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2008年12月30日

〈性〉と日本語(中村桃子)

【 書 名 】〈性〉と日本語
【 著 者 】中村桃子
【出 版 社】日本放送出版協会
【発 行 年】2007年
【 価 格 】1019円(税込み)
【 ISBN 】4140910968
【KeyWords】メディア、言語、アイデンティティ、セクシュアリティ

【内容】(目次)

 はじめに

 第一部 「わたし」はことばでつくられる
 第1章 ことばとアイデンティティ
 第2章 「翻訳」のことばを読むーー再生産される言語資源

 第二部 日本語に刻まれた<性>
 第3章 セクシュアリティと日本語
 第4章 変わりゆく異性愛のことば
     ーー「スパムメール」「スポーツ新聞」「恋愛小説」

 第三部 創造する言語行為
 第5章 なぜ少女は自分を「ぼく」と呼ぶのか
 第6章 欲望を創造するーー消費社会と<性>

 終章 「日本語=伝統」観の閉塞を超える

 あとがき

【コメント】

■「ことば」という制度と実践

 中村桃子さんの著書は、出たら買う。これはもう、ずっとそうだ。
 最初に読んだ『ことばとフェミニズム』(勁草書房、一九九五年)以来のことである。手堅く、必ず何か新しいことを教えてくれるという安心感がある。最新刊のこの本も、今回編集部より書評依頼があったとき、もちろんすでに手元にあった。NHKブックスということで、たしかに一般向けに書かれてはいるが、どうしてなかなか手強い本である。
 実はこの本よりもやや先に出版された『「女ことば」はつくられる』(ひつじ書房、二〇〇七年七月刊)が、〇七年十一月に山川菊栄賞を受賞している。そこで用いられている「言語イデオロギー」という考えを、翻訳、ジャーナリズムの文体、コミックやゲーム、スパムメール、女の子たちの自称、ファッション雑誌のコピーといった、さまざまな現代語の実践の場に持ち込んだのが本書である。
 さかのぼれば、すでに『ことばとジェンダー』(勁草書房、二〇〇一年)で
「イデオロギーとしての『女ことば』」という考えが打ち出されており、直接に「ことば」をテーマとする一連の著作の中で、着実に議論が深められてきていることがわかる。
 本書では、「言語イデオロギー」が実際の言語行為に与える創造と制限という影響のうち、前者により焦点を当てている。その側面を強調するために用いられるのが、冒頭から頻出する「言語資源」という概念である。
 たとえば、日本語には「わたし」だけでなく、「あたし」「おれ」「ぼく」「わし」などのさまざまな一人称がある。それだけでなく、自分の名前を使って「○○(ちゃん)は〜」などということもできる。これが自称詞における言語資源ということになる。
 子どもたちは、家庭や学校、地域、あるいはメディアなどからこうした資源を獲得してくる。学校や家庭では、子どもたちに対して、男の子には「ぼく」を、女の子には「わたし」を使うように、と自称詞を制限することもある。それは社会でのジェンダー規範にそった用法だ。子どもたちは成長の過程で、さまざまな機会に、このようなジェンダーの二分法に出くわすことになる。そしてある場面ではこの二分法に同調するかもしれないが、別な場面ではそこから逸脱するような自称を用いたりもする。
 もっとも、自分を「ぼく」と呼ぶ女の子も、「ぼく」が社会一般では男性が用いる自称詞であることは理解している。だが彼女たちはそれを承知で、もっともふさわしいと思うことばとして「ぼく」を選び、自己のアイデンティティの表現として用いるのだ。
 だから、女の子たちの「ぼく」という自称は、必ずしも男性化願望ではない。むしろそれは、幼い時代の「○○ちゃん」とおとなの女性の「わたし」との狭間での、創造的な〈少女性〉の表現にほかならない。
 しかしだからこそ、いわゆる「ギャルゲー」で「ぼく・きみ」で話す女性キャラクターに、プレイヤーである男性たちは「萌え」られるのである。彼らは少女たちの「男性性」に惹かれるのではない。「ぼく」という自称詞を用いる女の子を、「未成熟な少女」という性的対象として消費しているのだ。
 女の子の側にとってみれば、「わたし」という自称を避け、おとなの女性であること(つまり異性愛規範に組み込まれること)を拒否することが、別な形での異性愛体制の強化につながってしまうことになる。言語行為の創造的な側面も、決して単独では存在し得ないといえる。
 「ことば」はジェンダーをはじめ、地域性や人種、階層などのさまざまな社会秩序=権力構造とからみあいながら存立している、一つの制度である。それは決して固定的なものではなく、歴史の中で社会・経済の変動にともなって変わりうるものであり、上で述べたような「ずれた」実践の積み重ねで変容するものでもある。
 ただし、そうした「ことば」の実践から生じるゆらぎも、何らかの形で再秩序化されていく面もあるということだ。「声に出して読みたい」ような「正しい日本語」が確固として存在し、そこからの逸脱を「乱れ」として常に気にしがちなわたしたちだが、実は「ことば」の明日を作るのはわたしたち自身の言語実践である。本書は「ことばについて語ることば」、すなわちメタ言説としてそのことに気づかせてくれる。
 支配的な言語イデオロギーを裏打ちするようなものではなく、「ずれた」メタ言説をいかに生み出していけるか。それもまた一つの言語実践であるに違いない。(『図書新聞』、第2859号掲載)

■付記

 1点だけコメント。思わず笑ってしまったのだけど。第4章で紹介されている事例だが、スパムメールの文面には、交際を求めている女性のプロフィールとして「身長:160-164cm」などとと書いてあったりするという。これについて、中村さんは、


身長が四センチも伸び縮みする女性も見てみたい(p.113)

と苦笑せんばかりに書いているが、これは数値データではなく、アンケートなどでよく使われるカテゴリーデータと理解するべきである(「30-34歳」のような)。「恋愛観:その他」も、スパマーはカテゴリーデータとして提示していると思われる。

投稿者 june : 2008年12月30日 15:40