンのトゲがはえてしまった姫と、呪いでイグアナにかえられてしまった王子(トゲを食べると呪いが解ける)の恋物語。姫の体中にはえたトゲを、「腕→背中→胸→腹→脚」とイグアナ王子が食べていくプロセスは、きわめてセクシュアル。ただし、呪いが解けて王子が元の地位を回復し、二人が結婚してめでたしめでたし、では終わらないところがミソ。

 「ロストパラダイス文書」は、ロー・ファンタジー的な要素を持つ作品だが、やはりセクシュアリティが主題になっている。少し細かく見ていこう。(以下ネタバレを大幅に含む。)

 まずは、大まかなストーリー。
 単位を落としそうになった女子学生が、教授に「何でもします! 奴隷になります!」と泣きつくと(このとき眼鏡をかけた老教授が読んでいるのが「ロストパラダイス文書」という表題がついた資料)、とある村へ伝承採集のフィールドワークに出される。出かける前に彼氏とセックスをしている最中、「ときどき行方不明になるらしいから気をつけろよ」と忠告される。
 そして、村に行く途中、バスから降りて歩いているうちに霧にまかれ、崖から落ちて気を失ってしまう。
 気がつくと、老婆の家に寝かされている。温泉であたたまって、「今日は祭じゃ」という老婆に酒を飲まされ、酔いつぶされる。
 そのまま祭の舞台にあげられた彼女は、禁忌を破って兄・妹で結婚した老夫婦が拾って育てた「ウリコ姫」の役を演じさせられる。劇中では、「アマンジャクがきても絶対戸をあけちゃいけない」と養父母にいわれたにもかかわらず、戸を開けてしまい、アマンジャクたちにさらわれて強姦され、妊娠しなかったので処刑される。
 ここで彼女は「目が覚める」。気がつくと、先ほどと同じように、老婆の家にいる。先ほどまでのことは、崖から落ちて気を失っていた間に見た夢、ということになっているのだろうか。
 温泉に入っていくようすすめられたところで、このあとの展開に気づいた彼女は、「忘れ物をしました!」と家を飛び出して、村を出ようとする。しかし霧にまかれ、迷ったところで男に出会い、車に乗せられ、飲み物を勧められ、酔いつぶされる。
 以下同じ。気がつくと、また……。と、やや変奏をともないながらの繰り返しが数回続く。
 最後に大きく場面が変わって、「それで……帰って来ないんですか?」と女子学生が教授に尋ねている大学のシーンに切り替わる。実は、老教授は送り込んだ女子学生がどういう目にあわされるか知っていた、というオチ。
 さらに場面が変わって、村の情景。送り込まれた学生が子どもを抱いている。彼女は「もう戻れなくていい」と諦めたとたん妊娠して、村の若者と結婚している、ということのよう。

 この物語にはいくつかの「しかけ」がある。説明しやすい順序で取り上げていこう。

(1)くりかえし(ループ)
 ストーリーのところで述べたように、主人公は村とそこで彼女を待っている運命から、どういう選択をしても逃れられない、ということになっている。処刑されるところでいったん意識がとぎれ、ふたたび村に到着するところで目ざめる。

(2)「現実→幻想→現実」という構造
 主人公は、現実(大学→恋人との時間→村)からスタートし、幻想世界(「物語」「民話」の世界)へまぎれこみ、そこから抜け出せなくなる。最初現代風の衣服をまとっていた村人たちが、幻想世界では粗末な野良着を着ていたりする。
 そしてラストでは、彼女の行方不明事件が「物語」として現実(大学)から語られ、かつ彼女自身も妊娠→出産を経て現実(村)の生活へ戻ってくる。

(3)「舞台」「演劇」という装置
 必ずしも西洋の舞台演劇のように、はっきりと様式化されたものではないが、途中彼女は「舞台」に上がり、「ウリコ姫」を演じている。

 (1)のループ、これは主人公のケース1回限りでなく(というのは教授の言動からもわかるが)、過去から繰り返されてきたことだということの強調と、どうやってもこの運命からは逃れられないということの強調なのかもしれない。そしてたぶん、「この世界には同じようなことが満ちあふれている」ことの隠喩なのだといえよう。
 つまり、「ずっと」そして「いたるところで」。
 過去から繰り返されてきた、ということは、たとえば(2)でも書いたとおり、村人の衣装が現代的なものでなくなっていくことからも連想できる。だからこそ教授が読んでいる文書になっているわけだろう。
 (3)の「演劇」や「舞台」という装置も、ループと関わりあるかもしれない。演劇とは役者が代わっても、再び演じることができるものだから。ウリコ姫の位置にどんな女性がきても、アマンジャクを誰が演じても、このことは起こりうることになる。
 それはなにも、強姦やこうした嫁とりが常態であるということを直接的に表現しているということではなく、(現代の)女性のセクシュアリティが置かれている状態を比喩的に表現したものであると言えるのかもしれない。
 もっとも同時に、「劇」として描くことは、これが直接的な「現実」ではないという効果(緩衝作用)を読者に与えるものでもある。つまり、こういう現実がいたるところにあると一方で言いつつも、あまり生々しすぎないように、「これはお話ですけどね」ともう一方でささやいているわけだ。

 この主人公の女性がかなりセクシュアルな存在として描かれていることに注意したい。まず、恋人とのセックスシーンが描かれ、彼女は性体験が豊富だということが示される。そして身にまとっている、ミニスカート、ヒールの高いサンダル、など、身につけているものでも表されている。
 かつ、酒を飲んで酔っぱらってしまったり、言いつけにそむいて戸を開けてしまったり、男の車にのこのこ乗り込んだり、軽率でもあるように描かれている。
 ここからくるメッセージは、「性体験豊富で、露出の高い格好して、さらに軽率だとこんな目にあうよ」というだけではない。そのあとの繰り返しを通して、「どんなことをしてもダメなものはダメなんだよ」ということまであわせて示されているといえるだろう。「強姦神話」(「強姦されるのは、女がセクシーな服を着て、無警戒だったから、つまり女に隙があったから」というような)への異議申し立てだと考えることもできる。
 途中、彼女が戻りたいと願ったのは、大学であり、恋人のところだった。それは知識を得る場であり、自分のセクシュアリティおよび生殖力を自己管理しやすい性関係(少なくとも迷いこんだ村と比較して)だったわけだ。だが、それらをあきらめたとたん、つまり自己決定権や知識を手放したとたん、彼女は無限ループから解放され、最終シーンのような情況へと至るのである。

 つまり、「ずっと」「いたるところで」そして、「どうあっても」、逃れられない運命として、この世界では女性は強姦され続けなければいけないのだ、許されるのは、この運命を受け入れ、妊娠して「母」となることによってのみだ。
 ……と、まるでこう語っているかのような作品である。単行本未収録だったのは、あまりにもインパクトが強すぎるからだろうか。

投稿者 june : 2005年10月09日 15:53