【内容】(目次)
はじめに
第一部 「わたし」はことばでつくられる
第1章 ことばとアイデンティティ
第2章 「翻訳」のことばを読むーー再生産される言語資源
第二部 日本語に刻まれた<性>
第3章 セクシュアリティと日本語
第4章 変わりゆく異性愛のことば
ーー「スパムメール」「スポーツ新聞」「恋愛小説」
第三部 創造する言語行為
第5章 なぜ少女は自分を「ぼく」と呼ぶのか
第6章 欲望を創造するーー消費社会と<性>
終章 「日本語=伝統」観の閉塞を超える
あとがき
【コメント】
■「ことば」という制度と実践
中村桃子さんの著書は、出たら買う。これはもう、ずっとそうだ。
最初に読んだ『ことばとフェミニズム』(勁草書房、一九九五年)以来のことである。手堅く、必ず何か新しいことを教えてくれるという安心感がある。最新刊のこの本も、今回編集部より書評依頼があったとき、もちろんすでに手元にあった。NHKブックスということで、たしかに一般向けに書かれてはいるが、どうしてなかなか手強い本である。
実はこの本よりもやや先に出版された『「女ことば」はつくられる』(ひつじ書房、二〇〇七年七月刊)が、〇七年十一月に山川菊栄賞を受賞している。そこで用いられている「言語イデオロギー」という考えを、翻訳、ジャーナリズムの文体、コミックやゲーム、スパムメール、女の子たちの自称、ファッション雑誌のコピーといった、さまざまな現代語の実践の場に持ち込んだのが本書である。
さかのぼれば、すでに『ことばとジェンダー』(勁草書房、二〇〇一年)で
「イデオロギーとしての『女ことば』」という考えが打ち出されており、直接に「ことば」をテーマとする一連の著作の中で、着実に議論が深められてきていることがわかる。
本書では、「言語イデオロギー」が実際の言語行為に与える創造と制限という影響のうち、前者により焦点を当てている。その側面を強調するために用いられるのが、冒頭から頻出する「言語資源」という概念である。
たとえば、日本語には「わたし」だけでなく、「あたし」「おれ」「ぼく」「わし」などのさまざまな一人称がある。それだけでなく、自分の名前を使って「○○(ちゃん)は〜」などということもできる。これが自称詞における言語資源ということになる。
子どもたちは、家庭や学校、地域、あるいはメディアなどからこうした資源を獲得してくる。学校や家庭では、子どもたちに対して、男の子には「ぼく」を、女の子には「わたし」を使うように、と自称詞を制限することもある。それは社会でのジェンダー規範にそった用法だ。子どもたちは成長の過程で、さまざまな機会に、このようなジェンダーの二分法に出くわすことになる。そしてある場面ではこの二分法に同調するかもしれないが、別な場面ではそこから逸脱するような自称を用いたりもする。
もっとも、自分を「ぼく」と呼ぶ女の子も、「ぼく」が社会一般では男性が用いる自称詞であることは理解している。だが彼女たちはそれを承知で、もっともふさわしいと思うことばとして「ぼく」を選び、自己のアイデンティティの表現として用いるのだ。
だから、女の子たちの「ぼく」という自称は、必ずしも男性化願望ではない。むしろそれは、幼い時代の「○○ちゃん」とおとなの女性の「わたし」との狭間での、創造的な〈少女性〉の表現にほかならない。
しかしだからこそ、いわゆる「ギャルゲー」で「ぼく・きみ」で話す女性キャラクターに、プレイヤーである男性たちは「萌え」られるのである。彼らは少女たちの「男性性」に惹かれるのではない。「ぼく」という自称詞を用いる女の子を、「未成熟な少女」という性的対象として消費しているのだ。
女の子の側にとってみれば、「わたし」という自称を避け、おとなの女性であること(つまり異性愛規範に組み込まれること)を拒否することが、別な形での異性愛体制の強化につながってしまうことになる。言語行為の創造的な側面も、決して単独では存在し得ないといえる。
「ことば」はジェンダーをはじめ、地域性や人種、階層などのさまざまな社会秩序=権力構造とからみあいながら存立している、一つの制度である。それは決して固定的なものではなく、歴史の中で社会・経済の変動にともなって変わりうるものであり、上で述べたような「ずれた」実践の積み重ねで変容するものでもある。
ただし、そうした「ことば」の実践から生じるゆらぎも、何らかの形で再秩序化されていく面もあるということだ。「声に出して読みたい」ような「正しい日本語」が確固として存在し、そこからの逸脱を「乱れ」として常に気にしがちなわたしたちだが、実は「ことば」の明日を作るのはわたしたち自身の言語実践である。本書は「ことばについて語ることば」、すなわちメタ言説としてそのことに気づかせてくれる。
支配的な言語イデオロギーを裏打ちするようなものではなく、「ずれた」メタ言説をいかに生み出していけるか。それもまた一つの言語実践であるに違いない。(『図書新聞』、第2859号掲載)
■付記
1点だけコメント。思わず笑ってしまったのだけど。第4章で紹介されている事例だが、スパムメールの文面には、交際を求めている女性のプロフィールとして「身長:160-164cm」などとと書いてあったりするという。これについて、中村さんは、
身長が四センチも伸び縮みする女性も見てみたい(p.113)
【 内 容 】(目次)
第1章 “男装の少女”キャラクターの出発点
第2章 「傍流」としての“男装の少女”
第3章 “男装の少女”の成長
第4章 “男装の少女”の反復と再構築
【コメント】
■ジェンダーに敏感でありたいと願う読み手と、そして描き手/書き手のために
戦後日本の少女向けコミックでは、『リボンの騎士』のサファイヤを出発点として、さまざまな〈男装の少女〉が描かれてきた。確かに彼女たちは、既存のジェンダー規範を服装と行動の面で越境しようというキャラクターとして設定されているが、実は限界もある。多くの場合少女たちの〈男装〉は、第二次性徴前や、結婚前つまり異性愛関係に入る以前の一時的なものとされている。また、単独でしか登場しないこともしばしばである(物語中や、作品の集団内に一人しかいない存在として描かれていることが多い)。場合によっては、むしろジェンダー規範を強化するような、戯画的な存在=道化としてしか描かれていないこともある。
こうした長い歴史を持つ〈男装の少女〉という表象の影響力と意味を、顔の造作や眼の描き方、服の色やデザインといった視覚的な表現の分析を取り入れて再評価していることが、本書の大きな特徴である。第一章では『リボンの騎士』、第二章では一九六〇年代に描かれた〈男装の少女〉たち、第三章では『ベルサイユのばら』のオスカル、第四章では『ベルばら』以降の諸作品が取り上げられるが、これまで多かったストーリー中心の解釈だけでは得られない評価が、それぞれの作品について与えられている。キャラクターの空間配置とジェンダー表象の関係についての指摘(右から左へ時間が流れる日本のマンガに独特の「画面右側=能動的/左側=受動的」という図式が、「男性的/女性的」という関係に重ねられていること)などは、近年のマンガ研究の成果を十分に取り入れたものだといえる。雑誌掲載版の参照、単行本化されたものとの異同の確認、インタビューなどのさまざまな資料の活用といった地道な作業の上に、こうした分析が立脚していることも忘れられてはならない。
特に第四章での『ベルサイユのばら』の分析は、ジェンダーに敏感にありたいと望む表現者にとってもきわめて示唆的である。作者の池田理代子は、オスカルに単に軍服を着せるだけのものとして〈男装〉をさせたのではない。『リボンの騎士』では微妙に隠蔽されていた身体性の問題を回避することなく表現するといった、テーマ上の試みもある。さらにそれに加え、男性キャラクターともその他の女性キャラクターとも異なる表現でオスカルを描くという、視覚表現上のさまざまな挑戦があって初めて、〈男装〉という性別越境が既存のジェンダー秩序を相対化する力を持つことができるのだということが、説得的に示されている。男性キャラクターと対するときと他の女性キャラクターと対するときでのオスカルの顔の描き分けや、年齢の経過による顔の造作の変化への着目がそれである。第四章後半で議論されているように、掲載誌『週刊マーガレット』の〈男装の少女〉が登場する同時期の作品と対比すれば、『ベルばら』における〈男装の少女〉の表現技法と、この作品の中で〈男装〉という性別越境に与えられている意味の独自性が、よりはっきりと理解できるだろう。
つまり〈男装の少女〉とは、描きにくいキャラクターなのである。マンガという、ある意味表現上の「お約束」を守ることでなりたっている世界では、特にそうなのだ。既存の表現上のジェンダー・コードにおさまりきらない彼女たちは、描き手にまずそのことで困難をつきつける。安易に描けば惰性化する。性別ごとの服装コードがゆらいでしまった現代社会を舞台とすることがむずかしいという制約の厳しさもある。八〇年代以降の「戦闘美少女」の台頭の中で、服装上は女性的でありつつ、主体的・活動的でもあろうという設定もとみに一般化した。少女マンガではないが北条司の『キャッツ・アイ』の来生三姉妹はレオタードを身にまとうし、武内直子の『美少女戦士セーラームーン』でもミニスカートのセーラー服が戦闘コスチュームだ。そして彼女たちはチームを組んで戦いに出る。
しかしこうした服装コードの変化や表現上の多様化が、決してジェンダー・カテゴリーの消滅やその抑圧性の除去を意味するものではないことも確かである。著者が本書の結論部分で指摘するのは、〈男装の少女〉という表現形態とは、自律的主体としての少女を描くための一つの方法論であったということである。形は変わるかもしれないが、同じ目的での方法論は、新たな環境の中でジェンダーやセクシュアリティにかかわる表現を切り拓こうとする際に、今後も必要になるものであるだろう。読み手が作品を十分理解するためだけでなく、描き手/書き手の新しい方法論探究のための素材としても、あるいは媒介者たる編集者の思考の材料としても、本書の分析は導きの糸となるに違いない。
(初出:『図書新聞』、2822号、2007.5.26)
【 内 容 】(目次)
序章 「少女」と都市新中間層
1 少女研究の課題
2 都市新中間層の女子
3 少女雑誌
I 「少女」の誕生とその変遷
第1章 「少女」の誕生――少女雑誌以前
1 子ども雑誌『穎才新誌』
2 「少年」の意味するもの
3 ジェンダーの変容
4 少年・少女
5 少年少女雑誌の登場
6 メリトクラシーとジェンダー
第2章 「少女」の身体の変遷
1 ヴィジュアル・イメージ
2 母親に守護される少女・勉強とスポーツをする少年
3 幼女ではない少女・勉強とスポーツをする少年
4 スポーツをする少女・軍国少年
5 軍国少女・軍国少年
6 「少女」のヴィジュアル・イメージ
第3章 近代家族と「少女」
1 家族と少女
2 親には絶対服従
3 近代家族的な情愛に裏打ちされた孝
4 孝から近代家族的な情愛へ
5 近代家族的な情愛の下で立身出世する
6 「国家」と忠の選択
7 子どもと「少女」
第4章 「少女」の成功
1 女性の成功とはなにか
2 属性主義の排除
3 成功の条件
4 実現困難という装置
5 スターの排除
6 「成功」の異なる意味合い
II 「少女」の受容
第5章 少女ネットワーク
1 少女ネットワークの形成
2 ネットワークの機能
3 核としての清純主義・芸術主義
4 成員の証としてのペンネーム
5 「少女」バッシング
6 コミュニティの解体
7 清純主義・芸術主義
第6章 エスという親密な関係
1 エスと文字世界
2 『少女の友』における友情小説の流行
3 『少女画報』の「薔薇のたより」
4 エスとはなにか
5 対抗文化としてのエス
6 「薔薇のたより」における裏切り
7 エスと少女ネットワーク
終章 「子ども」のジェンダー
【コメント】
■ジェンダー化される「子ども」――「少女」イメージの形成と変遷
近代家族論がつとに指摘してきたことであるが、近代社会の中で「子ども」という存在は独自の価値を与えられてきた。「子ども」は「おとな」とは区別されるものとして、労働から解き放たれて親の庇護下におかれ、教育を受けるべき存在として、また本来的に「無垢」な存在として位置づけられてきた。
日本で近代家族は、明治末から大正にかけて、都市新中間層の家族として成立してきたというのが、これまでの研究の成果である(いわゆる教育家族)。新中間層において子どもたちは、それまでよりも、また農民や労働者階級の子どもよりも、長い期間学校に囲い込まれ、学歴取得によって将来を確立すべきものとされてきたのである。
本書の著者、今田絵里香氏が疑問を呈するのは、まずこの点についてである。近代家族論は、一方では性別役割分業の近代的再編と、その中への成人男女の組み込みを指摘してはいるものの、「子ども」のジェンダーについてほとんど言及しない。これはどういうことだろうか。学歴取得による社会的達成の回路は、当時明らかに男女で異なっていたのではなかっただろうか。
また、高等女学校という教育制度によって時間が確保され、少女雑誌というメディアを通じて内容が与えられてきた「少女」文化については、これまでも研究が蓄積されてきた。だが著者によれば、これまでの研究では必ずしも「少女」イメージの変遷に注意が払われておらず、「少女」という表象が生み出され、人びとに支持された社会的背景、あるいは「少女」という表象が持っていた社会的機能が十分に説明されていない、という。
つまり本書で問題にされるのは、「少女」というイメージが「少年」と異なるものとしてどのようにして形成され、都市新中間層の女子たちがどのようにそのイメージに自らを同一化していったかということである。さまざまな少女雑誌・少年雑誌の分析によって、今田氏は「少女」イメージの歴史的変遷をたどり、表象の社会的意味を明らかにしていこうとする。巻末に分析対象とされた雑誌のリストがあるが、その量の膨大さには驚かされる。
ビジュアルな表紙絵の検討も目を引くが、小説や投稿欄を丹念に読み込んだ分析も読みごたえがある。これらの分析から明らかになることは、中等教育における男女別学制の確立という制度上の変化が、少女雑誌・少年雑誌という性別カテゴリーに対応したメディアの需要を喚起したこと、またこれらのメディアによって「少女」イメージが読者の間に「少年」とは異なるものとして確立されていくこと、主体と家族との間の規範的関係が言説上で表現され、さらにはそれが時代とともに変化していくこと、などである。投稿欄などでのペンネームの使用や、投稿や手紙等での「テヨダワ言葉」「キミボク言葉」というような独特の文体の使用が、主体形成上の重要な実践であったことも指摘されている。
これまで当然視されてきた「子ども」や「社会的成功」「メリトクラシー」といった概念も、本書の検討を通じて問い直しを要求されることになる。これらの概念はあまりにも男性中心的なものではなかったか。この問題提起を含むという意味で、本書はきわめて質の高いジェンダー研究としての条件を備えている。
またこれまでは、「少女幻想共同体」(本田和子)や「オトメ共同体」(川村邦光)など、読者同士のコミュニティがメディアによって媒介されている面が強調されてきたきらいがあった。しかし本書では、愛読者大会(雑誌『少女の友』では「友ちやん会」と呼ばれた)という形で、直接的な読者間の交流も行われていたことや、それをきっかけに投稿欄を離れて文通を含む交際が始まることが指摘されていることも興味深い。「エス」と呼ばれる同性間での排他的愛情関係(排他的とはいっても、同時に複数の相手とエス関係にある少女も実際にはいたようで、排他性はあくまでも理念である)も、こうした人間関係を強化・継続することに一役買っていたようである。日本近代における「シスターフッド」形成の一側面といえるだろう。
もちろん本書で問題とされた「子ども」とは、あくまでも思春期以降の子どもであることには留意しておく必要がある。学齢期以前、あるいは尋常小学校・国民学校段階の子どもはどのようなジェンダー化の作用を受けていたのか。この点を明らかにするには、本書とは違うアプローチが必要になるだろう。だがその射程が及ぶ範囲では、本書の提供してくれる知見はきわめて刺激的なものであり、近代家族論や子ども研究を大きく前進させるものであることには間違いがない。
(初出:『図書新聞』、no.2817、2007.4.14)
【 内 容 】(目次)
序章
本書の視点
比較史の手法
本書の構成
第一部 第二次世界大戦期の女性労働
第一章 総動員体制の形成と女性労働
第一節 労務動員政策の形成と女性労働
第二節 女性の国民登録
第三節 女性の労働徴用をめぐる議論
第四節 女性の労務動員のゆくえ
結論
第二部 第二次世界大戦期の航空機産業と女性労働
第二章 航空機産業の発展と女性の雇用
第一節 航空機産業の発展と労働力
第二節 航空機産業への女性の就労
結論
第三章 航空機産業における「女性の仕事」の創出
──言説の形成と生産方式の転換
第一節 身体的な差異への着目──戦時期の労働科学とジェンダー
第二節 言説の形成──「女性に適した」航空機の仕事
第三節 航空機工場における生産方式の転換と女性労働
第四節 労働過程の細分化と「女性の仕事」の創出
結論
第三部 第二次世界大戦期の航空機産業における労務管理政策と女性労働者
第四章 航空機産業における女性の賃金と職業訓練
第一節 賃金
第二節 職業訓練
結論
第五章 航空機産業における「母性保護」と労務管理
第一節 労働保護法の緩和──「母性保護」の形骸化
第二節 女性労働者の管理──カウンセリング・プログラムと生活指導
第三節 女性労働者と育児──託児所の設立
結論
第四部 戦後への継続性
第六章 戦後への視角──「女性の仕事」の継続性
第一節 平時への転換と女性労働者
第二節 航空機産業のゆくえと「女性の仕事」の継続性
第三節 戦後の労働政策と労務管理における継続性
結論
終章 類似点と相異点
【コメント】
この本を研究会で読んだ後、参加者の一人がつぶやいた。「一国だけでも大変なのに。」日米の比較史というアプローチには、それだけの労力が必要とされたわけだ。
日本とアメリカ。共に、ある種の「特殊性」が主張されることが多い。アメリカはヨーロッパと比較した際の「特殊」であろうし、日本の場合には、欧米をひっくるめて対比して「特殊」なのだろう。
だが筆者の比較史のアプローチは、この両国における共通性を、しかも、かたや戦勝国、かたや敗戦国という立場の違いを超えた同質性を、明らかにする。主にそれは、「女性の仕事」の特質についての言説に関するものであった。「女性は体力がない」「手先が器用で忍耐強い」。そういった、現在でも流用される言説だ。おそらくこれ以前にもあったことは間違いない。
そうした言説は、大戦以前は男性の職場であった航空機産業の労働現場へ女性を配置していくプロセスでも用いられた。熟練工だった男性労働者が徴兵でいなくなった空隙を、女性が埋めなくてはならなかったからだ。そのためには、まず女性が働くことができるように労働過程を再編しなければならなかったが、それと共に女性たちにそこで働くよう説得し、さらに彼女たちの周囲にも働きかけなければならなかった。本書の記述は、こうした具体的な場面においてさまざまな言説が形成され、用いられた事例を、豊富に取り上げ、整理して提示してくれる。
もちろん、両国で航空機産業はまったく正反対の結果を出した。日本はついにアメリカの生産性も生産量も上回ることができなかったのである。それがなぜか、という点についても、本書は言及しており、さらに女性労働がどのように労働過程に包摂されていったのか、さらには彼女たちをどう企業が処遇しようとしていたかまでを検討している。
大戦中に航空機産業で作られた「女性の仕事」、およびそのイメージ――力は必要としないが、器用さ・繊細さや注意深さ、忍耐力を求められる反復作業、こうした仕事に女性は向いているというイメージ――が、戦後の製造業における女性労働の原型をなしたことも著者は指摘している。つまり、戦後の女性労働のレジームの基礎が、大戦期の航空機産業でつくられたということだ。
検討は1950年代までで終わっており、必ずしも戦後の女性労働を通しての話ではないが、本書はわたしたちが第二次世界大戦後の各国の女性労働のあり方の本質を理解する上での基礎を提供してくれているといえるだろう。記述もよく整理されており、文章も平易で読みやすく、記述の量のわりには理解するのに困難を伴わない。これもまた評価されるべきであろう。
【 内 容 】(目次)
はしがき
序章 本書の課題と視角
I
第1章 フレキシビリゼーションの構想と実態
第2章 人口構成の変化とその政策へのインパクト
第3章 政治学と女性政策
II
第4章 フレキシビリゼーションの政治I――派遣労働に関する政策
第5章 フレキシビリゼーションの政治II――パートタイム労働政策
第6章 「保護」と「平等」をめぐる政治
――女性差別撤廃条約と均等法制定・労基法改正
第7章 再生産をめぐる政治
――少子化問題のアジェンダ化と育児休業法の成立
第8章 政策領域間の整合性
――年金改革・税制改革の女性労働への帰結
終章 政治過程における特質と三つの政策課題の帰結
引用文献
あとがき
人名索引・事項索引
【コメント】
2001年に提出された著者の博士論文をもとに、加筆および削除を加えたもの。日本でジェンダーにかかわる政策に関する政治過程分析は、ほとんど手がつけられていない状態だといってもよいようである。その中にあっては貴重な文献といえる。
本書の基底には、たとえば横山文野『戦後日本の女性政策』(勁草書房、2002年)のような、(著者の言葉を借りるなら)「予定調和的な説明モデル」や首尾一貫した何らかの「意図」またはイデオロギーによって、女性政策の構成を説明するアプローチに対する疑問があるという。具体的な政治過程はそういった機能主義的なアプローチでは理解できない、より政策決定の場に密着した方法が必要なのではないか、そして現代政治学のメインストリームはそうした方法を女性政策に対しては適用してこなかった、なぜならそれは女性施策が「マイナー」な領域だったから――そういった問題意識が根幹にあるようである。(政治学という学問領域が、まだまだ日本では男性中心的だということもあるのだろうか。)
第II部における、パート労働者法や派遣労働者法の成立などをめぐる政治の舞台でのさまざまなアクターの利害関心の分析は、かなり微細な点にまでおよんでおり、読みごたえがある。資料が豊富な均等法成立過程の分析は、特に詳細である。そしてその中から、女性政策が、たとえば「家父長制」のように名づけることのできる首尾一貫したロジックによって貫かれているものではなく、かなりの程度政治的駆け引きの産物として作り上げられた、個別政策のよせあつめであるということがわかってくる。(ただしそれらがどう「機能」しているかについては、また別な議論が必要であろう。)結論的に言えば、1980年代の女性政策をめぐる政治過程とは、族議員の不在・コーポラティズムという枠組・経営者団体の影響力の大きさ(特にフレキシビリゼーションについて)・官僚組織(主に労働省)のバランス感覚といったことで性格づけられるものである。
難を言えば、「少子化」を扱った第7章がほとんど内容のないものになってしまっていることか。これは、80年代に議論の焦点をあわせたことに起因するものでもあるだろう。少子化問題が政治的アジェンダの俎上にのぼるのは1990年の「1.57ショック」を起点としており、80年代には政治的課題となることがまったくなかったといえるからである。この点は、そもそも主な対象とした年代について、「フレキシビリゼーション・平等・再生産」という3つの軸を設定した意味があったのかということにもかかわってくるだろう。
女性政策の中にに一貫したロジックをさがしもとめようとする作業は、確かにグランドセオリーを志向しやすく、それがゆえの難点も兼ね備えてしまう。必要なのは本書で行われているような地道な作業の積み重ねの中から、ロジックといえるものをつかみだしていくという途であるのかも知れない。まだその途をたどるものはあまりいるとはいえないのが現状であるが。
【 内 容 】
サボテン姫とイグアナ王子
五月の森の銀の糸
さよならにまにあわない
カッパドキアの秋
ヴォーカリーズ
ロストパラダイス文書
とまとジュースよ永遠に
【コメント】
「清原なつの忘れ物BOX」の1冊目。単行本未収録の作品を集めたもの。
表題作「サボテン姫とイグアナ王子」は、体にサボテンのトゲがはえてしまった姫と、呪いでイグアナにかえられてしまった王子(トゲを食べると呪いが解ける)の恋物語。姫の体中にはえたトゲを、「腕→背中→胸→腹→脚」とイグアナ王子が食べていくプロセスは、きわめてセクシュアル。ただし、呪いが解けて王子が元の地位を回復し、二人が結婚してめでたしめでたし、では終わらないところがミソ。
「ロストパラダイス文書」は、ロー・ファンタジー的な要素を持つ作品だが、やはりセクシュアリティが主題になっている。少し細かく見ていこう。(以下ネタバレを大幅に含む。)
まずは、大まかなストーリー。
単位を落としそうになった女子学生が、教授に「何でもします! 奴隷になります!」と泣きつくと(このとき眼鏡をかけた老教授が読んでいるのが「ロストパラダイス文書」という表題がついた資料)、とある村へ伝承採集のフィールドワークに出される。出かける前に彼氏とセックスをしている最中、「ときどき行方不明になるらしいから気をつけろよ」と忠告される。
そして、村に行く途中、バスから降りて歩いているうちに霧にまかれ、崖から落ちて気を失ってしまう。
気がつくと、老婆の家に寝かされている。温泉であたたまって、「今日は祭じゃ」という老婆に酒を飲まされ、酔いつぶされる。
そのまま祭の舞台にあげられた彼女は、禁忌を破って兄・妹で結婚した老夫婦が拾って育てた「ウリコ姫」の役を演じさせられる。劇中では、「アマンジャクがきても絶対戸をあけちゃいけない」と養父母にいわれたにもかかわらず、戸を開けてしまい、アマンジャクたちにさらわれて強姦され、妊娠しなかったので処刑される。
ここで彼女は「目が覚める」。気がつくと、先ほどと同じように、老婆の家にいる。先ほどまでのことは、崖から落ちて気を失っていた間に見た夢、ということになっているのだろうか。
温泉に入っていくようすすめられたところで、このあとの展開に気づいた彼女は、「忘れ物をしました!」と家を飛び出して、村を出ようとする。しかし霧にまかれ、迷ったところで男に出会い、車に乗せられ、飲み物を勧められ、酔いつぶされる。
以下同じ。気がつくと、また……。と、やや変奏をともないながらの繰り返しが数回続く。
最後に大きく場面が変わって、「それで……帰って来ないんですか?」と女子学生が教授に尋ねている大学のシーンに切り替わる。実は、老教授は送り込んだ女子学生がどういう目にあわされるか知っていた、というオチ。
さらに場面が変わって、村の情景。送り込まれた学生が子どもを抱いている。彼女は「もう戻れなくていい」と諦めたとたん妊娠して、村の若者と結婚している、ということのよう。
この物語にはいくつかの「しかけ」がある。説明しやすい順序で取り上げていこう。
(1)くりかえし(ループ)
ストーリーのところで述べたように、主人公は村とそこで彼女を待っている運命から、どういう選択をしても逃れられない、ということになっている。処刑されるところでいったん意識がとぎれ、ふたたび村に到着するところで目ざめる。
(2)「現実→幻想→現実」という構造
主人公は、現実(大学→恋人との時間→村)からスタートし、幻想世界(「物語」「民話」の世界)へまぎれこみ、そこから抜け出せなくなる。最初現代風の衣服をまとっていた村人たちが、幻想世界では粗末な野良着を着ていたりする。
そしてラストでは、彼女の行方不明事件が「物語」として現実(大学)から語られ、かつ彼女自身も妊娠→出産を経て現実(村)の生活へ戻ってくる。
(3)「舞台」「演劇」という装置
必ずしも西洋の舞台演劇のように、はっきりと様式化されたものではないが、途中彼女は「舞台」に上がり、「ウリコ姫」を演じている。
(1)のループ、これは主人公のケース1回限りでなく(というのは教授の言動からもわかるが)、過去から繰り返されてきたことだということの強調と、どうやってもこの運命からは逃れられないということの強調なのかもしれない。そしてたぶん、「この世界には同じようなことが満ちあふれている」ことの隠喩なのだといえよう。
つまり、「ずっと」そして「いたるところで」。
過去から繰り返されてきた、ということは、たとえば(2)でも書いたとおり、村人の衣装が現代的なものでなくなっていくことからも連想できる。だからこそ教授が読んでいる文書になっているわけだろう。
(3)の「演劇」や「舞台」という装置も、ループと関わりあるかもしれない。演劇とは役者が代わっても、再び演じることができるものだから。ウリコ姫の位置にどんな女性がきても、アマンジャクを誰が演じても、このことは起こりうることになる。
それはなにも、強姦やこうした嫁とりが常態であるということを直接的に表現しているということではなく、(現代の)女性のセクシュアリティが置かれている状態を比喩的に表現したものであると言えるのかもしれない。
もっとも同時に、「劇」として描くことは、これが直接的な「現実」ではないという効果(緩衝作用)を読者に与えるものでもある。つまり、こういう現実がいたるところにあると一方で言いつつも、あまり生々しすぎないように、「これはお話ですけどね」ともう一方でささやいているわけだ。
この主人公の女性がかなりセクシュアルな存在として描かれていることに注意したい。まず、恋人とのセックスシーンが描かれ、彼女は性体験が豊富だということが示される。そして身にまとっている、ミニスカート、ヒールの高いサンダル、など、身につけているものでも表されている。
かつ、酒を飲んで酔っぱらってしまったり、言いつけにそむいて戸を開けてしまったり、男の車にのこのこ乗り込んだり、軽率でもあるように描かれている。
ここからくるメッセージは、「性体験豊富で、露出の高い格好して、さらに軽率だとこんな目にあうよ」というだけではない。そのあとの繰り返しを通して、「どんなことをしてもダメなものはダメなんだよ」ということまであわせて示されているといえるだろう。「強姦神話」(「強姦されるのは、女がセクシーな服を着て、無警戒だったから、つまり女に隙があったから」というような)への異議申し立てだと考えることもできる。
途中、彼女が戻りたいと願ったのは、大学であり、恋人のところだった。それは知識を得る場であり、自分のセクシュアリティおよび生殖力を自己管理しやすい性関係(少なくとも迷いこんだ村と比較して)だったわけだ。だが、それらをあきらめたとたん、つまり自己決定権や知識を手放したとたん、彼女は無限ループから解放され、最終シーンのような情況へと至るのである。
つまり、「ずっと」「いたるところで」そして、「どうあっても」、逃れられない運命として、この世界では女性は強姦され続けなければいけないのだ、許されるのは、この運命を受け入れ、妊娠して「母」となることによってのみだ。
……と、まるでこう語っているかのような作品である。単行本未収録だったのは、あまりにもインパクトが強すぎるからだろうか。
【 内 容 】(目次)
はしがき
第一章 近代家族をめぐる言説
第二章 アジア家族の近代
第三章 失われた家族を求めて ――徳川日本家族の実像――
第四章 社会的ネットワークの変容 ――人口学的世代と家族――
第五章 個人を単位とする社会
第六章 労働力不足時代の家事と主婦
第七章 ビジュアル・イメージとしての女 ――戦後女性雑誌が見せる性役割――
第八章 テレビドラマの家族史
補 章 家族のゆくえ
あとがき
初出一覧
参照文献
【コメント】
「日本に近代家族アプローチを紹介した」(瀬地山角)とされる落合恵美子の論文集。1995年から2000年にかけて書かれたものをまとめたもの。日本における近代家族アプローチの受容とその成果、問題点、論点をあげた第一章、「近代家族以前」についてふれた第三章、マスメディアにおける家族表象の分析をおこなっている第七章、第八章などいずれも興味深い。また、あまり日本では取り上げられることのなかったアジアの家族について中心的に扱った第二章も、貴重な論考である。
【 内 容 】(目次)
1 少女時代 1867−1891
2 パリ 1891−1897
3 ラジウム発見 1897−1902
4 放射能の理論化 1902−1906
5 死と実験室の生活 1906−1911
6 スキャンダル 1911−1914
7 戦争 1914−1918
8 晩年 1919−1934
イレーヌ・ジョリオ=キュリー 1897−1956
訳者あとがき
読書案内
原注
年表
索引
【コメント】
マーニャ・スクウォドフスカからマリー・キュリーに。そして、そのまま変わることはなく。
ポーランドに生まれた少女は、女性に認められた15歳までの教育課程を修了した後、姉の学資を自分の家庭教師の給料でまかないながら、姉の学業が終わった後は自分もパリで学ぶことを夢見た。当時のポーランドはロシア領となっており、国を占領したロシア軍の目を盗みながら、「移動大学」と呼ばれる非公式の学びの場で、ポーランド語やそのほかのさまざまなことを学ぶしかなかった。
結局マーニャ・スクウォドフスカがパリに到着したのは24歳の時(1891年)。彼女は、自分を「マリー・スクウォドフスカ」という新しい名前で大学に登録した。「マリー」はソルボンヌで学業に没頭したおかげで、その2年後の93年には物理学のリサンス(修士号に相当する)を主席で手にすることとなる。
祖国を愛する彼女は、ポーランドへ戻って教職につこうと考えていたが、ピエール・キュリーの求婚が彼女をフランスに引きとどめた。もちろん彼女がピエールとともにありたいと望んだことは疑いもないが、フランスにとどまったからこそ研究を続けることが可能だったのもまた事実であろう。フランスにも女性が給料をもらいながら研究を続けられる職は当時存在しなかったが、ピエールが――しぶしぶながら――教授職についたおかげで、すぐに3人に増えた家族(イレーヌの誕生は1897年)が食べていくには困らなかったし、彼の職場の上司の計らいで、劣悪ながらも研究をおこなう場所も確保できた。そしてなにより、ピエールと彼の兄の発明品(水晶板ピエゾ電気計)を彼女の研究に不可欠の資材として使うことができた。科学者マリー・キュリーとしての彼女の活躍がこうして始まる。
確認しておかなければならないが、ラジウムの発見につながる一連の研究は、ベクレルによる放射線の発見にヒントを得たマリー・キュリーの着想によるものである。ピエールは途中から彼女の実験に興味を覚えて、首を突っ込むことになったのだ。その逆ではない。
1898年のラジウムの発見は、放射能は物質の原子の性質である、ということを見抜いた彼女の直感のたまものであるといってよい。キュリーはそののち、ラジウムの単離に力を尽くすことになり、その単調な作業に忍耐強く取り組む彼女のイメージばかりが世間に流布されることになるが、キュリーは努力の人である以上に洞察力の人でもあった。
だが、それだけではない。ラジウムはウラン採掘後に廃棄されていたピッチブレンドの中から取り出さるのだが、その中にほんの微量しか含まれていない。何トンというピッチブレンドを確保し、産地からフランスへ輸送し、そこからラジウムを精製する一連のプロセスは単なる個人的努力では片づかない。お金もかかる。企業と交渉し、援助を取り付けた彼女は、たぐいまれな交渉力も身につけていたのだ。
そのほか、子どもたちの教育、そして夫の死後のことであるが、年下の男性との恋愛。そういったことにも彼女は(ときには静かなものであったが)情熱を注いだ。
第一次世界大戦の時には、X線を治療に活用するために奔走した。裕福な女性を訪問し、彼女たちが所有するリムジンを放射線車として寄贈してくれるように頼み込んだりした。車の運転も習って、いざというときには自分で車のメンテナンスもできるようにとメカの知識も習得し、ルノーを1台確保した。長女イレーヌも学業の傍ら放射線医療に従事した。そういった、科学の社会的貢献についてのさまざまな着想と実践をなした、アイディアと実行力の人でもあったわけだ。
女性であることが彼女にとって不利だったこともある。
1回目のノーベル賞受賞の時には、スウェーデン・アカデミーの会長は「団結は力なり」ということばで夫妻を称えたという。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助けるものを造ろう。」というキリスト教の文句を引いてだ。つまりここでいわれている「団結」とは、あくまでも「妻が夫の事業を支える」という限りのものであるのだ。世間もそう見た。真実とは異なるにもかかわらず。
1904年にはソルボンヌにピエールのための教授ポストが作られたが、マリーのポストは彼の助手であった。ピエールの生前は彼女は教授職にはつけなかったのである。ストックホルムのノーベル賞受賞記念講演会もピエールが行った。いや、そもそもノーベル賞は彼だけに与えられようとしていたのだ。ピエールがていねいに、自分だけでなくマリーにも賞をくれ、と返事をしたためにそれだけはまぬがれたのだが。
恋愛スキャンダル(ちょうど2度目のノーベル賞を受賞した時と重なる)の時には、パリのジャーナリズムはこぞって「あのポーランド女」と彼女を中傷した。女性であるがゆえのスキャンダルであったが、彼女が外国生まれであることもまたフランス人の排外心をあおったのだ。フランス・アカデミーのメンバーに選出されることもなかった。
しかし、彼女はめげることはなかった。第一次世界大戦時の彼女の貢献から後は、フランスは頭を垂れて彼女を迎え入れることになった。そしてマリーはキュリーであり続けた。ポーランドは彼女の祖国であったが、彼女はフランスにとどまり、フランス人であった夫の名前で仕事を続けたのである。
世間一般に広まっている、特に子ども向けに書かれたマリー・キュリーの伝記では、マリーの少女時代やピエールとのロマンスに過剰なウェイトが置かれ、あとはせいぜい夫婦の「共同作業」でラジウムが発見され、精製されたことが書かれているぐらいだという指摘がある(斎藤美奈子、『紅一点論』)。しかし実際のところ、キュリーに備わっていたのはもっとさまざまな豊かな才能であり、そして多方面に注がれたエネルギーであったのだ。本書はそれらをバランスよく描こうとしている。
【 内 容 】(目次)
はじめに
お読みになる前に
第1章 風俗嬢意識調査報告
第2章 風俗嬢座談会+再現インタビュー
第3章 『風俗嬢意識調査』を読む
橋爪大三郎/瀬地山角/南智子/小倉千加子/宮台真司
資料
アンケート用紙/全回答/風俗の分類と内容/風俗用語辞典
あとがき・謝辞
【コメント】
セックスワークの非犯罪化について、長年地道に取り組んでいる要友紀子らの調査報告書。いわゆる「非本番系」風俗の女性たち126人の調査をまとめたもの。
セックスワークの是非をめぐっては議論の余地があることには間違いないが、第3章で瀬地山角が指摘しているように、そうした議論とは別の次元で現にセックスワークは行われ続けており、さまざまな現実が存在することも事実である。この調査はまずその現実へ切り込むことで、既存の議論の土台をゆるがそうというものである。
本書の冒頭部分から、一節を引いておく。(pp.8-9)
売買春について交わされる議論の多くについて、私は、「一体、どういう経験や見聞から、風俗のことをどう理解してそのような考え方に至ったのか」というところが疑わしくてしょうがありませんでした。
(中略)
もし、従来のような売買春論議が、セックスワーカーの現実や思いと全く無関係に、「自分の理想(幻想)のユートピア」を目指して語られているのだとしたら、これほど愚かなことはないと思います。
(中略)
この風俗嬢意識調査結果が世に出たとたん、従来のような売買春論議の性質が一変するというような事態を想定しているわけではありません。ただ、「風俗嬢っていうのは概して……」とか、「風俗の仕事というのはこういうものだから……」といった、今まで信じられていた風俗にまつわる物語は、もう自信を持っては語られなくなるでしょう。
東京および横浜での調査ということで、その他の大都市圏、あるいは地方都市だとまた違った結果が出るかも知れないが、これはもう調査を積み重ねていくしかない。
分析では、大学生のアルバイト観との比較が興味深い。特に53〜55ページあたりの、他の労働に従事している人たちが、「売春よりはマシ」というかたちで労働のタイプを階層化していくことで、自分たちが従事している労働の条件の悪さなどを、「まだ下がある」というふうに資本に好都合に解釈してしまう可能性が生じる、という指摘などは重要であろう。
ただ、学生にとってはあくまでもアルバイトは「アルバイト」であることが多いだろうから、風俗で生計を立てているような人たちを含むデータとの丸ごとの比較はどうだっただろうか。この点はもう少し慎重に評価したい。
いずれにしても、やっと日の目を見たデータである(調査期間は1999年〜2000年)。広い反響があることを期待している。
ところで、気になったことが一つ。この本にはしおりひもが2本ついている。紫とピンク。なぜ??
■関連URL
-http://homepage2.nifty.com/swash/index.html
SWASH(Sex Work And Sexual Health)のWebページ。
-http://www.pot.co.jp/yukkochan/index.html
要の調査日誌。メインのページは、最近更新されてない?
【 内 容 】
――すべての恋する中高校生に贈る、わかりやすくて役に立つ性の知恵袋。
(裏表紙より)
ティーンエイジャーの諸君へ
第1章 Hてなに?
高校3年生女子で、H未経験です。遅いでしょうか?/援交をしている友だちが「Hなんて大したことない」といいます。未経験の私は大事なことだと思うのですが/はじめてHをします。どんなふうにしたらいいですか?(男子)
……ほか
第2章 生理ってなに?
妊娠しても生理はくるのですか?/月経が10日で来たり、40日で来たりとバラバラです。おかしくないですか?(中学3年)/生理が不順な人は妊娠しやすいって本当ですか?
……ほか
第3章 避妊ってなに?
安全日や危険日っていつのことですか?(男子)/排卵はどうすればわかりますか?/避妊しない人がたくさんいるようですが、大丈夫なんですか?/ピルについて教えてください
……ほか
第4章 出産ってなに?
出産のことについて教えてください/妊娠中の身体の変化や生活について教えてください/妊婦がタバコを吸うのはよくないですか?/シンナーや薬物は赤ちゃんにどんな影響があるのですか?
……ほか
第5章 STD(性感染症)ってなに?
性感染症にはどんなものがありますか? またどうやって感染するのですか?/十代のSTD患者はどれぐらい増えていますか?/セックスの経験年齢が速いと、不妊症や婦人科の病気にかかりやすいのですか?/エイズについて教えてください
……ほか
【コメント】
産婦人科医の著者が、実際に中学生・高校生から受けた相談内容を元に、Q&A形式で、わかりやすく性に関する知識を書き下ろしたもの。単なる「からだのしくみ」の話ではなく、避妊やSTD予防などにも触れているところが実際的。
コンドーム装着、各避妊法の比較検討、STDの種類と治療法、エイズ感染予防などが、図解入りでていねいにまとめられているのもよい。最小限だが、必要な知識をコンパクトにまとめてある。
できれば、「さらに知りたい」という人たち向けの手がかりとなるようなことを文中に埋めこむか、あるいは巻末にまとめておいてほしかった。ここに書いてあることはほんの入口のことで、それは十代の読者にもわかると思うが、本当に知りたいことがなかった場合の対処の手がかりを与えておいてほしかったと思う。
あともう一つ難を言えば、やはりヘテロセクシュアルな知識の範囲を出ていないということ。周辺的でもいいから、同性愛などについても触れておいてほしかった。これもなかなか「学校で教えない」たぐいのことではないだろうか。
【 内 容 】
【コメント】
リブ運動の担い手自身によって書かれた、リブの“スタイルブック”の新装版。この本が理解できれば、日本のウーマンリブの発想の、まあだいたい半分ぐらいは理解できると言ってよい。ただし、「わかってもらおうと思うは乞食の心」だと田中美津が本書で言い放つとおり、相手にすり寄って理解を求めようという態度はこの本にはカケラも存在しないので、受けとめ損ねるともうどうしようもないかもしれない危険な本でもある。
原著は1972年。河出書房から文庫になって出たが、すぐ絶版。ところが2001年にパンドラから新装版が出ることになった(販売は現代書館)。さらに今回は新しく著者のコメントをつけた増補版。美津さん人気いまだ強し?
ちなみに田中美津は現在鍼灸師をしている。『何処にいようと、りぶりあん』(社会評論社)という著書もあるが(この本ではメキシコでの生活記録などが一つの核)、何をしていても彼女の生き方の中心にはリブの精神があるように思う。
【 内 容 】
【コメント】
日本オリジナルでは初の、女性学・フェミニズムについての本格的な事典・辞典。語学辞書でいう「中辞典」クラスのものだと思って欲しい。要するに大学での学習用として必携ということ。日本の女性学・フェミニズム業界の中心メンバーの編集で、協同作業の成果らしく、バランスはいい。また、「事典」と銘打ってはいるが、作りを含めて一番「辞書」っぽい。さすが岩波、という感じの一冊。(値段も。)ぜひ手元に置いておきたい。
【 内 容 】
【コメント】
著者から掲載依頼があったので、Myriel用に少し手を加えておきます。
章立てと内容の概略・取り上げられている作品をまず示します。
はじめに第1章 迷宮の地図を描く―ファンタジーをどう読むか
全体の序論。「ファンタジーとはなにか」にはじまって、日本ファンタジー小史、分析視角、など。第2章 「男装の麗人」たち
「リボンの騎士」「ベルサイユのばら」などのコミック作品から「男装者」の類型を抽出しつつ、「指輪物語」「グイン・サーガ」といった大物ファンタジーの中に登場する「男装者」のイメージを分析。第3章 「戦う女性」たち
第2章を引きついで、「戦う女性」についての分析。
マーセデス・ラッキー「ヴァルデマール年代記」、ひかわ玲子「エフェラ&ジリオラ」、小野不由美「十二国記」、前田珠子「破妖の剣」、など。
ヘイドン「ラプソディ――血脈の子」、ジーン・アウル「大地の子エイラ」などへの言及もあり。第4章 ファンタジーのなかの家族
ローリングの「ハリー・ポッター」シリーズとエディングズ「ベルガリアード物語」を軸に、「親を亡くした子ども(ただし男の子)」をめぐる「家族の物語」を分析するほか、現実の家族と異なるものを描いた作品として、マキャフリー「パーンの竜騎士」、ブラッドリー「ダーコーヴァ年代記」、そして小野不由美の「十二国記」ふたたび。付録 ファンタジー作品紹介
「ハリポタ」、「リンの谷のローワン」、上橋菜穂子「守り人」シリーズ、などの児童文学系から、おとな向けのものとして、松村栄子「紫の砂漠」、ジーン・アウル「大地の子エイラ」、「グイン・サーガ」など。本文の補足なども含む。これだけでなく、よくある真面目なファンタジー評論で無視されてしまうことの多いヤング・アダルト向けについてもとりあげている。秋田禎信「エンジェル・ハウリング」、茅田砂胡「デルフィニア戦記」、荻原規子「西の善き魔女」など。コミックでは中山星香「妖精国の騎士」、垣野内成美「吸血姫美夕」、田村由美「BASARA」。
(written by Ayako TAKAHASHI)
【 内 容 】
【コメント】
Maggie Humm, The Dictionary of Feminist Theory (2nd edition), Harvest Wheatsheaf, 1995. の翻訳。
フェミニズム・女性学・ジェンダー研究の分野の辞典/事典では、以前から明石書店からリサ・タトルの『フェミニズム事典』の翻訳があるし、岩波の女性学事典も出た。キーワード集も各社(ドメス出版、新曜社など)からいくつか出版されている。日本でもそれだけ、フェミニズムやジェンダー研究が蓄積され、受け入れられたということだろう。以下、本書を翻訳・監訳した立場からひとこと述べさせていただきたい。
本書は、人名、書名、概念、キーワードなど、全部で600余の項目を含んでいる。配列は原語のアルファベット順だが、見出し語についての五十音順の目次が巻頭にあるほか、末尾には索引も完備されている。本文中に出てくる見出し語はゴシック表記もするようにしている。このあたりは、編集者と監訳者とで、できるだけ使いやすいものをと考え、配慮したつもり。(編集者の労力はたいへんなものであった。特記しておきたい。)
見出し語には、日本ではなじみがない言葉も、かなり多く収録されている。英語圏・フランス語圏のフェミニズム理論を学ぼうとする学生・院生には便利な本だろう。ただ、あまり初心者向きではない。「わかりやすく書いた」と著者は述べているのだが、訳していてもかなり難解な文章に出くわした。できるだけ努力はしたつもりだが、それでもまだ平易でない記述はたくさんあると思う。(なお、原著にある誤りもいくつか引き継いでしまった。機会があれば訂正したい。)
岩波の女性学事典が出て、本書も使命を終えたのではないかと思うことがある。それでもなお売れてくれるのなら、長い時間翻訳・編集作業に取り組んだ価値があったというものだが。
【 内 容 】
Part 1 データ・ファイル
1 結婚・家族はどう変わったか
2 性・こころ・からだ
3 女性と暴力
4 女性と労働
5 教育とジェンダー
6 マスメディアとジェンダー
7 男女共同参画はどこまで進んだか
8 女性の政治参加とジェンダー政策
Part 2 戦後女性史年表(1945−2004)
Part 3 女性関連主要法令
【コメント】
女性学・ジェンダー研究関係の定番資料集の最新版。 これ一冊手元にあると、基本的なことはほぼカバーしてくれる。教える側としても、授業の際の配付資料を作成する手がかりになるので、便利な本である。以下、どのあたりが一つ前の第3版と変わったのか、簡単に比べてみたい。
Part 1、データ・ファイル編では、まず「1 結婚・家族」のところでは、「近代結婚制度の揺らぎ」という項が新しく立てられたのが目につく。第3版では「制度としての結婚」という項があって、そのサブタイトルで「揺らぐ結婚パターン」となっていた。
「2 性・こころ・からだ」では、生殖技術・性感染症・病気とジェンダーの項目が立てられ、「アルコール依存症」はより広い範囲を含む「アディクション」に変わっている。また、以前この章に含まれていたDV・強姦は、新しく章が立てられた。
その新しい章が「3 女性と暴力」。DV、児童虐待とジェンダー、セクシュアル・ハラスメント、ポルノグラフィと暴力などからなる。
「4 女性と労働」の章はかなり項目が整理された。セクシュアル・ハラスメントが3に移ったことも関係している。
「5 教育とジェンダー」ではキャンパス・セクハラ、アカハラの項目が立てられ、もう一件、「共学・別学」という項目ができた。ただ「共学・別学」については、内容は充実しているとは言いがたい。別学高校の割合、お茶女・奈良女両女子大の受験理由、両大学の将来像、この3つだけである。問題をうまくとらえ切れていない。
「6 マスメディアとジェンダー」は以前は「マスメディアと女性」だったもの。男性中心主義の表現に変動の兆しがあるか?とか、とんでもなく古いデータ(1980年ころのもの)だった、テレビニュースでのアナウンサーの原稿読み上げ時間性別比較で、データのアップデートがされているのがありがたい。
第3版で章が独立して立てられていた性役割に関しては、「7 男女共同参画はどこまで進んだか」の中の一項目におさめられることになった。また第3版で労働のところにあった家事、同じく第3版で「社会的活動の場で」の章にふくまれていたようなことがらもここにおさめられている。
また、政治・政策に関わる「8 女性の政治参加とジェンダー政策」という章が新しく作られている。国際的な状況から、国内のいくつかの政策(育児支援等)についての現状がまとめられている。
Part 2の年表は、2004年まで延長された。Part 3の女性関連主要法令は新しく追加されたものである。条約から国内法規まで、主なものをカバーしている。