キャンパス・セクハラって、なあに?



 キャンパス・セクハラって何だろう?
 「セクハラ」「セクシュアル・ハラスメント」なら、ほとんどの人が耳にしたことがありますよね。キャンパス・セクハラはその大学バージョン。大学のキャンパスあるいは大学での人間関係を舞台にして起こるセクハラのことです。
 当たり前だけど、これは大事なこと。自分が知らず知らずのうちにキャンパス・セクハラの当事者になっているということに、実は多くの人が気がついていません。(学生だけでなく、教員もです。)
 ここはひとつ、キャンパス・セクハラが何であり、どういうふうに生じているのか、その概念と実際を知って、自分の周辺を振り返ってみることから始めていただきたいと思います。

 このホームページでは、キャンパス・セクハラの概念を確定するのに、まずセクシュアル・ハラスメント一般の概念を確定するところから始めて、その概念の部分修正という形で定義したいと思います。
 以下、ちょっと表現が堅苦しくなりますが、スタート。

そもそもセクハラって?][セクハラの概念化][キャンパス・セクハラ][キャンパス・セクハラの特性

セクハラってそもそもなんだろう?

 おそらく女性ならほとんど全員が、「男の人(男の子)からエッチなことをされた」という経験があるに違いない。小学校時代にスカートをめくられたとか、電車で痴漢にあったとか。
 でも、たとえばクラスの男の子にスカートをめくられたら即座に股間を蹴り上げればいいのだし、痴漢が手を出してきたら安全ピンでていねいにとめてあげるとか、逆襲の手段はそれなりにある(あってもできないのがほとんどの場合であることはじゅうじゅう承知の上書いています、その点お汲み置きください)。
 ところが、それができない場合もある。あってもあらかじめ封じられているというか。
 たとえば、小さな会社で新入社員の女性が社長に迫られたら。逆襲したらクビかもしれない。小さい会社で組合もないし、経営は社長がほとんどワンマンでやっているから発言力も絶大なものがあるし、新入社員なので相談しようにも誰が頼りになるやらわからないし‥‥と八方ふさがりかも。
 「セクシュアル・ハラスメント」とは、もともとこのように職場を舞台にして生じるさまざまな性的いやがらせを概念化したものだ。この概念は最初アメリカなどの外国で作られたものだが、1989年の夏ごろに日本に入ってきて、その年の流行語にまでなった。それまでなんとなくモヤモヤと女性たちが感じていたことが、一気に表現手段を得て噴出してきたのかもしれない。言葉が流行するということは、それなりの背景があったはずである。
 週刊誌ではたとえば、『女性セブン』が1989年の秋に読者投稿を主体とした特集を数回にわたって企画している。おじさんサイドからは、『週刊文春』や『週刊朝日』などが、これは「セクハラといわれないために」という予防策なのだろう、「チェックリスト」などをやはり同年の秋に掲載している。このように「セクハラ」という言葉の歴史もまだ浅い。わたしたちはもっともっとこの問題について考えてみる機会と時間を持つことが必要だ。

セクハラを概念化する

 簡単にセクハラの定義をおさらいしよう。
 アメリカ合衆国の雇用機会均等委員会(EEOC)の「ガイドライン」(1980年)によれば、セクハラは次のように定義される。

 相手がいやがっているのに口説いたり、性的な愛情を要求したり、その他言葉や身体による性的な意味合いを持つ行為を以下のような場合において行う場合、それはセクシュアル・ハラスメントを構成する。
(1)明示的あるいは暗黙に、性的要求に従うことが、個人の雇用の条件にされる場合
(2)性的要求への諾否が、個人に影響を与える雇用上の意思決定の基礎として使用される場合
(3)そうした行為が、相手の職務の遂行を妨げるか、あるいは脅迫的敵対的で不快な仕事環境を形成する目的によって行われる場合、あるいはそのような効果を持つと十分判断される場合
 上の定義のうち、(1)(2)はより被害者の身体に対して直接的に向けられた行為であり、また(3)はより間接的であり被害者の身体そのものというよりは職場環境の形成と関連したものである。通常、(1)(2)を何らかの対価と引き換えに性的関係を取り結ぶことを目的とする点に注目して「代償型セクシュアル・ハラスメント」と呼び、(3)については職場環境の形成に注目して「環境型セクシュアル・ハラスメント」と呼ぶ。
 なお、この「ガイドライン」の背景には1964年の公民権法第七編の条項があることを付言しておきたい。

 ところで、江原由美子さんによれば、セクハラの社会問題化には「性規範のダブルスタンダード」を打ち破る力があるとされている(「ダブルスタンダード」については、Socius「ダブスタ講座」などをご参照ください)。つまり、「性」にまつわることがらであり、被害者である女性の側からは「性規範のダブルスタンダード」があるために告発することが難しいセクハラを、女性の「労働権」にかかわる「労働問題」と位置づけることで、「性規範のダブルスタンダード」が働く力を抑えることができたということである。(江原、「『セクシュアル・ハラスメントの社会問題化』は何をしていることになるのか?」、参照。)

キャンパス・セクハラの概念化

 セクハラの法的な枠組みは上で説明したとおりである。
 ところで、キャンパス・セクハラもこの線に沿って考えていけばいいのだろうか。いや、それだけではどうもうまくいかないようだ。
 最大の難点は、「キャンパス・セクハラは労働現場を舞台として起こるとは限らない」というところにある。キャンパスには通常、学生・職員・教員の三者が存在している。教員間、職員と教員の間のセクハラであれば、上のセクハラの定義をそのままあてはめてしまってもよいのだが、学生は学校に仕事をしにきているわけではないのだ。(講義を受けている最中に「内職」をしている姿は時々見かけるけど・・・・。)
 以下では、学生‐教員間で生じうるキャンパス・セクハラの問題に話を絞って、その特性を明らかにしていきたいと思う。

 「労働権」が主張できないとしたら、それにかわるものがあるだろうか? もちろん、ある。「教育を受ける権利」だ。
 学生は大学等に教育を受けるために来ている(はず)。彼女/彼は、大学等できちんと教育を受ける権利を有する。それが、教員による、あるいは学生相互の、暴力や不快な環境醸成によって妨げられることはあってはならないのは当然である。
 たいていの大学等の学則には、「学内の秩序を乱したもの」に対する学校としての処分(訓告、停学、退学など)が明記してある。キャンパス・セクハラだって、「教育を受ける場所」としてのキャンパスの「秩序」を立派に?侵害する行為のはず。もちろん、「学則」は普通学生に適用されるものであるけれど、教員の側だけが一方的に免責されるなんていうはずがない。あってはならないと思う。
 「教育を受ける権利」の侵害としてキャンパス・セクハラを概念化すれば、江原由美子さんが言うような「性規範のダブルスタンダード」の発動を抑制することが、労働の場面と同じようにできるだろう。(理念的には。)
 単位や将来の就職との引き換えに性関係を求められた場合、それは、性関係を拒否した場合には単位を失う、あるいは就職ができなくなるということだ。これは当然「対価型セクシュアル・ハラスメント」にあたる(就職の世話も「教育を受ける権利」に入るかな? 微妙なところだが、大学などでは普通就職先の紹介などもしていることが多いので、とりあえず含めて考えておく)。研究室やゼミの時間などに、女子学生に対する性的なからかいが男性の学生を巻き込んで行われる場合(そのケースが多いので仮に被害者を女性としておきたい)、それは「環境型セクシュアル・ハラスメント」に該当するだろう。

キャンパス・セクハラの特性

 とはいえ、やはりキャンパス・セクハラを告発するのは難しい。「性規範のダブルスタンダード」は抑制されたとしてもまだまだ強いものだし、セクハラ一般と同じような証明の難しさはやはり存在する。
 ここではとりあえず、キャンパス・セクハラに特有のさまざまな特性について考えておくことにしよう。それらについて考えることを通じて、キャンパス・セクハラの告発をはばむ障害を乗り越えることができるかもしれないからだ。

(1)教員‐学生間の権力関係が基盤になる
 当たり前のことだが重要である。「教える/教えられる」という関係には、なぜだかわからないが、強い権力関係が内在している。「一方的な金銭・財の授受関係は権力関係を発生させる」というのは経済人類学の命題であるが、ひょっとして「知識」にもあてはまるのかもしれない。「先生」という呼称(=尊称)がいけないのかもしれない。キャンパス・セクハラは、教育に内在する権力関係を基盤として生じるのだ。

(2)教員‐学生の距離が近いほどキャンパス・セクハラは起こりやすい
 キャンパス・セクハラが生じる素地として、研究室やゼミナールの人間関係のあり方もしばしば指摘される。研究室やゼミの結束が強いことは、多くの場合教員と学生との接触が密であることでもあり、それ自体はいいことだ。しかし、だからこそそこでさまざまな問題も起こる。考えてみてほしい。大教室で千人の学生を相手に講義をしている教員とその講義を受講している学生との間では、そもそもセクハラにつながるような関係が成立し得ない。せいぜい語学のクラス、多くはゼミや研究室・講座などのもっと狭い範囲でこそ、セクハラは起こりやすいといえる。レイプが顔見知り以上の親しい関係で多く生じていることとも似ているのかもしれない。(「レイプは見知らぬもの同士の間で起こる」というのは「レイプ神話」の一つだ。詳しくは「性暴力センター」の文書を読んでいただきたい。)
 世の大学を評価する際に、「学生と教員との距離が近い」ことをプラスに評価することがある。もちろん、そのこと自体はいいことだ。だけど、それはまたキャンパス・セクハラが起こりうる可能性を高めてもいることにも注意したい。(ちなみに福島大学は、けっこう「近い」という評価を受けている。気をつけなければいけない。)


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