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2010年11月26日

ことばとセクシュアリティ(カメロン&クーリック)

【 書 名 】ことばとセクシュアリティ
【 著 者 】D. カメロン、D. クーリック
【 訳 者 】中村桃子、熊谷滋子、佐藤響子、クレア・マリィ
【出 版 社】三元社
【発 行 年】2009年
【 価 格 】2730円(税込み)
【 ISBN 】4883032523
【KeyWords】言語、セクシュアリティ、メディア

【内容】(目次)

 第1章 つながりを作る
 第2章 セックスを語る、セックスを考える――セクシュアリティの言語的、ディスコース的構築
 第3章 ジェンダーはセックスとどう関係しているのか?言語、異性愛そして異性愛規範
 第4章 アイデンティティとしてのセクシュアリティ――ゲイとレズビアンのことば
 第5章 アイデンティティを超えて――ことばと欲望の関係
 第6章 言語とセクシュアリティ――理論、研究および政治

 解説(中村桃子)

【コメント】

クィア言語研究への道案内

 本書は、Cameron, D and Kulick, D, Language and Sexuality, Cambridge University Press, 2003、の邦訳である。巻末には、訳者の一人である中村桃子によって、本書の内容と本書に対する批判等がまとめられていて、たいへん便利である。手っ取り早く中身について知りたい読者は、こちらを参照していただくのがもっともよい。以下では、巻末のまとめとは少し違った角度から、本書のテーマと視角について紹介してみることにしたい。
 その中村自身にも『ことばとフェミニズム』(勁草書房、一九九五年)、『ことばとジェンダー』(勁草書房、二〇〇一年)といった著作があるが、本書で取り扱われる題材は“セクシュアリティ”である。これは何も違った対象を取り扱っているということではない。セクシュアリティとジェンダーは、日本語で「性」という言葉で示されることがらの、それぞれ別の相といえるからだ。両者は区別しなければならないが、切り離せるものではない。
 本書でも、いくつかの事例を通して、このことが説明されている。たとえば、アメリカのとある大学の学生寮で、その場にいない「すごくゲイのやつ」についてうわさ話をしている男子学生たちは、うわさ話の対象である学生の性的なふるまいについて話をしているのではない(第3章の例(3))。会話の中で取り上げられているのは、むしろ「男性性の欠如」(「足が細くて白い」「女のバレーボール選手のようなショートパンツをはいている」等)なのである。ここでは、「男らしさ」に欠けるというジェンダーへの言及によって、「すごくゲイのやつ」というセクシュアリティについての語りが行われている。そして同時に、うわさ話をしている学生たちは、自分たちがそういった存在とは別ものであること、「男らしさ」を備えた「異性愛」の男性であることをも、お互いに確認している。つまり、わたしたちの社会の異性愛規範は、ジェンダー規範とセットになっているのだ。
 フェミニストの研究、特にラディカル・フェミニズムの視点に立った研究も、ジェンダーとセクシュアリティの結びつきについて強調してきたことは確かである。しかし、本書の著者たちによると、ラディカル・フェミニズムは性的抑圧をジェンダー抑圧の反映であると見なしがちだという(本書一三六頁)。セクシュアリティをジェンダーの問題系に還元せず、その独自性を強調するために、カメロンとクーリックが依拠するのはクィア理論である。
 クィア理論が何であるかを簡単に説明するのは、いささか困難である。というか、そもそも指し示すべき単一の「理論」が存在しない。クィア理論とは、必ずしも求心性があるとはいえない諸理論の複合体なのである。だがあえていうならば、「異性愛規範の批判的検討」(本書二七九頁)という点では一致していると思われる。
 したがってクィア理論は、必ずしも「クィアな存在」、つまり同性愛者や両性愛者、トランスセクシュアルなどだけを対象とするわけではない。ゲイ男性やレズビアンの経験も、異性愛の文化や制度と無関係には理解することができないからだ。本書でもカメロンとクーリックは、セクシュアル・マイノリティの言語表現について取り上げるだけではなく、異性愛者たちの語りやアイデンティティ形成にも関心をよせる。先ほどの男子学生たちの会話分析もそうだ。彼らは「すごくゲイのやつ」について語ることによって、自らが異性愛者であることを確認している。異性愛であることとは、「同性に関心がないこと」によって定義されるものなのだ。
 こうした「異性愛であるか否か」という性的アイデンティティに関する確認は、常に行われる必要があり、現に行われている。異性への性的な関心の表明や異性の関心の獲得は、特に思春期には、個人の「社会的価値」と結びつけて評価されもする(本書第3章の例(4))。それゆえ時に過剰なものともなりがちである。すでに非異性愛者であるかもしれないとうすうす自覚している者にとっては、繰り返される確認の「儀礼」は、限りなく苦痛なものともなる。
 個人の性的アイデンティティとは、常に「問いに付されている」――プロセスとして存在するものだということだ。ジュディス・バトラーは「ジェンダーはパフォーマンスである」と述べたが、セクシュアリティも、さまざまな実践――本書で描かれているように、特に言語実践――を通してパフォーマティブに構成されているものといえる。これまでの研究では、ともすると「ゲイである」という性的アイデンティティが先にあって、「ゲイ・アイデンティティ」を持つものの語りとして「ゲイことば」があると考えられてきたが、むしろ逆に、具体的な言語実践を通して、特定の性的アイデンティティが文脈に応じて構成される、と考えなければならないだろう。
 このように、既存の「言語とセクシュアリティ研究」への批判と、それにかわる視角を提示している本書は、言語のクィア研究への道しるべとして重要な位置を占めているといえる。日本でも二〇〇七年一〇月にクィア学会が設立されたばかりである(訳者の一人であるクレア・マリィは設立大会での基調講演者であった)。研究の本格化が予感される時期の、タイムリーな出版であったといえよう。広く関心を集めてほしい一冊である。

投稿者 june : 2010年11月26日 19:25